第2話 彼女は今日も青春の汗を流す

 バスケコートにすとん、とボールが落ちた瞬間、叶奈の口から零れたのは重いため息だった。

「叶奈がまた追いついた!」

「頑張って、プリンス!!」

 コート外から聞こえてくる黄色い声援を、叶奈は聞かなかったことにする。 

 壁にぶつかって動きを止めたボールを取りに行こうとした叶奈の前に、希が立ちふさがった。

「っもぉ、また追いついた……さすが叶奈だね」

「……ま、まぐれだから、今の……」

 汗だけではない輝きを纏った希の笑顔に、叶奈はぎこちなく視線を逸らす。

 次の瞬間、ひゅっと風を切るような音が叶奈の耳を掠めた。

 その音が何か理解する前に叶奈は反射的に腕を伸ばし、胸元に飛び込んで来たボールを掴む。再び叶奈の視界に入って来た希は挑発的に笑い、ぐっと親指を立ててみせた。

「そんな謙虚な台詞、次で吐けなくさせるからねっ!」

「……お、お手柔らかに……」

 ゴールを背にした希に、叶奈は二度目のため息を必死に堪え、受け取ったボールをバウンドさせた。

(次はちゃんと、『外さなきゃ』)



「朝からナイスファイトだね、さっすがプリンス!」

 希との1on1を勝利という形で終わらせ、コートから出た叶奈に掛けられたのは、例の『不名誉な』あだ名だった。

 内心ぎくり、としつつも、頬を上気させて嬉しそうに自分に笑いかける同級生に嫌な顔を向ける訳にもいかず、叶奈はとりあえず笑ってみせた。

「あ、ありがと……」

「叶奈ちゃん、普段は女の子らしくて可愛いのに、バスケボール持つとイケメンになっちゃうよねえ。女の子にしとくのがもったいないくらい!」

「あ、あはは……」

 ぐさぐさ、と容赦なく無邪気な賞賛と言う名のナイフが叶奈の心を抉る。

 そのダメージを乾いた笑いで必死に誤魔化していると、叶奈の右隣にどさり、と希が座り込んだ。

「いやー負けた負けた〜。はいっ」

 満面の笑みでスポーツドリンクを差し出す希に、叶奈は体が強ばるのを感じながら更に引きつった笑みで受け取った。

「あ、ありがと……」

「最初はいい感じに突き放せたんだけどなあ、ちょっと調子に乗っちゃったね。やっぱ叶奈相手に油断は禁物だなあ」

 腕を組んでうんうん、と一人頷く希。その笑顔に数分前、叶奈に僅差で負けた悔しさは見えない。

 潔い態度の希に、すかさず部員たちから声が掛けられる。

「希もかっこよかったよ!」

「そうそう! 叶奈ちゃんと並ぶ期待のルーキーなんだから、自信持って!」

「あはっ、サンキュー!」

 ちゅっと投げキッスをした希に、部員たちが一際大きな黄色い声を上げる。叶奈と違って、自分に黄色い声を上げる彼女たちの姿に、希は嬉しそうな笑顔を浮かべている。爽やかな横顔を見つめながら、叶奈は膝小僧に顎を乗せた。

(希ちゃんみたいに振る舞えたら楽だよね……実際、中学生まではわたしもそうだったし)

 脳裏を掠めた『黒歴史』に、叶奈は頬が赤らむのを感じて、慌てて首を横に振った。

「ね、叶奈」

 不意にこっちを振り返った希に、叶奈はびくりと大きく肩を揺らした。

「な、何?」

「さっきの試合、本当は負けるつもりでいたでしょ」

 声を低くして囁きかけた希に、叶奈はどきり、とした。

「な、何でそう思うの?」

「だって、最初からあんなに差がつくはずないよ。本気の叶奈だったら、最初からぼくに点を取らせない」

「そ、そんな、ことは……」

 たじろぐ叶奈に、希がずいっと体を寄せてくる。

 ぴたり、と二の腕が触れ合い、希の吐息が叶奈の頬を撫でる。真剣な希の眼差しに、叶奈は思わず息を飲んだ。

「言ったでしょ。中学の時の叶奈の試合は全部見に行ってたって。だから、叶奈の強さはぼくが一番知ってる自信もある」

 至近距離にある希の眼差しは鋭く、少しでも触れたら頭から食べられてしまいそうな気迫があった。口元は親しげに笑っているだけあって、眼差しの鋭さはより際立っている。

「どうして手加減したの?」

 叶奈は息苦しさを覚えながら、ゆっくりと口を開いた。

「……て、手加減なんかしてないよ。あれがわたしの今の実力」

「本気で言ってる?」

「うん。中学の時とは、ちょっと感覚が変わっちゃったっていうか」

「嘘」

 きっぱりと否定され、叶奈は「う」と微かに呻いてしまった。

「最初はそう思った。でも、さっきの1on1、最後の最後で、叶奈、本気出したでしょ。あれを見て思ったんだ。叶奈は弱くなった訳じゃない、僕に手加減したんだって」

「……希ちゃんは、わたしのこと買いかぶりすぎだよ」

「認めてくれないんだね。じゃあ、ぼくも認めるしかないか。今の叶奈はほんとに変わっちゃった、中学までの強かった叶奈じゃないんだって」

 どこか寂しさを含んだ希の言葉に、叶奈は黙って頷く。

 希はしばらく何も言わなかったが、やがて勢い良く立ち上がった。

「分かった! じゃあ、ぼく、頑張るよ」

「へっ」

「叶奈がまた本気を出してくれるよう、練習する! 本気じゃない叶奈に負けてるようじゃ、まだまだだからねっ」

「え」

「おーい、ぬまっちー! ドリブル練習付き合って〜!」

 戸惑う叶奈をよそに、元気を取り戻した希が再びコート内へ入って行く。同時に沸き上がる女の子たちの黄色い歓声。再び舞い上がるバスケットボールを視線で追いかけることなく、叶奈はがっくりと項垂れた。

(高校生になれば何かが変わるかもって勝手に期待してたけど、やっぱりそう上手くはいかないよね……)

 脳裏に浮かんだのは、今朝、別れたばかりの司。

『リボン、似合うよ』

 その言葉は今も甘く叶奈の胸の中に響いているが、あの時のように素直に喜ぶことはできなかった。

(これじゃ、中学の時と変わんないよ……)

 司への甘い気持ちを塗りつぶすような黒歴史と周囲の歓声に、叶奈はきゅっと唇を噛んだ。

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