第6話 彼は彼女に餌付けをする

「ふわあ〜……餡子と生クリームのまりあーじゅ♪ ふふふ」


 いつの間にか強く吹いていた北風は弱まり、差し込む日差しが熱く感じられるようになった頃。

 人気のなくなった中庭の一角で、満面の笑みで伊月鈴音があんぱんにかじりつく。その目の前で、司は彼女の顔をまじまじと観察していた。

 既に時は午後の授業の時間になっていたが、伊月鈴音は噂通り授業に行くそぶりを見せなかった。司も叶奈に「腹痛で保健室に行ってるって先生に言っておいて」と即座にメールしてサボりを選択してしまった。それほどに、伊月鈴音は司にとって魅力的な女子だったのだ。もちろん、百合的な意味で。

(見れば見るほど……マイベストオブ百合漫画の『はなとすず』の『すず』そのものだ……伊月鈴音……百合の申し子にこの僕が三ヶ月もの間、全く気づかなかったなんて……)

 くっと、悔し涙を内心流す司をよそに、あんぱんに夢中になっていた鈴音の、まあるい鈴を思わせるような琥珀色の目が彼の方へ向けられた。

「通りすがりの生徒会員くん」

「あっ、はい」

「君はちっぱいでも構わないのかね」

「すみません、日本語で話して頂きたいのですが」

「先ほど、君はあたしのスカートを覗き込もうとしていたでしょう? で、対価としてあんぱんを持っていた。つまり、君はあんぱんと引きかえにあたしとウフフなことをしようと交渉しに来た……と思っていたけど、違うかね?」

「断固として否定します。というか、その特徴的な喋り方は素ですか? さっきとは随分印象が違うように思いますが」

「……ううん、お姉ちゃんの真似。もう疲れたから止める。あむ」

 途端に芝居掛かった口調を止めると、鈴音は再びあんぱんにかじりついた。

「じゃあ、僕も同学年だから敬語止めときます」

「んー、いーよ」

「で、本題に戻るけど。僕は副生徒会長の小花先輩から頼まれて」

「あたしとあんぱんでえっちなことをしに来た、と」

「違います。事実無根です。以後、口にしないようお願いします」

「はーい」

 素直に挙手する鈴音。その琥珀色の眼差しにからかいの色が浮かぶのを苦々しく思いながら、司は咳払いした。

「僕は小花先輩から、君の現在の生活状況について調査して欲しいと頼まれたんだ。食事をきちんととっているかとか、身なりをきちんとしているか……とか、そういったことを知りたいんだと」

「ふぅん」

 鈴音の表情に動揺の色は見えず、あんぱんを食べる口元もしっかり動いている。彼女にはこの謎の依頼の理由がある程度検討がつくのか、それとも興味がないのか――気にはなるが、司は続けた。

「それで、君は……」

「ご飯は、昨日から食べてなかったよ」

「え」

「冷蔵庫からっぽだし、おやつも全部食べちゃったし。お金もないからねえ。……だから、君のあんぱんは本当に助かったよ、ありがとう生徒会員くん。君は命の恩人だ。これで今晩くらいは乗り切れそう」

「今晩くらいって……君、もしかしてホームレス?」

「ううん、お姉ちゃんと二人で一軒家暮らし。お姉ちゃん、二週間くらい旅行に行ってるから、今はあたしだけ」

「一軒家に住んでて、何で食事に困るほどお金がないんだ」

「お金は全部お姉ちゃんが管理してるから。あたしはお小遣い分しか使えないの。で、今月のお小遣いはすっからかんになって、お金も自分じゃ下ろせないので無理なのです」

 のんびり笑いながら、それでもあんぱんを食べる手は休めない。

 聞いていた以上の変わり者っぷりに、司は唖然としながらも尋ねた。

「そ、その他は大丈夫……?」

「その他?」

「洗濯とかゴミ出しとか……あるでしょ、やること」

「洗濯機、回したことないからしたことない。お陰で下着が足りなくて、お姉ちゃんのこっそり借りてるんだ。帰って来たら怒られるから、それまでにはしないと」

 道理でセクシーすぎる下着を身につけていたわけだ。一瞬浮かんだ考えを司は無言で捻り潰しながら質問を続けた。

「……ゴミ出しは?」

「全然?」

 こて、と首を傾げる鈴音。その整った容姿の背後で、凄まじい状況に陥った一軒家が見えた気がして、司はメガネを掛け直した。

(なるほど。所謂、『何にもできない系女子』か。漫画では稀に見るけれど、三次元では初めてだな)

「は〜、美味しかった。ごちそーさまでした」

「君、これからどうするの?」

「さあ? 君みたいに優しい『通りすがりの生徒会員』さんがしょっちゅういるとも限らないし……そろそろ、『ギブアンドテイク』で、ご飯をゲットしないと」

「『ギブアンドテイク』って、一体何を対価にするつもり?」

「んー……カラダ?」

「か……」

 ぴらぴらと赤茶のチェックスカートの端をひらつかせる鈴音。そのえげつない返答に、司が言葉を詰まらせた。

「それが一番手っ取り早いし、何よりあたし、他に取り柄ってないから」

「ほ、他に平和的な選択は……」

「お姉ちゃんが帰って来るまで持てばいいけど、あと何日かは帰って来ないし……やっぱり、お腹空いたら我慢できない」

 危機感のないのほほんとした鈴音の笑顔に、司は開いた口が塞がらなかった。

 なるほど、噂の援助交際を仕掛けてくる、というのはこの彼女の態度から来ているようだ。中身は変わっているが見た目はやっぱりいいので、男子はその体と引き換えと言われたら何でも美味しいものを奢ってしまいそうだ。実際、この手口でどのくらいの男子をたらし込ませたのだろうか、とつい下世話な方向に考えてしまった司は、無言で心の自分を殴った。

「あ、そうそう。君にも何か対価をあげなくっちゃ」

「えっ」

「『ギブアンドテイク』。何か貰ったら、その分を返しなさい。それが伊月家の掟だから」

 そう告げて、鈴音がずいっと身を寄せてきた。吐息が触れてしまいそうな距離感に、司は再び大汗を掻いた。

「あんぱん、美味しかったから、その分何でもする。何が良い?」

「……」

「あ、ごめん。一つ言っとくけど、あたし初めてだから。だから、ヘタクソなのは我慢して」

 鈴音が顔を近づけると、首元の鈴がちりんと鳴る。

 この状況に不釣り合いな爽やかな音色を聞きながら、司は咄嗟に声を上げた。

「っ、君の家に行きたい!」

「ほ?」

「あんぱんの対価に、君の家に招待して欲しい」

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