第19話
秋はそれが銃声であるとすぐに分かった。そして、強い既視感を覚える。
ついこの間、施設を抜け出すときにも背後から似たような銃声が鳴り響いてきた。そのときは、武男が死んだ。今回は………。
秋はそこで考えるのを止めた。体が考えるなと叫んだ。そして、逃げろと心の中の何かが秋を急き立てる。
秋は美波をさらに加速させた。さっきまでも全速力で走っていたのに、さらに速く走れることに驚く。美波の息を吸う音が大きくなっていくことも気にならない。
今はただ走る時だと、本能が理解しているようだった。やがて秋は突き当りまで辿り着くと右に逸れ、住宅街の中を自分でもどう進んだか分からないくらい、あちこちへと動き回る。
そしてもう何度目かもわからない角を曲がったところで、公園に行き着いた。秋の肺とふくらはぎは限界を迎えてきている。
公園はそこそこの広さで、街頭も多く他の場所よりも明るかった。しかし周囲を木々が囲っていて中の様子は見えない。
秋は美波の体で公園の中へと足を踏み入れた。中に入ってみると、公園の外周は散歩用に舗装されていて、中央には芝生の広場が見える。
秋は中央には向かわず、散歩コースの外側に並ぶ腰くらいの高さの紫陽花と木々との間にあるスペースに身を収めた。ここなら、内側からも外側からも美波の姿は見えない。
そこで秋は音を立てないように呼吸を整える。そのとき、頭上から鳥の鳴き声がした。それに秋はビクッと肩を震わせる。五感が研ぎ澄まされていて、些細な刺激にも体が敏感に反応してしまうのだ。
これからどうしようかと思った時、秋は美波のズボンにスマホが入っていることを思い出した。
ポケットからスマホを抜き出すと、音を消し画面も最大限暗くしてから、助けを呼ぼうとする。真っ先に思いついたのは斎恩だったが、連絡先を持っていない。というより、美波のスマホにはクラスメイト以外の連絡先は入っていなかった。
つまり助けを呼べるような人がいないのである。秋は一瞬絶望しかけたが、すぐにクラスメイトを経由して校長先生にメッセージを伝える方法を思いつく。あの学校の生徒なら、斎恩の連絡先を知っていてもおかしくない。そう思って、もっともらしい言い訳を考えていた時、スマホが美波の手からすり抜けた。
秋は驚きすぎて、出かかった声すらも唾と一緒に飲み込んでしまう。体中で鳥肌が立ち上がるのを感じた。
「駄目だよ、こんな暗い所で携帯なんて見ていたら」
タオルなしの筋肉質な作業着男がにこやかな笑顔を向けてきた。紫陽花の木の向こうでタオルを巻いた男も並んで美波を見ている。
「どうしてここが?」
「どうやら最近の機会には、GPSというものが付いとるらしいね」
そう言って筋肉質な男が美波のスマホをひらひらと振る。
「一言でいえば、ハッキングだ」
タオルを巻いた男が、真顔で言った。秋はもう、口を開くことすらできない。
「悪いが、こっちも仕事でやっているんだ」
タオルを巻いた男がそう言うと、紫陽花の木をへし折りながら美波へと近づいてくる。筋肉質な男がそれに続いた。
秋は美波の体を動かさない。ついに、その時が来たのかと思った。だったらもう抵抗はしない。もうこれ以上は何も望まない。それだけが、一番楽な方法だった。
タオルを巻いた男は美波に抵抗の意志が無いことを理解すると、ほっとしたようで、優しく美波の腕へと手を添える。そしてそのまま公園の外へと、美波を促した。
その直後のことである。タオルを巻いた男が、唐突に自らの鼻を抑えて、後ろへと後ずさった。秋は美波の拳に、ジーンと重い感触を感じる。秋は自分でも知らないうちに、男の顔面を殴打していたのだった。
「ってぇ。てめぇ何しやがる」
タオルを巻いた男が喚いた。だが筋肉質な男はそちらに見向きもせず、美波との距離を詰める。
「君、いい加減にしないといけないよ。抵抗しても、傷つくのは君だけだ」
直後、美波の頬が揺れるのを感じた。何が何だか分からないまま美波の視界が回転し気づけば星の無い夜空を仰いでいる。その視界の端で、筋肉質な男の幹のように太い腕が見えた。男はその腕をすでに振り抜いた後のようである。
殴られた所からギンギンと痛みが突き刺さって来た。口の中で血の味が広がっていく。秋は美波の顔が歪んでいるのを感じたが、それを直そうと少し表情筋を動かしただけで頬に激痛が走る。
筋肉質な男の拳は、信じられないほど重たかった。横でタオルを巻いた男が鼻を抑える姿勢のまま呆然としている。
「まだ私が手加減しているうちに、おとなしく従っていればよかったものを」
筋肉質な男は美波の体に影を落とすようにして、美波を見下した。その顔には不気味な笑みが広がっている。
秋は痛みで体が痺れて、ただその笑顔を見上げることしか出来ない。
筋肉質な男はそんな美波の様子を見てさらに口角を上げると、美波の顔を思いっきり踏みつけた。作業用の安全靴の厚底が、美波の頬を抉るように食いこんでくる。
秋は再び、顔から激痛を感じた。痛すぎて、それが痛みだと認識するのが遅れてしまうほどである。皮膚が貫通し、直接骨が踏みつけられているかのようだった。苦いゴムの風味に混ざって、口の中に土が入り込み、血の味と混ざって吐き気がする。いや、実際に吐き出していたかもしれない。そのときにはもう意識が朦朧としていて、ただぼんやりとした視界の中に、藍色の紫陽花が点となって浮かんでいるだけだった。
秋はそのまま眠るような安らかさで、ゆっくりと瞼を閉じる。最後に筋肉質な男は、地面に穴を掘るように靴底を美波の顔の上でグリグリと捻った。
秋の意識が戻った時、美波は暗い部屋の中にいた。いや、違う。秋は床がぐらぐらと揺れているのを感じて、ここがトラックの荷台の中であると理解する。実際に、横にはペットボトルのジュースが並んだ段ボールが固定して積まれていた。
美波の体は今、体育座りの姿勢で荷台のドアの前に収まっている。
美波の頬は、まだひどく傷んでいた。瞬きするだけで、嫌な痛みを感じる。触ったり、口角を上げたりしようとすると、涙が出そうになった。口の中も、あちこちが切れてしまっているようで、血の味が口の中に残っている。
トラックは山道を走っているのか、さっきから左右に揺れっぱなしだ。その度に段ボールの中身がガタガタと不快な音を立てていた。
秋は暗闇の中、身動きを取ることも出来ず、ただ美波の膝におでこを当てる。そして目を瞑った。
赤木は死んだ。その事実が突然脳裏へとフラッシュバックしてきて、秋は嗚咽を漏らす。また自分のせいで人が死んだ。武男の時と全く同じ状況だった。二発の銃声音が、狂ったCDのように何度も何度も脳内で再生される。
全部自分のせいだ。自分が最初から上杉に従っていたら、武男も赤木も死ぬことはなかった。武男の手を拒否していれば、武男が命を懸けてまで秋を外の世界に連れ出すこともなかったはずである。そして外の世界に出なければ、美波を連れ戻そうとした上杉の部下に赤木が殺されることなんて起こりえなかったのだ。
どうして銃弾が貫くのは、いつも秋ではないのだろうか。全て、秋が悪いというのに。そうやって秋は、心の中で何度も何度も自分を責める。人は自分の体をナイフで刺すのは怖いけれど、自分の心を言葉のナイフで抉ることは容易にしてしまう。そして、一度心が傷つくとそれを直そうとして、さらにナイフを心に突き立てるのだった。
なぜ、なんで、どうして。同じような疑問が永遠に、秋の頭をぐるぐると回る。
希望を持つことなんてしてはいけなかった。秋はそのことを胸に刻み込む。希望は悪だ。人を誘惑し、非合理的な行動に導き、多くの犠牲を払わせた結果、最終的にはその人を絶望へと叩き落す。希望とは幻想であり、人智を超えた何かが人を弄ぶために生み出したただのおもちゃに過ぎない。
赤木は初めて出来た友達だった。施設にいる頃からずっと憧れていた友人の存在。学校に行く前は、不安だった。本当に誰かと親しくなるなんて可能なのだろうかと。秋はずっと施設の中にいて、限られた人間としか接してこなかった。そんな自分に、価値があるのかと悩んだ。
それでも初めて教室に入ったあの日、赤木が、
「サッカーは好きか?」
と真っ先に質問をしてくれた。あのときは緊張していて、自分でも何を感じているのか分からなった。しかし今思い返せば、赤木があの時手を挙げて、秋のことを知ろうとしてくれたことに言いようもない喜びを感じる。施設にいた頃は、秋はあくまで実験の対象であり、秋がどういう人間なのかを知ろうとする人間はいなかったのだ。
だからあの時秋は、初めて自分という人間にも価値があることを、学んだのである。
赤木はいつも熱くて、眩しくて、本当に炎みたいな人だった。しかも、自分自身が燃えているだけではなく、周囲の人にその火を分け与えてくれるような存在だったのだ。彼の周りには常に笑顔があった。
秋はふと、美波の頬からヒリヒリとした痛みを感じる。原因は涙だった。気づけば美波の瞼から、涙が頬を伝って行き、顎の先から垂れ落ちていく。
涙は止まることを知らず、次から次へと頬を通過していく。その度に、痛みが刺激となって脳に伝わっていく。しかし秋は涙を止めてはいけない気がして、そのままずっと泣き続けた。ごめんなさい。本当にごめんなさい。そう何度も胸の中で呟きながら。
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