守りの精霊

 男性がしばらく進むと、家に向かう分かれ道に出た。


「ここを右に曲がります」


 何とか声が出るようになってきた。体の震えも止まった。


「もう大丈夫なので、下ろしてください」


 顔を見上げて言うと、赤毛の男性はまた一瞬だけ私に目を向けると面倒そうに言う。


「のんびり歩いてると、あいつが追い付いてくるんじゃないか?」


 ぎくりとして、男性の後ろに続く道を覗いたけれど暗くて様子が分からない。さっきの恐怖が蘇り体を震わせる。今の私には走って逃げる自信が無い。このまま赤毛の男性の温情に縋る事にした。


 知らない人に家を教えてはいけない。両親もガイデルも言ったけれど、先ほどの面倒そうにしていた様子を見る限り、この人が好んで助けてくれたとは思えない。見かねて仕方なくの事だ。正義感の強い人だから大丈夫なはずだ。


 男性は私を抱えたまま坂道を上る。いよいよ私の家が迫った所で、改めて下ろして欲しいと伝えた。


「まだ幼い妹がいて、心配を掛けたくありません。何も無かったように帰りたいのです」

「ご両親は?」

「両親は数年前に亡くなって、今は妹と二人です」


 男性には私も幼い娘のように頼りなく見えるのだろう。心配するように辺りを見回した。少し離れた隣の一家は数週間前に引っ越しをした。何かあって大声を上げたとして、声が届く範囲に明かりが灯る家は無い。


「この町は、ずいぶん人が少ないんだな」

「港の閉鎖が決まってから、多くの人が新しい町に移住してしまいましたから」


 船乗りの恰好をしているのに港の閉鎖は知らなかったようで、男性は意外そうな顔をした。


「なるほどな。だから、噂に聞いていた賑わいとは違ったわけだ」

「もし、お時間がよろしければ、少しだけ家にお寄り頂けないでしょうか。何かお礼をさせてください」


 この人の船がいつ出航するか分からないけれど、さすがに今日これからという事は無いだろう。大した物は用意出来ないけれど、何か助けてもらったお礼をしたい。


 男性は迷うように視線を彷徨わせてから、軽くため息をついた。


「そうだな⋯⋯、じゃあお邪魔しようかな」


 受けて貰えた事を嬉しく思う。私はカゴからもう一度ハンカチを取り出して顔を拭った。自分を見下ろしてワンピースの乱れを整え、土埃を払った。


「髪の毛も、かなり乱れてるよ?」


 男性の言葉に慌てて手で梳いて整えた。


「ありがとうございます。あの⋯⋯私はロイダと申します。よろしければ、お名前をお聞かせ頂けませんか?」


 男性は軽く笑った。真紅の瞳が優しく細められる。


「俺はアーウィンだ」

「改めまして、危ない所を助けて頂きまして本当にありがとうございました。あの⋯⋯妹にはこの事は」

「分かってる。言わないよ」


 私は深呼吸すると、出来るだけ明るい顔を作り、アーウィンと名乗った男性を案内して家の扉を開いた。


「ヨーナ、ただいま! 遅くなってごめんなさいね」

「わああああああーん」


 飛び出して来たヨーナが、私にすがりついて泣きわめいた。


「遅かったの! ヨーナ怖かったの。窓がガタガタしたから、狼が来たと思ったの!」

「狼?」


 床には狼が子羊を襲って食べてしまう絵本が放り出されている。


「大丈夫よ、狼は来ないわ。来ても私が箒で叩きだしてあげるから」

「お姉さまは弱いから狼には勝てないわ。ガイデルさまを呼ばないと無理よ」


 私は後ろにいるはずの、アーウィンさんを振り返った。彼は数歩離れた所で興味深そうに家の中を眺めていた。


「お姉さま、泣いた? ヨーナ分かるの。泣いたでしょう」


 自分も涙でいっぱいの瞳を、じっと私に向けて言う。幼い子ならではの観察力なのだろうか。私はぎくりとする。


「嫌だわ、私はもう大人よ。外で泣いたりしないわ」

「来週の誕生日までは子供じゃない。ヨーナ、ちゃんと知ってるんだから。お姉さま、絶対に泣いた。何かあったの? 狼がいた?」


(何て言って誤魔化そう。道に迷った⋯⋯不自然ね。えーっと)


「君の姉さんは、道で転んでしまったんだよ」

「きゃあ!」


 後ろからアーウィンさんが声を掛け、彼に気が付いていなかったヨーナが私の足にしがみついた。


「ごめん、驚かせたね。初めまして、ヨーナ嬢。私はアーウィンと申します。こんなに可愛い女性にお目にかかれて光栄です」


 アーウィンさんが、物語の挿絵に出て来そうな素敵な礼をして、ヨーナに挨拶をしてくれた。


「わああ! 王子さま!」


 それは見惚れる程に美しい仕草で、船乗りの服を着ているのに、王子様と言われてもおかしくないような気品にあふれれていた。


(王子様。違うわ、精霊なのかもしれない)


 亡きご先祖が炎の精霊を連れてきてくれる、そんなおとぎ話を読んだ事がある。父と母が私の危機に遣わしてくれた精霊かもしれない。


「お姉さま、転んだところを王子さまに助けてもらったの?」


 ヨーナの声に我に返った。


「そうなの。だから、何かお礼をしようと思ってお連れしたのよ」


 ヨーナはすっかりアーウィンさんに夢中になったようで、周りを飛び跳ねた。


「王子さま、少し臭い」


 お茶を出そうとお湯を沸かしていた私はヨーナの失礼極まりない発言にぎょっとして振り返った。


(そうなのよね、この方、少し臭いのよね。やっぱり精霊ではなくて人間かな)


 恐らく船を降りたばかりなのだろう。船の上では満足に体を洗う事も出来ないと聞いている。陸に上がったばかりの船乗り達は、みな少し臭いがする。


 アーウィンさんは気を悪くした様子でもなく、少し困った顔をして自分の姿を確認した。


「俺もそう思うんだけど、宿が満員だったんだ。ここには初めて来たから、他に湯を浴びられるような場所も知らなくて。どこか知らない?」


 最後の質問は私に向けられた。


「では、今日お泊りの場所も無いのですか?」

「無い。酒場で夜を明かそうと思ってた」


 訪れる船が減り、かつては多かった宿もほとんど閉じてしまい、今は最後の一軒が残っているだけだ。そこが満員だとしたら、野宿するか酒場で夜を明かすしかない。それでは体が休まらないだろう。


「もしよろしければ、この家にお泊りになりませんか? 狭い所ですが酒場より体が休まると思います。お湯も沸かしますから湯殿で汗を流して頂けます」


 この家の裏手にある清流から水を引いて浴槽にお湯を沸かせる設備を備えている。これは祖父がこだわって作った自慢の湯殿だ。


「それは嬉しいな、助かる。ありがとう」


 食堂の椅子に腰掛けていてもらい、私はお湯の準備をした。浴槽いっぱいの量を沸かすには少し時間がかかる。夕食を召し上がっていないとの事なので、作っていた物をお出しした。


「簡単な物で申し訳ありません」


 肉と野菜を煮込んだ物と、木の実を混ぜ込んだパンを出してみた。精霊だったら食事をしないかもしれないと思って観察したけれど、アーウィンさんは嬉しそうに口にしてくれた。


(やっぱり人間だ!)


「俺が乗って来た船は、調理人がいないから干し肉と干からびたパンばかりだったんだ。本当に美味しい」


 お代わりしてくれたので、お世辞ではなく、本当に美味しいと思ってくれているようだった。そうこうしているうちにお湯が沸いた。道具を何も持っていないようなので、石鹸とタオルをお渡しする。


 その間に、ヨーナにも食事をさせていると鼻歌が聞こえてきた。


「王子さま、ご機嫌ね」


 ヨーナも嬉しそうだ。着替えも無さそうなので、父が試作で作っていた服の中からアーウィンさんの体格に合いそうなものを選び出した。仕立て屋だった父は研究熱心で、色々な素材で試作の服を作っていた。捨てきれずに残っていたものが役に立った。


「アーウィンさん、ここにタオルと着替えを置きますね。よろしければお使い下さい」


 声をかけると『ありがとう!』とご機嫌な声が聞こえた。


(問題は寝る場所ね、どうしたものかしら)


 この家には寝室が一部屋しかない。アーウィンさんに寝室を使って頂くとして、私とヨーナの寝る場所が問題だ。幸い薄い毛布を掛ければ寒くない季節だから、仕事部屋の床に毛布を何枚か重ね、その上で眠ると決めた。


「きゃあ、王子さま、びっしょびしょ!」


 ヨーナの悲鳴のような声に、慌てて湯殿の方に向かうと、服を着たアーウィンさんは髪の毛から水を滴らせていた。


「タオルでよく拭いて下さい!」


 急いでもう一枚タオルを渡すと、ぎこちなく頭を拭き始めた。先ほどまで後ろに束ねていた、肩にかかるくらいの長さの髪からはとめどなく水滴が落ち続ける。全く水分を拭き取れていない。まるでヨーナを見ているみたいだ。


 椅子に腰掛けてもらって後ろからタオルで拭いてあげた。


「ありがとう。気持ちいいな」


 無邪気に喜ぶ姿を見ると、ヨーナが二人になったような変な気分になる。


(この人、本当に船乗りなのかな)


 荒さを感じないし、立ち居振る舞いが妙に落ち着いていて仕草が美しい。


(人間ということは確かみたい。それなら、どこかのお金持ちか、ひょっとしたら貴族のご子息だったりして。まさか本当に王子様?)


 そう思うと、アーウィンさんなどと呼んではいけない気がする。


(アーウィン様、かな? それなら誰だとしても失礼にあたらないかな?)


 髪を拭いてあげた後、お茶を出して座っていてもらう。その間にお湯を入れ直してヨーナを入浴させた。いつもの習慣で私も一緒に入浴を済ませる。アーウィン様は食堂の窓から海を眺めながら、ぼんやりとお茶を飲んでいた。


「お疲れなのにくつろげませんね。寝室にご案内します」


 今日はいつもより遅くなってしまった。うつらうつらするヨーナを食堂の椅子に座らせて寝室に案内した。扉を開くと、ヨーナが勢い良く走って来て普段寝ている寝台に飛び込んでしまった。


「ヨーナ、駄目よ。今日はここで寝ないの。私の仕事部屋に行ってちょうだい」

「やだ! お姉さまの仕事部屋に寝る場所なんて無いじゃない!」

「ヨーナ、やめて!」


 急いでヨーナを寝台から抱き上げて部屋の外に出すと、もう一度、寝具を整えた。


「申し訳ありません。狭い家なのでお騒がせしてしまって。寝具はちゃんと洗濯した物に換えてありますから」


 アーウィン様は困ったような顔をしてヨーナを見た。ヨーナは目に涙をためて名残惜しそうに寝室を眺めている。私は急いでアーウィン様からヨーナの顔が見えないように抱き上げた。


 アーウィン様は、寝室を覗くと遠慮がちに言った。


「家主を追い出す気はないよ。もし君達が嫌じゃなければ、これだけ大きい寝台だから一緒に眠ろう」


 父は寂しがり屋だった。だから、部屋いっぱいの大きな寝台を使って家族全員で眠っていた。両親が亡くなった後は、祖母と私とヨーナの三人で眠っていた。体が大きいアーウィン様が一緒でも、窮屈な思いをさせなくて済むとは思う。


「でも、そんな事をしたらご迷惑でしょう。ヨーナは寝相がいいとは言えませんし、アーウィン様の眠りをお邪魔してしまいますから」


 仕事部屋に引き上げようとする私から、アーウィン様は『おいで』とヨーナを抱き取った。


「ねえ、俺も君達と一緒に眠っていいか?」

「王子さま、いい匂いになったから一緒に寝る!」


 ヨーナがご機嫌になって、アーウィン様の首にしがみついた。


「ほら、お姫様がこう言うんだからさ」

「ありがとうございます」


 私はお言葉に甘えることにして、仕事部屋に寝具を取りに行った。


 戻って来たときにはもう、二人とも寝息をたてていた。

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