第24話
相変わらず、廊下は白い床に白い壁で、似たような景色が延々と続いている。地下二十一階は静かだった。驚くほど何もない。人の気配も一切しなかった。
秋は吸い込まれるように、コンピュータールームへと向かっていく。自身の足音と心拍音だけがこだまする。
途中で、黒く焦げた壁が現れた。秋はその前で一瞬だけ立ち止まると、またすぐに歩みを進める。
自然と美波の足が速まっていった。
動悸がするせいか、呼吸が浅くなる。秋は拳を強く握りしめた。
するとやがて、コンピュータールームに辿り着く。秋は恐る恐る自動ドアの前に立った。すると、扉がゆっくりと開く。中には誰もいなかった。コンピューターも電源が落ちているようである。
窓ガラス越しに、電気椅子にぐったりと座っている雫の姿が目に入った。雫は灰色の短パンに白い無地のTシャツという、施設の中での定番の格好である。目にはアイマスクと、耳にはヘッドホンのような機械を当てられていた。そして、手足と胴体ががっちりと電気椅子に固定されている。
秋は美波の体を進め、電気椅子の部屋へと繋がる扉の前に立つ。すると、扉はプシュッという音とともに、横へスライドする。今までに感じたことが無いほど、心臓の拍動が早まっていた。
秋は電気椅子の部屋へと足を踏み入れる。そのとき、明らかに美波を取り巻く空気感が変わった。しかし、それが何か説明することは出来ない。
秋は慎重に、電気椅子の部屋へと足を踏み入れた。
「動かないでっ‼」
ヒステリックな叫び声が静かな部屋に鳴り響く。
秋はその声を聞いて、動きを止める。思わず、美波の目を見開いた。その声だけで、そこにいる人物が分かってしまう。
それと同時にいくつもの疑問が脳内へと押し寄せてくる。
秋は恐る恐る声のした方へと顔を向けた。
彼女は、部屋の隅でそのつぶらかで透明感あふれる瞳を美波へと向けている。巻き髪のポニーテールが微かに揺れた。
「優音?」
その声に、優音がピクっと反応した。だが、優音は言葉を返さない。その代わり、優音は黒い拳銃を構えた。その銃口は、真っすぐ美波の心臓を捉えている。
「何をしているんだ?」
秋は語気を強めた。様々な感情が、混ざり合って波のように秋の心へと押し寄せてくる。
そのとき優音と目が合った。彼女の瞳は、確固たる意志を持って美波を睨んでいる。
そのとき秋は恐怖を感じた。絶対的な死を目の前にして、慄いてしまう。優音の指はいつ引き金を引いてもおかしくない。そんな緊張感が秋の心を打った。
「雫君を助けに来たんでしょ」
優音が芯のある声で言う。その声は、得体のしれない義務感にあふれているように感じた。
「悪いけど、それをさせる訳にはいかない。もし雫君を連れ出そうとするなら、殺す」
優音が拳銃を握る手に力を込めた。そして何かを押し殺すかのように奥歯を食いしばっているのが分かる。
秋は美波の足が震えるのを感じた。でもこのまま、立ち止まってはいけないと、心の中の何かが叫んでいる。
秋は美波の体を優音の方に一歩進めた。
「動くなっ‼」
優音が再びヒステリックに叫んだ。そして、黒い拳銃を美波に向かって構えなおす。
「なんで」
秋は優音に尋ねた。できるだけ優しい音で。心の中に疑問が広がっていくが、それを表情に出さないように努める。
すると優音の頬に、一筋の涙が零れた。
秋は優音の顔を正面から見つめる。優音の目は焦点が合っていなかった。
だが彼女は震える唇から声を紡ぐ。まるで本能が優音の体を介さず直接語り掛けてくるかのようだった。
「私は、人を殺した。だからそれ以上の人を救わなければならない」
秋は自分が抱えている感情が分からなくなった。今すぐにでも、雫を連れ出して自由になりたい。その気持ちは確かに存在する。しかしその一方で、どうして優音がこんなことをしているのか。なぜ彼女が震えながら拳銃を構えているのかという事実に怒りを覚える。
自分に向かって拳銃を向けていても、優音を見ると心がざわついてほんのりと温かくなる。優音を助けてあげたいと思ってしまう。
黒い銃身に、蛍光灯の光が反射してきらりと燿った。
「君がその銃を僕に向けることが、多くの人を助けることに繋がると思うのか」
秋は自分でも意識しないうちに叫んでいた。優音に思いを伝えたいという気持ちが、理性の先を行っている。
「繋がるよ。だって君は私と違って完璧な二分の一重人格なんでしょ?」
「だから何だって言うんだ」
「君の研究は、将来大勢の人を救うことになる。だから私は、私がどんな最低な人間になったとしても、君を上杉さんの下へ届けないといけない」
そこで、優音の背後の扉が開いた。そこから上杉とあの駅員さんが入って来る。
上杉は手をぱちぱちと叩くと、声を上げた。
「さすが優音君。君は自らの役割について、よく理解しているようだね」
上杉は優音の肩に手を置き、そして美波を見る。
「それに比べて秋君。君はもう少し利口だと思っていたのだが」
上杉はわざとらしく残念そうな表情を作った後、にやりと笑った。そこで遠くの方から、大勢の足音が近づいてくるのが聞こえる。
すると直後コンピュータールームの扉が開き、中にスーツ姿の男たちが流れ込んできた。そしてその中に、森先生、赤木、そして武男が腕をガッチリと掴まれた状態で連れてこられたのが見える。スーツの男たちは、三人をあえて美波から見えやすいように窓ガラスの正面へと持ってくると、それぞれに拳銃を押し当てた。赤木が何やら叫び声を上げたけれど、すぐにスーツ姿の男の手が赤木の口を塞いだ。
上杉がそれを見て、吹き出しながら美波に言う。
「ようやく、害虫駆除が終わったようだ」
秋はどうしようもない絶望感が胸に広がっていくのを感じる。どうして、森先生が、赤木が、武男が捕まっているのか。
そこでようやく状況が見えてきて、秋の心に焦燥感が募っていく。秋たちは完全に上杉の掌の上だった。赤木達が死に、秋だけがまたあの施設に戻る。そんな最悪のシナリオが頭をよぎった。
その時、上杉が声を上げた。
「優音君、雫君を自由にしてやってくれないか」
優音は頷くと、拳銃を降ろして、電気椅子に拘束されている雫の下へと歩いていく。
そしてカチカチと音を立てると、雫の拘束を解いていった。
優音は慣れた手つきで胴体の拘束を解くと、最後に頭に付けられた機械とアイマスクを外す。
完全に雫が自由になった所で、優音はまた上杉の横へと戻っていく。そして再び銃口を美波へと向けた。
「秋君、雫君の感覚はどうだね?」
上杉が余裕の表情で美波を見る。そこで秋は雫へと意識を移す。
雫の体はずっと同じ体制でいたからか、あちこちが痺れていたり、固まっていたりしていた。しかし、それ以外に目立った異常はない。秋は恐る恐る足に力を込めて、雫を立ち上がらせた。
殺意、憎悪、怒り、義務。様々な視線が、電気椅子の部屋を飛び交った。
「よし、じゃあ始めようか。君は雫君を連れて帰りたい。私は美波君を取り戻したい。意志と意志とのぶつかり合いだ。強い方のみが願いを叶えられる」
上杉が、不気味な笑みを満面に広げる。一瞬の静寂が場を支配した。
次の瞬間、上杉の横にいたあの駅員さんが美波に向かっていく。今日はスーツを着ていた。
秋は慌てて美波に意識を移し、ポケットからボールペン型スタンガンを取り出す。
しかし、その直後だった。手首に激痛が走り、ボールペンが手から離れてしまう。手首を捻り上げられた秋は、声にならない声を上げた。あまりの速さに驚く暇もない。
トンッ。ボールペンが床と接触する音がする。
そのとき、美波の視界が反転した。そしてそのまま、背中から床へと叩きつけられる。背骨のあたりに激痛が走った。訳も分からないまま、秋は気が付けば天井を見ている。
そしてすぐ背中の下に腕が入り込んできた。そのまま体を回転させられる。気づけば美波は床をなめていた。そしてうつ伏せにされた状態で、上からあの駅員さんに押さえつけられる。
背中に駅員さんの膝が、背骨を折るかのように食い込んで来た。さらに美波は右腕を取られ、それを背中側に思いっきり曲げられる。
肩が張り裂けてしまうかのような衝撃に、秋は思わずうめき声を漏らす。何とか抜け出そうと、抵抗を試みるも暴れることさえ出来ないほど、美波の体は完璧に押さえつけられていた。
その圧倒的な強さに、恐怖とそして絶望感が広がっていく。いったい、どうすれば、ここから雫とともに脱け出すことが出来ると言うのだろうか。
秋が肩の痛みに限界を感じて床をタップする。それでも駅員さんは力を緩めようとしない。
やがて美波の腕が痛みを超えた無の境地に達した。神経がすべて引き抜かれてしまったのではないかという錯覚に襲われる。そこで、駅員さんは美波の腕を放した。
ジンジンと腕の痛む音が聞こえてくるかのようだ。
秋は抑えられた美波の体で、なんとか首だけを動かし顔を上げる。すると、優音と目が合った。優音はその瞬間、美波から目を逸らす。その優音に、上杉が何やら耳打ちをしていた。会話の内容は聞こえない。
優音の顔がハッと驚いたように、張り付いた。その瞳から色が失われていく様を秋はただ呆然と眺めている。
その間も上杉は、ずっと優音に何かを吹き込んでいく。優音は目を真っ黒にして、ただ拳銃を見つめていた。
するとそこで上杉が視線を雫へと移す。
「もう終わりじゃないだろうね」
そう言って上杉は、駅員さんとアイコンタクトを取った。すると駅員さんは美波の傍に転がっていたボールペンを拾い上げ、雫に向かって投げる。
そこで秋は雫へと意識を移した。手にはボールペンが握られている。ボールペンをノックすると、ペン先が現れた。
上杉を見る。彼は笑っていた。両手を広げて、世界の全てを手中に収めた人がやるように。
そのときだった。秋の脳裏に閃光が走る。そうだ。上杉だ。全ての権力を握っているのは上杉である。斎恩も言っていた。上杉さえ倒せば、敵は機能しなくなると。
そこで秋は上杉を睨んだ。上杉は秋にとって運命そのもの。勝てるわけがない、絶対に逆らえないものだと信じてきた。でも、今は違う。目の前にいるのは、ただの人間だ。このボールペンをあいつにあてるだけで、僕は自由だ。秋は心の中で吠える。
そして、上杉の目を真っすぐに捉えたまま、彼に向かって突進する。何か叫んでいたかもしれない。自分でも何を言っているのか分からない。だが、やることはただ一つ。上杉を倒すことだ。
上杉との距離がどんどん縮まっていく。上杉はずっと笑っていた。憎たらしい顔で、秋を嘲笑うように。秋はそんな上杉の笑顔が大嫌いだ。
秋は全力を振り絞り、ボールペンを握った手を上杉に向かって伸ばす。積年の思いが雫の腕に乗って、上杉の喉元を狙う。ペン先がコマ送りのように、上杉へと突き進んでいく。これは取った。秋がそう確信したそのときである。
秋は気が付けば、床に転がっていた。太ももに穴が開いたかのような激痛が走る。視界は涙に滲み、夢か現実かの判断さえつかない。秋は痛みから気を逸らすため、叫び声を上げようとする。
しかし、肺がぺしゃんこに潰れてしまったかのような心地がして、掠れた息を絞り出すことで精いっぱいだった。
灰色の短パンが赤く染まっていき、溢れた血が床へと垂れていく。やがて頭がふわふわとしてきて、気を抜けば意識が飛んで行ってしまいそうになる。
そんな中、微かな視界の隅で秋は優音の姿を見た。彼女は、銃を構えたまま固まっている。何が起こったのかまるで理解していないようだった。
「ぅうぇぇ」
雫の口から、声にならない吐息がもれる。
そのとき、優音の瞳に色が戻った。その目は確実に倒れる雫と、床に垂れている血を映し出す。
直後優音が膝から崩れ落ちた。もはや拳銃を握っている力もないようだ。
上杉がそんな優音に声をかける。
「なかなか上手いじゃないか」
秋は、また喉から声を絞り出そうとした。
「ゆっ、ね」
だがその声は、優音には届かない。そのとき、雫の太ももに誰かが触れた。それと同時に、激痛が走る。
「はーい、痛いけど我慢してねー」
見ると駅員さんがどこからか包帯を取り出し、止血をし始める。
上杉の影が、雫に覆いかぶさった。
「その銃弾は、俺に逆らった罰だ。よく体に刻んでおけ」
その顔に笑顔はなかった。ひどく蔑むような、人ではない何かを見るような目で雫を見ている。
その直後、雫の体が浮かび上がった。駅員さんに担ぎ上げられたのである。
そこで秋はすぐに美波の体へと意識を移す。そして自由になっていた。
何ができるか分からない。でもこのまま何もしなければ、またあの生活に戻ることは明らかだった。そして今を過ぎれば、もう二度とチャンスは訪れないかも知れない。そう思って、秋は美波を立ち上がらせる。
だが上杉は美波をチラッと見ると、
「しつこい」
と呟き、優音の方へと歩いていく。そして、優音の腕を掴み強引に立ち上がらせると、優音の鳩尾あたりに強烈な膝蹴りを入れた。
「うっ」
と優音が、呻き声を漏らす。そして、水面から顔を出し必死に息を吸うかのように、空気を求めて喘ぎ始めた。さらに数秒もしないうちに、優音はひどく咳き込みだす。そしてまた必死に息を体内へと取り込もうとして、喉を引き絞るような音が聞こえた。だが上手くいっていないらしい。優音の頬に、おそらく本人も意識していないであろう涙が流れ落ちる。
上杉は足元に落ちている拳銃を拾い上げると、優音のこめかみに押し当てた。
「ついてこい」
上杉は鋭い眼光で美波の瞳の奥を睨みつけると、コンピュータールームの方へと去っていった。
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