第23話
嵐は局所的なもののようで、車での道中はずっと晴れていた。しかし、高速道路を降りたあたりから雲行きが怪しくなり、今や打ちつける雨で数メートル先も見えないようなありさまである。空には分厚い雲が蔓延っていて、昼とは思えない暗さだ。それと連動するように、車内も重たい緊張感が漂い始める。誰も声を出さなかった。赤木ですら、険しい表情で斜めに降り注ぐ雨を眺めている。
秋もソワソワとしていた。慣れない防刃ベストの重りで、プレッシャーが増幅されている。服装は全員が同じような長袖長ズボンの黒ずくめの恰好で、スーパーについたら目出し帽を付ける予定だ。
「目的地までもうすぐだ。みんな心の準備をしておくように」
助手席から武男が後ろを振り返ってみんなに言う。秋は美波の体で頷いた。そして深呼吸をする。
約五分後、黒いワゴン車はスーパーの駐車場に入った。広大な駐車場に、他の車はなくスーパーも電気が点いていない。
「よし、みんな準備をするんだ」
武男が言う。それを合図に、秋は渡されていた袋から目出し帽を取り出し、美波の頭に被せる。まだ傷が癒えておらず、ガーゼの上から目出し帽を被っているため、秋は美波の頬に違和感を覚えた。しかし、気にしてはいられない。
雨がコンクリートを打つ音が、轟いている。
目出し帽を被った後は、その上から暗視ゴーグルをつけた。ゴーグルは頭の後ろと顎の下で固定する。途端に、美波の視界が緑色に染まった。だが、施設に侵入するまでは肉眼でも問題が無いため、暗視ゴーグルはおでこの上に置いておく。
やがて全員の準備が整うと、秋たちは車から出た。この前の取り決めで、市川先生だけは車に残ることが決められている。何かあったとき、すぐ逃げられるようにするためだった。
秋はスライドドアを開ける。一気に雨風が車内へと吹き込んできた。
「頑張って」
運転席の市川先生が、美波の方を振り返る。秋はそれに頷いて、車から降りた。
いよいよである。秋は胸の高鳴りを抑えることができない。今日の計画が成功すれば、秋は自由になれるのだ。美波と雫が教室の中で笑顔を咲かせている絵が、頭の中に浮かび上がる。なんとしても、雫の体を取り戻す。秋は改めて心の中で誓った。
秋、赤木、武男、森先生の四人は車から降りるとすぐに、スーパーの裏口へと向かう。
そして武男がオーナーから預かった鍵で扉を開くと、素早く中へと侵入する。駐車場から裏口に回っただけで、すでに服装は半分以上濡れてしまった。
当然バックヤードも電気が付いておらず、真っ暗だ。そこで秋は暗視ゴーグルを目の位置に下げる。視界に、緑色の世界が現れた。慣れない感覚に驚きつつ、秋は美波の足を前へと進める。そして四人は例の隠し扉までやってきた。
秋は防刃ベストの腰ポケットにボールペン型スタンガンがあることを確認する。これからどんな戦いが待っているのか分からない。秋は生唾を飲み込んだけれど、もう二度とこんな施設に来ないためにも、ここで引き返すわけにはいかないのだ。
武男が恐る恐る、マンホールの淵に手を当てる。そして、全員に頷きかけた。電流は流れてないらしい。すると武男は軽々と蓋を開け、自ら先陣を切って梯子を下っていく。
秋は美波の体でそれに続いた。
非常階段に降り立つとすぐに、扉がある。武男はその前で一度立ち止まり、扉の向こうに耳を澄ませる。秋も同じようにしたけれど、何も聞こえない。
武男は扉を勢いよく開けた。目の前に見覚えのある施設の廊下が現れる。秋は神経を尖らせて、リノリウムの床に足を踏み入れた。
廊下に人影は一切ない。それは秋たちにとっては好都合なのだが、どこか不気味な印象を与えてくる。
秋たちは、武男の先導で一つ目のエレベーターまで辿り着いた。ここまで、研究者にすら出会っていない。ボールペンは今もポケットの中で出番を待っていた。
前にも武男が言っていたように、エレベーターだけは電源が別らしく問題なく動いている。
そのとき、エレベーターの到着を告げる軽快な音とともに、視界が眩しい白一色に染まっていく。発光した白い光に視界が支配され、美波は思わず、目を瞑った。
すると誰かが、美波の暗視ゴーグルを目から外してくれる。
「明るい所で暗視ゴーグルを付けていたら、何も見えなくなるよ」
武男の声が聞こえた。どうやらエレベーター内の光が差し込んできたことが原因らしい。
「すみません」
秋は謝ると、エレベーターに乗り込んだ
「ここまで、びっくりするほど順調ですね」
森先生が、独特のイントネーションで武男に言った。
「もしかしたら上杉は、人員の多くをすでに新しい施設に移しているのかもしれません」
「だったら、こちらとしては有難いですね」
森先生がどうかそうであることを願うというような声で言う。
だが秋は楽観的にはなれなかった。上杉が何もしてこないはずがない。それなのに、これまで恐ろしいほど静かであることが、不気味でならなかった。
やがてチンっという音とともに、エレベーターの扉が開く。地下十階についたのだ。といっても、廊下は相変わらず暗闇で何も見えない。
秋は暗視ゴーグルを再び下した。すると、緑色でまた似たような構造の廊下が浮かび上がって来た。廊下は一本道で、真っすぐ進むしかない。四人は出来るだけ音を立てないように、移動し始めた。
そのときである。秋たちの進む先、廊下の中央で仁王立ちするような二つの人影が突如として現れた。前を歩く武男が急停止する。
秋は暗視ゴーグルの奥の瞳を凝らした。すると、その人物に見覚えがあることに気が付く。そこにいたのは、赤木と美波を襲った作業着姿の二人組である。今日はスーツ姿だった。
二人の男も暗視ゴーグルを付けていて、すぐにこちらに気が付く。
赤木と森先生が、秋と武男を庇うように前へと進み出た。
直後、以前タオルを巻いていた方の男が、唐突に声を張り上げた。
「来たぞぉぉぉっ!」
男が叫ぶと、二人は関節をポキポキと鳴らして、いきなりこちらに襲い掛かって来た。
しかし、赤木と森先生はそれを冷静に対処する。まず森先生は筋肉質な男の拳を交わすと、腕を取りそのまま足を払って男を転ばせた。ドシっと鈍い音が廊下に響き渡る。直後森先生はボールペンを取り出し、カチッとノックをした後、ペン先を倒れた男の首筋へと当てた。
バチバチバチッという電気の流れる音とともに、鋭い閃光が廊下に轟く。
「っう」
と男はうめき声を漏らした後、意識を失った。
赤木ももう一人の男の蹴りを的確に受け止めると、そのまま片手で足を持ったままペン先を男の手へと押し当てる。直後男は全身から力が抜けたようで、床へと崩れ落ちた。
あまりにも瞬殺だったので、秋が加勢をする間もなく二人の男は倒れてしまう。
だが、ホッと一息をつく間もなかった。廊下の奥から、多くの足音が近づいてきたのである。
赤木と森先生は再び前を向き、来る敵へと備えた。秋も、再び気を引き締める。
直後、スーツ姿の男たちがぞろぞろと秋たちの目の前に現れた。その先頭にいる男が、後ろの者に向かって声を上げる。
「ターゲットは目の前だ。何としても捉えろ!」
それを合図に、地響きのような靴音が秋たちに襲い掛かって来る。その数に秋は驚愕した。見える範囲の廊下は奥まで全てスーツ姿の男たちで埋まっている。スーツ姿の男たちも漏れなく暗視ゴーグルを付けていた。
「やはり上杉は、美波君をおびき寄せるための餌として雫君をこの施設に残していたのか」
武男がぼそりと呟いた。それは独り言だったようである。目出し帽から除く武男の瞳は、泳いでいるように見えた。
だがそんな不安そうな武男を見て、逆に秋の心は冷静さを取り戻す。そして、出来るだけ明るい声で武男に言った。
「それでも、僕たちがやることは変わりません」
それを聞くと武男はハッとしたように美波を振り向き、そしてその顔を見て頷くと、再び前を向いた。
そこで赤木達とスーツ姿の男たちがぶつかる音が響く。スーツ姿の男の一人が赤木の腰を目掛けてタックルを仕掛けた。赤木は踏ん張ってそれを受け止めつつ、首筋にボールペンを差し込む。一秒の間もなく、男が床へ崩れ落ちる。しかし、その男を踏みつけるようにして後ろの男が赤木へと襲い掛かった。
不意を突かれた赤木が床へと押し倒される。しかも、腕を取られてペンを使えない状態だった。男が拳を振り上げ、赤木に渾身の一撃を叩きこもうとする。
だがそこに、美波の横にいた武男が飛びかかった。武男は小柄な体をフルに活用して、男の拳を抑え込む。
秋は今しかないと思ってボールペンをノックした。そして相手の首に狙いを定めると、美波の体を突進させる。
直後、男の首には電流が走っていた。バチッという音と閃光の後、男が力なく床へと転がる。
それを見て、秋はこのスタンガンの威力を思い知った。男の首筋にペン先を押し当てた感覚が美波の手に残っている。だが、男は死んだ訳ではない。秋は自分に言い聞かせる。そうだ。自由のためには闘わなければならない時が必ずあるのだ。
そして考えている暇もなく、後方から別の男が襲い掛かって来た。秋は赤木、武男と共に、目の前の敵へと意識を集中させる。
その頃森先生の方は、冷静に一人一人スーツの男たちを沈めていた。幸いなことに、廊下は狭く、秋たちが取り囲まれるようなことはない。常に、正面からぶつかり合う構図になっていて、敵は数の利を活かし切れていないようである。
しかし、秋たちにとっても敵は倒しても倒しても後ろから現れるため、一向に前に進めなかった。そんな膠着状態がしばらく続く。やがて、赤木は息が切れ始めたようだった。美波の体力も確実に削られている。
「このままじゃ、埒が明かねぇぞ」
赤木が前の男と取っ組み合いになりながら叫んだ。秋も目の前の男にボールペンを押し当てた所で、顔を上げる。しかし、奥にはまだまだ男たちが控えていて、数が減った気がしない。このままではジリ貧になるのは明らかだった。
その時、武男が美波の横に回ってきて耳打ちする。
「秋君、私が離れたら暗視ゴーグルを取り外すんだ」
「えっ?」
秋は思わず武男の方を振り向いてしまう。そのとき、視界の端から拳が飛んでくるのが見えた。しまったと思った時、横から手が伸びて来て拳を受け止めてくれる。見ると森先生だった。
そして森先生は状況を察して、相手を倒すのではなく、美波と武男に近づけないよう抑える方針に切り替えた。武男は先生に礼を言いつつ、美波に向き直る。
「君ならきっと、希望を捕まえることが出来るさ」
武男は簡潔にそう告げると、美波の肩に手を置いた。もう片方の手にはスマホが握られている。目出し帽で顔は見えないけれど、武男は嬉しそうだった。
「私は電波が届くところを探してくる。それじゃあ、また後で会おう」
すると武男は踵を返して、さっき乗って来たエレベーターに向かって走っていく。
武男の姿が見えなくなってから、秋は暗視ゴーグルを完全に取り外した。頭が幾分か軽くなった気がする。だがその代わりに、視界にはいきなり暗闇が現れて目が慣れるまで、森先生や赤木の背中さえはっきりと見えなかった。
秋は暗い視界の中でも赤木や森先生の後ろから必死に、蹴りや拳を飛ばしていた。
するとそれは突然やって来る。目が暗闇に慣れ始めて、赤木が相手を一人ノックダウンさせたのが見えた瞬間だった。
廊下の電気が一斉に点いたのである。美波の視界が再びクリアになった。
しかし、暗視ゴーグルをつけていた人たちは、突然の光に戸惑うように立ち竦んでいる。秋はさきほどエレベーターの光がゴーグルに差し込んできたときのことを思いだす。あれ以上の眩しさが、今男たちの視界に飛び込んでいったはずだった。
秋は今しかないと思った。武男から「走れ!」という声が届いたような気がする。
その直後、秋はスーツ姿の男たちの脇をすり抜けるようにして全速力で走り出す。エレベーターまでの道のりは、事前に武男から教わっていた。秋はまるでサッカーボールがそこにあるかのように、スーツ姿の男を右に左にかわしつつ、エレベーターへ向かって疾走する。
だが、スーツの男たちも徐々に状況を理解し暗視ゴーグルを外し始めていた。それと同時に美波の視界に、スーツ姿の男の最後尾が見える。
秋はそこでさらにスピードを上げた。一人また一人と男たちが後ろへ流れていき、最後の一人の横を通り過ぎて振り切ったと思った瞬間である。
最後尾の男の手がが、美波の頭を掴んだ。秋は美波の髪を引っ張られて、痛みを感じ、本能的に足を止めてしまう。男はさらに力を込めて、美波の体を引き寄せようとしていた。髪の毛が引きちぎられそうな痛みから、美波の目が潤み始める。
だがその時、後方から赤木の咆哮が聞こえてきた。それは声になっていない叫びだったが、秋を鼓舞するには十分であった。
秋は髪の毛をがっしりと掴まれた状態で、再び前へと走り出した。直後に、髪の毛が抜ける音がする。そして、一瞬視界が真っ暗になったかと思うと、再び目の前には施設の廊下が現れた。どうやら、目出し帽がするりと頭から抜けてしまったらしい。
だが秋はそんなことにも構わず、全速力で走り続づける。後ろから何人かの男が付いて来る足音がしたけれど、それはだんだんと遠ざかっていった。
やがて美波はエレベーターに乗り込んだ。束の間の静寂が、秋に訪れる。二十一階まで下りれば、電気椅子の部屋はもう目前だった。秋は深呼吸をする。そして決意を固めた表情で、鏡を見た。あの日、煤を被った自分の姿を見た時は、こんな形でこの施設に戻って来るとは思ってもみなかった。自由になりたい、普通に生きたいと思っていても、上杉に抗うという選択肢など頭になかったのである。だが今は違う。もうあんな風に、すべてを諦めてもぬけの殻のように生きるのはごめんだ。
秋は胸に自信が沸き上がって来るのを感じる。今なら、上杉だって倒せてしまうような気がしていた。
そこでエレベーターが目的の階へ着いたことを知らせる音が鳴る。
秋は扉の方を振り返ると、エレベーターの外へ力強い一歩を踏み出した。
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