第25話
雫の太ももに包帯から雨水が染みてきて、ピリピリとした痛みを感じる。これでも、かなり痛みは弱まりつつあった。
スーパーの駐車場を、スーツ姿の男たちがぞろぞろと歩いていく。誰も吹き付ける雨を気にしていない。視界は相変わらず、夜のように暗くどんよりとしていた。反対側に秋たちが乗ってきた黒いワゴン車が見える。それにも黒いスーツ姿の男が張り付いていて、市川先生は制圧されていたようだった。
男たちが目指す先は、駐車場の端に停めてある大型トラックだ。それは特殊な加工が施されており、例え爆発に巻き込まれたとしても傷つくことはないと、上杉がエレベーターの中で自慢していた。
その上杉が、先頭を歩いた。彼は決して振り返らず、ただ前を向いて同じペースで歩みを進める。そのため、表情は分からない。
その後ろに駅員さんに担がれた雫と、ゴツイ外国人の男に担がれた優音が続く。二人とも生気の無い顔をしていた。そしてそのさらに後ろから、美波の体が俯いたままついてきている。そんな周りを、スーツ姿の男たちが取り囲むようにして行進していた。
秋は今、駅員さんの肩の上で力なく担がれている。もう、全てが終わってしまったのだった。秋は負けたのだ。やっぱり上杉は敵う相手ではなかった。運命に抗うことは間違っていた。それを知ることが出来ただけでも意味があったのだろうか。もう何もかもがどうでもいい。
頬を雨なのか涙なのか分からない水滴が次から次へと伝って行き、前髪の先からコンクリートへと落ちていく。
この雨が、秋を溶かしてくれればどれだけ楽な事か。
そのときパッと空が光り、数秒後、空に稲妻が走った。さらにそのすぐ後、あたりに轟音が鳴り響く。
これが雷か。もう二度と経験することはないだろうが、特に何の感慨も湧いてこない。
もう考えることにも疲れてしまった。何でもいいから、もう休ませてほしい。施設の生活も悪くないんじゃないか。次第にそんな思いが頭の中に浮かんでくる。施設の中では、お腹が空くこともなければ欲しいものは大抵手に入る。小説を読む時間だってあるし、サッカーやヴァイオリンや勉強だって、突き詰めるには最高の環境が用意される。そうだ。自分の運命も悪くないじゃないか。秋はそうやって自分を納得させようとするが、虚しさだけが胸に響く。終わった。もう全てが終わったのだった。
ふと、駅員さんの腰に付いたガンホルスターに視線が移る。その中には、銀色の拳銃が収められていた。
秋は何も考えず、その拳銃に手を伸ばす。本当に無意識のうちの行動だった。
そのとき、雫の頭の後ろから声がする。
「まだ、そのときじゃない」
声は雨音でかき消されてしまいそうなほど、小さなものだった。しかし、雫の耳には確かに届く。
秋は声のした方を雫の体を捻じって、振り向いた。すると、続けて声が聞こえてくる。
「言ったでしょ。私は味方だって」
声の主は駅員さんだった。彼女は前を向いたまま、話し続ける。秋の位置からは横顔しか見られないけれど、表情筋が全く動いていないのが分かる。どうやら腹話術を使っているようだった。
「今その拳銃を持って暴れたところで、引き金を引く前に制圧されるだけ。周りの男達の意識を君から逸らさなければいけない。そして、それが出来るのは君じゃない」
駅員さんの囁くような声は、秋の脳裏へと直接語り掛けてきた。そして駅員さんは言い終えると、雫を担ぎなおすようにして、僅かに雫の体の角度を変える。
すると視界の中央に優音が現れた。優音は相変わらず虚ろな目で、外国人のスーツ男に担がれている。
その横顔を見て、心臓が早鐘を打つ。その生気を失った顔でさえ、優音は美しかった。
胸にほんのりとした火が灯った気がする。
そのとき、脳裏にいくつもの記憶が流れ込んで来た。初めて会った日、数学の早解き、トランプ、スポーツ大会、優音の過去。それだけじゃない。武男や、赤木、勝夜や松下。様々な人物の顔が頭に浮かんでは、秋の記憶を鮮烈に彩っていく。
施設にいた頃の思い出に、これほどの色彩があっただろうか。施設の中はいつも無機質だった。色の無いモノトーンの世界だった。そんな世界はもう嫌だ。
秋は心の中で強く叫び、願う。二分の一重人格なんて知らない。僕は望んで研究されている訳じゃない。僕が望むのは、ただみんなと一緒にいること。そして、優音の笑っている顔をもう一度見ることだ。
そのとき、強く吹き付けてきた雨風が途端に勢いを失った。小雨が、まるで雫を包み込むかのように降り注ぐ。
そこで秋は声を上げる。雫の、優しい音で。
「優音っ‼」
優音がおもむろに、首を傾けた。そして、力なく雫の方を振り向く。呼ばれたから反射的に振り返っただけ。そこに優音の意志はなかった。まだ優音の瞳は色を失ったままである。
それでも、秋は構わなかった。あの時、結局伝えられなかった想いを、今ここで優音に吹き込む。そのことに迷いは一切ない。
「好きだ」
そのとき、優音の目が見開いた。その目は色彩を取り戻し、ようやく現実世界を映し始めたようである。そして優音は動揺し、視線を彷徨わせると最終的に雫の方を見た。
二人の視線が交錯する。そこからは二人だけの時間だった。
「優音、確かに君は大切な友達を傷つけてしまったのかもしれない。でも誰にだって間違えてしまうことはある。そして君は、自分が間違えたことを知っている。それだけで十分じゃないか。だから自分を責めないで。僕は本当に、君の笑顔に救われてきた。きっと、僕だけじゃない。君の優しさはこれからもたくさんの人を助けるはずだから」
すると優音は何かを考え込むように下を向いた。
「この土壇場で愛の告白、泣けてくるね」
上杉が首だけで後ろを振り返った。だがその声は優音にも雫にも届かない。
雫は優音を見ていた。ただ想いが伝わることを信じて。
そのとき、優音の瞼から一滴の雫が垂れた。優音はその雫を目で追うと、じっと地面の一点を見つめながら、必死に何かを考え始める。その表情が時折、苦しそうに歪む。
雫と美波を輸送するためのトラックは、もう目前に迫っていた。優音は何かに耐えるように、奥歯を噛みしめている。きっと自分自身を責めたい気持ちを必死に堪えているのだ。自分を責めることは簡単だけれど、それは何も解決しない。
どこからか、温かい風が雫の頬に吹き付けた。それと同時にどこからか遠雷の音が聞こえてくる。遠雷は何かを祝福するように、雨雲を鳴らしていた。
それを合図に、優音がパッと顔を上げる。そして、男の肩の上で、ジタバタと暴れ必死に男から逃れようとした。
男は、優音を抱える手に力を込めて、優音を何とか押さえつけようとしている。
そこで優音は身を捻ると、男の腕に思いっきり噛みついた。男の意思とは反対に、その手から力が抜け落ちていく。
優音は地面に降り立った。そして、周囲を取り囲むスーツの男たちの間を縫い、駐車場のフェンスに向かって駆け始める。
男たちは一瞬呆然とそれを眺めていたが、すぐに銃を取り出し一斉に優音へと向けた。
だがそれよりも早く、秋も雫の体で拳銃を掴む。ここでやるしかない。秋は心の中で覚悟を決めた。もう躊躇しない。必ず殺す、と。
秋は拳銃手に取ると、駅員さんに雫の体を降ろしてもらう。
そこでようやく異変に気が付いたのか、上杉が足を止めて後ろを振り返った。
雫と上杉の視線がぶつかる。その後上杉は、雫の手に握られている銀色の銃に目をやった。さらに、遠くに走り去ろうとしている優音にもチラッと視線を送る。
一通り状況を把握した上杉は、再び雫を見た。そして、あの憎たらしい笑みを顔に張り付ける。
「全く君たちはどこまでわがままなんだ」
そう言うと上杉は、雫に向かって大きな一歩を踏み出した。一気に二人の距離が縮まる。そのせいで、上杉が急に大きくなったかのように見えた。
「君に、私が撃てるのか?」
上杉が余裕の笑みを浮かべている。
「私を撃てば、君は自由だ」
秋は銃口を、上杉の眉間に向ける。上杉は口角を上げたまま、雫の目を真っすぐに捉えていた。
「さぁ、どうする?」
気が付けば、周囲の男たちの銃口が優音ではなく雫に向いている。
だが秋は臆することなく、銃口を真っすぐ上杉へと向け続ける。雫の目からは、明らかな殺意が溢れ出ていた。
そこで上杉から笑顔が消える。
「まさか」
上杉が目を見開いた。そして雫の前で硬直する。雫の瞳の奥を探ろうとしているが、上手くいかないらしい。初めて、上杉の目に恐怖の色が現れた。
そこからのことは一瞬だったかもしれないし、とてつもなく長い時間だったのかもしれない。
秋は自分自身に問いかける。もう十分に足掻いたか、と。答えはノーだ。まだやることが残っている。どんな結末になろうと、秋は最後まで諦めない。それが大切だと学んだんだ。そうすればきっと、運命だって超えられる。秋はふと、雫の体で笑みを浮かべた。
そのとき、雫の耳から音が遠ざかった。視野が狭くなり、上杉の顔だけがはっきりと見える。さっきまで、動悸がしていた心臓が今は穏やかに脈打っていた。
秋は雫の体を完全に支配したかのような感覚に陥る。全ての細胞が自分の意のままに動く気がした。これが極度の集中状態なのかもしれないと、客観的に見ている自分さえいる。
秋は拳銃をしっかりと握った。そして、引き金に指をかける。いつの間にか雨は止み、分厚い雲の隙間から日差しが伸びてきて駐車場を照らした。秋は温かいものを、頬に感じる。それはすぐに胸へと溶け込んできた。今まで、ありがとう。
その瞬間だった。
バンッと銃声があたりに鳴り響く。その場の誰もが時が止まったかのようにその様子を眺めていた。
永遠とも思える沈黙の後、上杉が後ろに倒れ尻もちをつく。そして秋は、自身の胸に激痛を感じた。
あまりの痛みに、意識が強制的に美波へと移る。
秋は雫の体で、美波の心臓を撃ち抜いた。最初からこうするべきだったのかも知れない。秋が欲しいのは二つの体ではなく、大切な人がいる普通の暮らしだけだった。
美波の体は、地面に立膝をつくと、全身が二つに裂けてしまったかのような痛みに襲われる。呼吸さえ、まともに出来なかった。やがて全身から力が抜けていくのを感じる。胸からは血が垂れ落ちて、すでにコンクリートにできた水たまりが血に染められ始めていた。
その場にいた誰もが驚き、フリーズしている。しかし、上杉だけはいち早く状況を理解し、立ち上がると、美波の下へと駆け寄って来た。
美波の意識が遠のき始める。もう立膝をついているのも限界だった。美波の体が傾く。それを、上杉が支えようとした。だが、秋は美波の体に残っている最後の力を振り絞って上杉の手を払いのける。
直後、美波の体がコンクリートに横たわり、目を閉じた。そして二度とその目が開かれることはない。
秋の意識が強制的に移動する。
秋は雫の視点から、美波を見た。美波は笑っている。その顔は安らかに眠っているようであった。
そのとき、上杉が怒りの咆哮を上げる。その目は充血し、雨に濡れたコンクリートに拳を叩きつけた。
「よくも、よくもっ」
上杉が、唾をまき散らす。そして膝を震わせながらも、雫に殺意を込めた目線を向けて立ち上がった。
そして上杉は、懐から漆黒の拳銃を取り出すと、銃口を雫に向ける。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇーっ‼」
上杉は叫ぶと同時に、引き金を引いた。その瞬間、秋は理解する。自らの死を。最初は驚いた。結局、こうなる運命だったのかと。でも、不思議と後悔はなかった。自分でも驚くほど、穏やかな気持ちである。自分はやれるだけのことをやったのだ。そんな自信があったからかもしれない。秋は目の前に迫った死を満足と共に迎え入れる。はずだった。
その瞬間、雫の目の前に人影が飛び込んで来る。そして直後、ブシュッと銃弾が人体を抉る音が雫の耳へと届いた。目の前の光景が、写真のように固まる。
秋は慄いた。銃弾を受けたのは自分ではない。優音だった。
優音が力なく、雫の腕の中へと倒れこむ。秋は優音を必死に支えながら、彼女の名前を何度も叫んだ。だが、優音は意識が朦朧としているのか、目を薄っすらと開けたまま微笑んでいる。
「雫君」
優音の口から、吐息のように細やかな声が漏れる。
「私も、好きだった」
そこで優音は満面の笑みを雫に向けると、その腕を雫の首へと回した。そして残る力のすべてを尽くし、上体を持ち上げる。
優音は雫に、自らの唇を重ねた。
雫の腕に、ずっしりとした重みが乗っかる。優音は笑ったまま、息を引き取った。
その顔はとても満足そうで、嬉しそうで、幸せそうだった。
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