油断が招き寄せた危機

「ありがとう、ありがとう、ありがとう」


 何とか夜に差し掛かる頃にはジュディさんの家に届ける事が出来た。仕上がった刺繍を見てジュディさんと彼女のお母さんが泣き崩れた。美しく輝く布を広げてお父さんも涙ぐんでいる。


「ロイダさん、本当にありがとう。このお礼はまた改めてさせて頂くから」

「そんな事は後で結構です。急いでください!」


 雨が上がったとはいえ、まだ道がぬかるんでいる所もあるだろう。夜通し馬車を走らせるのだから、少しでも早く出た方が良い。


 慌ただしく出発する一家に手を振って見送り、私は大きく息をついた。


「やあったー!」


 仕上がった布を思い返す。金の糸と銀の糸を織り交ぜて、動きに合わせて華やかに光を放つように仕上げた。ヨーナが大人しくしていてくれたおかげで集中出来て、とても数時間で作ったとは思えない出来栄えだったと思う。私は達成感で胸いっぱいになり、最高に幸せだった。


 そこに油断が生まれたのだと思う。


 普段なら、日が暮れて人通りが減る時刻に一人で歩いたりしない。治安が悪くなる前であっても、気が荒い船乗りが多い町なのだから酔った人間も多い。幼い頃から気を付けてきた事だった。


 すぐ近くの仕立て屋に寄って誰かに送ってもらうべきだった。でも、浮かれた気分の私は慣れた道だと油断して一人で家に向かった。留守番をさせている幼いヨーナを待たせたくない気持ちもあった。


 急ぎ足で町を通り抜けて家に向かう。以前ならまだ人で賑わっていた時間なのに、道端に座り込む酔っ払いや柄の悪そうな人間しかいない。引っ越しをして空になった店ばかりの町並みは、月が雲に隠れた今日のような日には廃墟のように見える。


(嫌な雰囲気。仕立て屋に寄れば良かったかもしれない)


 少しの後悔は、次の瞬間に深い後悔に変った。


「!!!」


 強い酒の匂いがすると思ったら何かが鼻と口に勢いよくぶつかり、急に呼吸が苦しくなった。倒れそうな強さで後ろに力を掛けられ、均衡を崩した体が建物の陰に向かって進んで行く。


「あんた、いい匂いがするなあ」


 割れた嫌な声が耳元で響き、自分が男に引きずられている事を知った。私は男に後ろから腕で抱え込まれて、建物の陰に連れられて行こうとしている。


(嫌だ! 離して!)


「――!」


 助けを呼びたいのに悲鳴が声にならない。口元を強く押さえられていて呼吸すらままならない。懸命に口元に回された腕を外そうともがいても、力が強くてびくともしない。腕の力はどんどん強くなり息が出来なくて苦しい。顔が熱くなり涙が出て来る。


(苦しい、離して!)


 苦しい、苦しい。視界が霧に包まれたように白くゆらぎ、強い鼓動が音となって耳を打つ。周りの全てが霧のように遠ざかる。


「おい、待て!」


 凛とした声が鋭く響き、私の意識を引き戻す。腕の主がびくっとして緩んだ隙に私は大きく呼吸をした。


「諍い事は面倒だ。さっさと、その女性を離して立ち去れ!」


 しかしすぐに、先ほどよりも強く腕で押さえ込まれる。


「何だよ、兄さん。あんたもこの女を狙ってたのか? じゃあ、一緒に楽しもうじゃないか」 


 耳元で、ねっとりとした気味の悪い声が聞こえる。呼吸が出来ない苦しさと、強く押さえられた痛みで涙が止まらない。男の腕を外したいのに、手先がしびれて動かない。


 ガゴッ!!


 鈍い音と共に私は地面に投げ出されて、呼吸が出来るようになった。うつ伏せになり、腕で体を起こして必死で呼吸をする。喉が痛い。上手く息が吸えなくて咳き込んでしまう。体が震えて、どうやって呼吸をすれば良いか分からなくなってきた。


(助けて、お父さま、お母さま!)


 何度も咳き込むうちに、力強い手が私を軽々と持ち上げるように立たせると、呼吸を助けるように背に手を当てて、やさしく撫でてくれた。添えられた手を意識して大きく息を吸い込む。吐き出す、また吸い込む。


 何度か繰り返しているうちに、涙がぼろぼろとあふれ出て来た。


「大丈夫か?」


 支えてくれている人が声を掛けてくれるけれど、全身が震えて、涙が溢れて、呼吸をするのが精一杯だ。前が見えない。せめて涙を拭いたい。辺りを見回してぼやける視界の中で足元に転がるカゴに気が付いた。よろける足を踏みしめて、震える手を押さえるようにして、中からハンカチを取り出し顔を拭った。


「あ、あの」


 お礼を言いたいのに、喉が痛くてまた咳き込んでしまう。その人は、また私を支えると背中をゆっくり撫でてくれた。


「落ち着け、大丈夫だから」


 上手く声が出せない。見上げると、炎のように赤い髪と瞳が目に入った。暗い中で燃える炎のような美しい赤。


 視線が吸い込まれて、時が止まった。今までに見た中で一番美しい赤。私はこんな時でも、この鮮やかな色を表現する糸を頭の中で探してしまう。


 その時、地面に転がった男が身を起こそうと体をよじった。


(嫌だ! 来ないで!)


 後ずさろうとしたけれど、体に力が入らず転びそうになってしまう。すると、赤毛の男性は私をひょいと抱え上げて、そのまま歩き出した。


「あの男が起き上がる前に行くぞ。安心出来る所まで送ってやる」


 腕から下りようと体に力を入れたけれど、さっきの男が起き上がって逆上したらと思うと恐ろしくて仕方ない。さっきの男よりも、確実にこの赤毛の男性の方が信頼できる。


「あの、ありがとうございます」


 何とか声を絞り出すと、男性は燃え上がる松明のような瞳を少しだけ私に向けて、深く息をついた。面倒な事に巻き込まれたと思っているのだろう。申し訳なくて空気に溶けて消え去ってしまいたくなる。


「ご迷惑を、お掛けして申し訳ありません」


 ヨーナの事を思い出す。一刻も早く家に帰らなくてはならない。それに、家に帰るまでには泣いた顔をどうにかしなくてはならない。


 私は少なくとも震えだけは止めようと懸命に呼吸を整えた。

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