第20話

 かなり時間が経ったと思う。体感で一時間以上、秋は泣き続けた。もう、頬の痛みにも慣れてしまっている。でも相変わらず罪悪感は消えず、悲しみも秋の心に居座り続けていた。

 自責の念で疲弊した頭は、その重要な機能を放棄して完全に思考を停止している。そうしていなければ、きっと心が散り散りなってしまうと本能が判断したのだった。

 涙が枯れた後も、秋は長い間同じ体制のまま全身が痛むのも構わずに、ただボーッと荷台の内側を眺めていた。

 だがしばらくして、秋は漠然とした視界の中、胸の中がモヤモヤとしていくのを感じる。心臓の中で何かが引っかかっていた。そしてそれはすぐに言語化される。

 本当にこのまま、施設に戻っていいのだろうか?

 武男や赤木は、秋が施設を抜けたことで死んだ。だから秋はもう、上杉に歯向かわず、一生施設の中で暮らす。その方が、これ以上誰も傷つけずに済むし、秋自身も楽だった。そうやって、自分自身を納得させようとしている自分に気づいてしまう。

 そしてそんな自分に説得されている、もっと外の世界にいたいと思っている自分の存在にも秋は勘づき始めた。

 だがやっぱり駄目だ。これ以上、身近な人が死ぬことを許してはいけない。もともと自分は施設で生まれ施設で死ぬ運命。それを受け入れるだけ。眩しい夢を描いても、夢と現実との差に苦しめられるだけだと知ったばかりではないか。

 そうやって、自分自身を説得する。

 しかし秋は、先ほどの公園でのことを思い返す。秋はもし上杉たちが自分を捕まえに来たのならそれを素直に受け入れるつもりだった。何も抵抗せず、施設へ帰ることを歓迎しようとしていたのである。

 それでも秋は、いつの間にかもがいていた。

 筋肉質な男の手を振り払い、住宅街の中を必死に逃げて、公園で追い詰められた時もタオルを巻いた男の鼻を殴った。

 あの時秋は何も考えておらず、気づけば体が動いていたのである。

 今更ながら、その事実に驚いた。自らの意志に反して、体は勝手に運命に抗おうとしている。

 どうすればいいのだろうか?何に従えば良いのか、分からない。 

 そのとき美波の視界に、上側が開いている段ボールが目に入る。秋はおもむろに、その中へと手を伸ばす。そして一本のペットボトルを手に取った。

 キャップを開けると、炭酸が抜ける小気味の良い音が鳴る。

 薄闇の中、微かに赤いラベルが見えた。コーラの刺激的な匂いが、美波の鼻をくすぐる。

 秋はペットボトルを口へと持っていくと、一気に傾けた。口内の傷口に、炭酸が染みる。歯茎や舌の裏など、あちこちが悲鳴を上げた。秋は今すぐにでも、口の中の液体を全て吐き出してしまいたい欲求に駆られる。

 しかし秋は、そこをぐっと堪えて、コーラを一気に喉の奥へと流し込んだ。

 すると、刺激的で甘いコーラ独特の風味が体中に染み渡る。とても、美味しかった。

 言葉で表せない、満足感で心が満たされていく。秋はさらにコーラを飲んだ。口内の痛みですら、コーラの刺激の一部に変わる。

 ペットボトルの半分ほどを飲み干したところで、秋はキャップを閉めた。

 コーラのおかげで少し心が安らいでくると、秋は強烈な眠気を覚える。おそらく、現在時刻は深夜であるはずだった。それに加えて、先ほどの疲労もどっと押し寄せてきている。

 秋は美波の体を後ろの段ボールに預けると、目を閉じた。大きなあくびを一つする。それから意識が沈んでいくのに時間はかからなかった。


 秋は施設の中にいた。懐かしさを覚えない無機質な部屋である。そこでふと本棚が目に入り、秋は今雫の体を使っていることに気が付いた。

 そのとき部屋がノックされる音が響く。

「はい」

 反射的に秋は答えた。するとそこに、雫の部屋に唯一ノックをしてはいってくる男が現れる。武男だった。

 その瞬間、秋は自分が夢の中にいることを理解する。

「今日も一日、お疲れ様。今日の数学はどうだった?ちょっと難しかったかな」

「はい。でも、面白かったです」

 雫の体が勝手に答えた。

「それは良かった。それじゃあ、夕食を食べに行こうか。今日は珍しく、焼肉だよ」

 武男が温かい笑みを向けてくる。秋は泣き出したい気分だったが、雫の体は勝手に立ち上がると武男の後ろをついていく。

 廊下を進み、リビングを模した部屋へと入った。その中央には、白いテーブルに白い椅子が四脚並べられている。机の上にはプレートが置かれていて、お肉が焼かれるいい匂いが部屋に充満していた。

 秋は一足先に奥の席について肉を焼いている人物が目に入る。赤木だった。どうして炎がここに、と思ったけれどこれは夢だったと思い出す。

 赤木は雫を見て言った。

「おい秋、ちょうど焼けてきたところだぞ。早く座れよ」

 雫の体は促されるまま赤木の前へと座る。そして武男は赤木の隣に腰を下ろした。

 赤木が小皿に焼いた肉を分けてくれる。しかし、雫はずっと同じ姿勢のままでお肉に手を付けようとしない。

「どうしたんだ?」

 赤木が不思議そうに雫を見た。そこで初めて、秋は雫の制御権がいつの間にか自分に与えられていたことを知る。

 秋は箸を持ち、そっとお肉に手を伸ばした。

 程よく焼けたお肉を、小皿のタレにつける。たっぷりとタレがお肉に絡んだのを見て、秋は箸を上げた。一刻も早く、それを味わいたい。見ているだけで、涎が垂れてきそうである。

 しかし、そこにお肉はなかった。タレの中を探しても、まるで溶けてしまったかのようにお肉は跡形もなく消え去っている。

「美味しいか?」

 武男は秋がお肉を食べたと思ったらしく、聞いてきた。

「う、うん」

 秋が答えると、武男は微笑んだ。そして赤木がさらにもう一枚お肉を分けてくれる。

 しかしそれも、タレに付けた瞬間に消えてなくなった。次はタレに付けずに食べようと思うと、箸で掴んだ瞬間お肉は消え去ってしまう。何度やっても、秋は目の前の肉を味わうことが出来なかった。

「ごめんなさい」

 唐突に秋が言う。雫の太ももが濡れ始めた。

「僕のせいで、二人を死なせてしまった」

 秋は訳も分からず声を上げて泣き始めた。こうやって食卓を囲むことで、自分が失ってしまったものの温かさがどれほどのものだったのか思い知らされる。いっそ、現実世界に戻りたくないと思ってしまう。ずっとこのままここに居たかった。

 でもそのとき、武男が優しい声で言う。

「安心して、私たちは死んでいないから」

 確かに、武男も赤木も秋の心の中で生き続けている。それは秋も分かっているけれど、涙は止まらなかった。

「秋」

 そのとき、プレートの火を止めて赤木が語り掛けてきた。

「もう十分に、足掻くことは出来たか?」

 そこで秋は顔を上げる。赤木がニッと、笑みを向けてきた。そして赤木は再びプレートを加熱すると、カルビを一切れ焼き始める。

 やがて、ちょうどいい色がつくと、それを雫の小皿へと盛った。秋はそれを恐る恐る、箸で掴む。そして、タレに付けた。それでも肉は消えない。

 秋はゆっくりと、箸を口に運んでいく。

 カルビが舌先に触れた途端、タレの甘みと肉の柔らかさが口いっぱいに広がった。お肉は焼き立てで熱い。それでも秋は必死に噛んだ。その度に、ジューシーな旨味が溢れ出て来て、秋は幸せを感じる。

「おいしい」

 秋が思わず声を上げた瞬間だった。目の前の光景が一瞬で切り替わる。前の席に座っていたはずの二人が消え、上杉が現れた。

 そして気が付けば、雫の体は固定されている。腕も足も胴体も、椅子に縛り付けられていた。

「再び、美波君と会うのが楽しみだね」

 上杉は笑うと、自動ドアを潜ってガラスの向こう側に現れる。そして、横に座っている研究員に指示を送ると、直後雫の体に稲妻が走った。全身が、下からハンマーで叩きあがれたかのように浮き上がる。それを分厚いシートベルトのような拘束具が押さえつけた。秋は心を落ち着かせる。何も考えてはいけない。ただぼーっと自分の身に起きていることを観察する。そうすれば時間は勝手に過ぎていく。これまでも、そうやって電流の痛みをやり過ごしてきたのだ。

 しかし、なぜか今は上手くいかない。まるで神様の砂時計が詰まってしまったように、一秒一秒がゆっくりと流れていく。

 その間にも、全身を鋭く差すような刺激が走り続ける。早く、終わって欲しい。もうこれ以上は耐えられない。もうこんな暮らしには戻りたくない。 

 そのとき、赤木の声が脳裏に浮かび上がって来た。

「足掻くことも出来ない奴に、諦める資格なんてない」

 その瞬間、雫の瞼が潤い始める。目を瞑れば涙が零れ落ちてしまいそうだった。

 電流の痛みから、まるで自分がプレートに焼かれる肉になったような気がしてくる。そんな運命なんて、嫌だ。絶対に。

 そう胸の中ではっきりと思った時、秋は涙を必死に押しとどめて、代わりに上杉の目を真っすぐに見た。

 上杉は人生における最も愉快な瞬間を味わうような目で、雫を見ている。

 両者の視線が正面からぶつかった。電気椅子の内側が、ウィィンと機械的な唸り声を上げる。胸の中が焼けるように熱い。

 次の瞬間、秋は叫び声を上げた。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

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