第21話

 次の瞬間、トラックが急停止した。

「おらぁ、うちの生徒に手ぇ出すなや!」

 外から、聞いたことがある声が聞こえてくる。そのとき、美波の目の前にある荷台の扉が開いた。

 眩しい光が一気に目の前へと流れ込んで来る。そして、そんな光の中、そこにいたのは森先生だった。

「美波、こっちや」

 そう言って先生は美波に手を差し伸べる。秋はその手を取り、トラックから降りた。外の明るさに、目が眩む。しかし、ぼやける視界の中、助手席のドアの下で伸びている筋肉質な作業着姿の男が見えた。

 秋はまさかと思って森先生の方を振り向く。すると先生はニッと笑ってみせた。

 そこで美波の目が明るさに慣れてくる。どうやら、ここはどこかの山の中らしい。周囲は木々が切られてはいるけれど、道路は舗装されておらず、地面にはトラックが通って来たであろう車輪の痕が残っている。

 するとそこに、トラックの反対側から雫の担任である市川先生がやって来た。

「ごめんなさい、力仕事は苦手で手間取ってしまいました」

 先生は、上品に頭を下げる。が、言葉から判断するにあのタオルを巻いた男を倒してきたのだろう。

 秋は聞きたいことがたくさんあったけれど、森先生がそれを許さなかった。

「説明は後や。とりあえず今は逃げるぞ」

 そう言って美波の手を取ると、森先生は山を下って走り始めた。

 するとすぐに、道の途中に止められている黒いワゴン車が見えてくる。先生は迷わず、ワゴン車へと走っていった。

 黒いワゴン車は側面の窓ガラスが黒くなっていて、中の様子が分からない。

 森先生は、後ろのスライドドアを開けると美波を押し込むように車へ乗せた。それに市川先生、森先生が続いて後部座席に乗り込んでくる。

 森先生が、スライドドア叩き閉めた。

 それでも、車は出発しない。どうしたのだろうかと思って、美波の対角線上にある運転席の人物を見た時、秋は固まった。息を吸うことすら忘れてしまうかのような衝撃を秋は感じる。

「久しぶりだね」

 運転席の人物は、優しく秋へと微笑んだ。

「えっ」

 かろうじて搾り出した言葉は、それだけだった。秋はそんなことはないと分かっていても、まだ夢の中にいるのではないかと思ってしまう。

「どうして、北さんがここに?」

「それは、帰りながらゆっくり話そうか」

 そう言って武男は、車のアクセルを踏んだ。秋は動悸がしてきたのを感じる。

「僕、てっきりその、北さんは死んじゃったと思って………」

「そうだろうね。君は施設から脱け出すとき、私のことを振り返らずに走っていった。あの場面ではそれが正しかった。でも、そのせいでその後の面白いシーンを見られなかったようだね」

 そう言って武男は、あの時のことを説明し始める。

 秋は雫と美波の体で、全速力で走り出した。当然、上杉の部下二人は秋を追って走り始める。しかし、それを武男がタックルで止めたのだった。そこまでは秋も知っている。

 その直後、二発の銃声が鳴り響いた。当時は何が何だか分からなかったけれど、その後斎恩に武男の死が告げられたのである。

 だが事実は違ったらしい。秋が走り去るとき、二発の銃声が鳴り響いた。

 しかしそれは、上杉の部下が武男を撃った訳ではない。

 あの時ちょうど斎恩の指示で現場に駆け付けていた、森先生と市川先生があの場所に辿り着いたのであった。そして、武男に銃を向けた上杉の部下を見て、二人の教師は威嚇のために天井に向かって発砲したのだ。秋が聞いたのはこの銃声である。

 そして直後、二人は銃口を上杉へと向けた。そうすれば、上杉の部下は武男を撃つことができない。

 その後、先生たちは銃口を上杉に向けたまま武男を引き渡すように要求。上杉は怒り狂いたいのを我慢しながら、状況を判断し、武男を解放した。というのが、あの日の真実らしい。

「どうして今まで、僕に隠していたのですか?」

 秋が尋ねた。

「斎恩先生が、その方が秋君のためになるだろうって言うもんだから。きっと彼なりに何かの狙いがあったのだろう。とはいえ、黙っていて申し訳ない」

「もうっ」

 秋は武男に怒った声を出しつつも、胸の中が毛布で包まれたように温まっていくのを感じる。

 そのとき、後ろの席から声が聞こえた。

「おいおい、サプライズはそれだけじゃないぜ」

 秋は急に頭の後方から声が聞こえてきて、肩をすくめる。だがその声には聞き覚えがあった。まさかと思い、体を捻って後ろを振り返る。

 すると美波達のさらに後ろ、三列目の席の真ん中に一人の男がいた。

「炎っ!」

 美波は男の名前を呼んだ。森先生と市川先生が微笑ましく、美波を見守る。

「なんで炎も?」

 秋は聞いた。そして、森先生を見る。

「まさか、炎の時の銃声も先生たちだったのですか?」

 秋はてっきり先生が首を縦に振ると思ったが、違った。

「あれは私じゃない」

 森先生が首を横に振る。

「いやー、あれは痛かったぜ。秋、これは貸しだからな」

 そこで赤木が座席から何かを持ち上げた。重量のあるものあらしく、フンッと力を入れる声が聞こえる。

 赤木の手に掲げられていたのは、黒い防弾チョッキだった。

「ったく、こんなものつけて焼肉食ったせいで、汗だくだったんだぜ。まぁそのおかげで命が助かったんだから文句は言えねぇな」

 そう言って赤木は一人で笑った。赤木のパーカーが膨れ上がっていたのは、生地が厚いからではなく、中に防弾チョッキを着ていたからだったのか。

 そこで秋は美波の体を前へと向ける。なんだか、また涙が出てきそうだった。けれど、その意味は今までとはきっと違う。

 武男も赤木も生きていた。それだけで、秋の顔には笑顔が広がる。絶望が希望に変わる瞬間だった。希望も悪くないと、そのとき初めて感じる。人は希望を抱き、絶望するけれど、そのなかにまた希望を見出すことが出来るのだ。そうやって絶望を一つずつ乗り越えていった先には、今までとは少しだけ違った自分が待っている。

 そこで武男が口を開いた。

「また、施設に戻りたいかい?」

 それに秋は、迷いなく答えた。

「もう、戻りたくないです」

 武男はその答えを期待していたように、一度頷いた。そして問う。

「これから、どうするつもりだい?」

 秋は、自分の気持ちを確認するように拳を握り締めた。そして前を向く。ちょうど、フロントガラスからどこかの街並みが遠くに見えた。

「雫の体を取り戻して、僕は外の世界で暮らします」

 するとまたその言葉を待っていたと言わんばかりに、武男がニヤッと笑った。

「その言葉を聞くのに、随分と時間がかかってしまったな」

 武男が言う。

「ごめんなさい」

「いや、謝ることはないよ。ただちょっと嬉しくて、余計なことを言ってしまっただけだ。それよりも、施設から解放されたいなら、良い先輩を紹介するよ」

「先輩?誰ですか?」

「ちょうどこの車の一番後ろに乗っているだろう」

 そう言って、美波は再び後ろを振り返る。赤木が自分の顔を指さして、秋に笑顔を向けた。

「赤木が先輩?どういうことですか」

「彼も、君と同じく上杉が作ったあの地下研究施設で生まれたのだ。そしてもともとは、二分の一重人格だった」

「えっ………」

 秋は理解が追いつかず、言葉を失う。

「俺の元の名前は春って言うんだ」

 赤木が言う。

「そして、雫のクラスに優音って奴がいるだろ。あいつと元々は同じ人格で、俺もお前と同じく、炎と優音の二つの体を使っていた」

 赤木が説明し始める。秋は体を後ろに向けたまま、先生たちの足元を眺めつつ話を聞く。ちなみに、森先生のランニングシューズには穴が開いていた。

「でも、今は全くの別人だ」

「どうして?」

「俺たちの実験は上手くいかなかったんだ。確かちょうど五歳の誕生日を迎えた頃だったかな。俺はいつものように、優音の体に意識を移そうとしたんだ。でも、上手くいかなかった。優音の体に入ろうとしても、何者かに押し返されてしまう。それで研究者たちが調べてみると、優音の体には完全に俺とは別の人格が生まれていたんだ」

 そこで、武男が補足を口にする。

「原因は完全には特定されていないけれど、おそらく炎と優音の性別が違ったからではないかと考えられている。その証拠に、同じ時期、同じような環境で育った雫君と美波君には独自の自我は生まれなかった」

 秋がそこで質問をする。

「じゃあ、炎も優音も僕の正体を知っていたってことですか?」

 それに赤木が答える。

「あぁそうだ。黙っていて悪かったな。俺はついつい話したくなることもあったが、斎恩先生に厳しく釘を刺されていてよ。先生は、秋が外の世界に馴染めるようにと言って、俺と優音をあの学校に招集したんだ。俺たちはそれまで、五歳の時に施設を出てからは別々に普通の市民として暮らしていた。優音と会ったのも久しぶりだったけどよ、昔俺が入っていたとは思えないくらい可愛くなっていたぜ」

 そう言って赤木が豪快に笑う。

 二人にそんな過去があったとは。秋は、世界は広いような狭いような不思議な感覚を覚えた。

 そこで秋は、自ら二分の一重人格を優音に打ち明けた時のことを思い出す。優音は戸惑いつつも、なんとか秋の話を受け入れたというような表情をしていた。しかし、あれは演技だったのか。

 秋は純粋に、その演技力に舌を巻いた。だが、優音のことを思い出したせいでもう関わらないでと言ってきた彼女の表情が脳裏に浮かぶ。

 もしかしたら、あれも演技だったのだろうかと期待してしまう自分もいる。逆に、雫に惹かれていたように見せていたのも演技だったのかも知れないとも、疑ってしまう。

 優音に関しては、何が本当で何が嘘か分からなくなってしまった。しかし、今はとりあえず考えないことにする。

 それよりも秋には、大切なことがあった。雫の体を取り戻し、上杉から完全に解放されることである。

 秋は、武男に聞いた。

「炎たちは、どうやって施設から脱け出したのですか?」

 赤木と優音が施設から脱け出した話を聞けば、なにか参考になることがあるかもしれない。そう期待しての質問だった。

 しかし武男は前を向いたまま、眉間にしわを寄せる。代わりに後部座席から赤木が答えた。

「俺たちが失敗作だと分かった途端、上杉は実験を中止した。そして、俺たちを処分しろと北さんに命令したんだ。北さんはその指示に従い、殺す目的で俺たちを施設の外に出した。しかし直前で、やっぱり殺せないと心変わりして、斎恩先生を頼ったんだ。それで先生の知恵を借り、俺たちは死んだと見せかけて、普通の一般人として社会に溶け込んだ。もうあれから俺たちは成長しているし、上杉は今更俺が春だと言っても信じないだろうな」

「なるほど………」

 武男はハンドルを握りながら、まだ難しい顔をしていた。当時のことはあまり思い出したくないのかもしれない。

 秋はそこで考え込む。どうやったら、雫の体を取り戻すことができるだろうか。

 武男は赤木と優音を殺す目的でしか、彼らを外に連れ出すことは出来なかったのだった。やっぱり、上杉の力は強大だ。彼に抗うためには、こちらも相応の覚悟が必要になる。

 秋は今一度、自分に尋ねた。上杉と闘うことは、多くの苦しみを伴うかもしれない。おそらく、素直に上杉に従っていた方が圧倒的に楽だろう。それでも、やるのかと。

 答えは考えるまでもなかった。ずっと、こうするべきだと分かっていたのだ。分かっていたけど、見て見ぬふりをしてきた。でも、それも今日までである。

 フロントガラスに雲間から青空が覗いているのが見えた。

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