第17話

 それから数時間後、優音が家へとやって来た。秋が斎恩と電話を終えてすぐ、雫の携帯から呼び出したのである。

 優音は緊張した面持ちで部屋へと入ってくると、美波に促されるままダイニングテーブルに腰かけた。

「雫君は?」

 優音の正面に座った美波に向かって、優音が語り掛ける。優音はスポーツ大会が終わってからすぐに家へと寄ってくれたらしく、制服姿だった。

「雫はまだ体調が良くないから、部屋で寝ているかな」

「雫君が連絡してきてくれたのに?」

 優音が不思議そうに、美波を見た。美波は何かうまい言い訳を考えたけれど何も思い浮かばず、

「うん………」

 と、情けない声を絞り出すことが精いっぱいだった。そもそも秋は、優音が今目の前にいること自体に驚いている。斎恩に家から出られないのなら呼んでしまえば良いと言われて、真っ先に思いついたのが優音だった。

 しかし呼んだはいいものの、そこから先は完全にノープランである。優音とは以前からギクシャクした関係が続いていたし、どうせ来ないと思っていた。やんわり断られるのがオチだと、勝手に信じ込んでいたのである。

 目の前の優音は壁や天井に文化的な価値があると信じているように、部屋のあちこちを眺めていた。

 とても、本当に、非常に気まずい空気が二人の間に流れる。このままでは美波は完全に変人だった。

「ねぇ」

 そこで床の鑑賞を終えた優音が、美波に声をかける。

「何か私に言いたいことでもあるの?」

 純粋な二つの瞳に美波が捉えられる感覚を覚える。

「言いたいこと?」

「特にないなら、私帰らせてもらっていい?」

 優音は表面上穏やかな態度を保っているが、心の内ではきっと不信感を募らせているに違いない。

 秋が答えられずにいると、優音は美波から視線を外し再び美波のことを見ようとはしなかった。いつでも席を立つことができるようにと、彼女の腰はわずかに浮いている。その目は泳いでいて、虎に睨まれたうさぎがするように肩を震わせていた。

 秋はなんとか場をつなごうと、優音の顔を覗き込む。そして、笑顔を向けるつもりだった。

 上手くいかなかった。自分でも、顔が不格好に歪んでいるのが分かる。そのとき、優音と目が合った。彼女は息をのむと、見てはいけないものを見たかのように美波から視線を逸らす。

 もしここで美波が奇声を上げでもしたら、優音はすぐに泣き出してしまうだろう。肩を震わせ、恐怖に耐えるようにこぶしを握り締めているのが分かった。

「ごめんなさい、この後用事を思い出したので、もう帰らせて頂きます」

 優音は音を立てないようにそーっと立ち上がると、リビングの扉へと向かっていく。その後ろ姿は美波の瞳に、今までに見たことが無いほど儚く映る。

 それを見て、秋の心の何かが動いたのだった。

「僕は雫だ」

 秋は気が付けば、音を出していたのである。それが声だと気づくのに数秒かかった。そしてその内容を理解するのに、さらに数秒を要する。

 まさか、自分から二分の一重人格のことを打ち明ける日が来るとは思ってもいなかった。自分でも今言ったことが信じられないというように、美波の目を丸めている。

「何を言っているの?」

 優音が至極当然の疑問をぶつけてくる。彼女はまさにリビングの扉のドアノブに手をかけたところだった。

 秋はそこで誤魔化すことが出来たかもしれない。でも、優音を引き止めるためには、話し出すしかなかった。

「優音、君は僕によく数学の早解き対決を挑んでは負けていたね」

「あなたにじゃなくて雫君にだけど、どうしてそれを」

「言ったでしょ、僕は雫だ。いや正確に言うと僕の名前は秋だ。雫と美波はただの器に過ぎない。僕は二分の一重人格なんだ」

 そのとき優音は、口に手を当てて美波を凝視する。下から上まで、この世のものではないものを見るかのような視線を向けてきた。

「僕はずっと、とある施設で暮らしてきた」

 美波の口は、話始めると言葉を止めようとはしなかった。そうやって秋は、二分の一重人格の事、施設の話、学校に来ることになった経緯を詳しく説明していく。気づけば、武男の死についても言及していた。

 最初、優音は驚いた様子で話が入って来ていないようだったが、次第に頷き、相槌を挟んでくれるようになる。

 そして一通り美波が話し終えると、優音が聞いた。

「じゃあ本当に、今私が話しているのは雫君と同じ人物ってこと?」

 優音はいつの間にか、席に座りなおしている。

 美波が頷いた。

「じゃあ、スポーツ大会の種目決めをした日、私と雫君とそれからクラスメイトの何人かでした遊びは何?」

 優音が聞いた。その目は、まだ二分の一重人格について半信半疑であることを示している。

「トランプだ。最後まではできなかったけれど」

「じゃあ、そのとき書記係をしていた私の親友の名前は?」

「里奈ちゃん。僕たちが遊んだトランプを貸してくれたのも彼女だ」

 秋は美波の体で淀みなく答えた。

「当たってる………」

 それに対して、優音は言葉を失わざるを得ない。優音は人生で初めて解けない問題に出会ったというような顔をした。しばらく顎に手を当て、腕を組み、眉をひそめながら考え込む。時折顔を上げると、睨むように美波の顔を見た。

 しかし、やがて観念したかのように自らのほっぺを軽く叩くと、自然な笑顔を顔に浮かべる。

 それはまるでひまわりのようで、そこに存在するだけでこっちの気持ちまで晴れ渡って来るみたいだった。

「分かった。今私の目の前にいるのは、雫君なんだね」

「秋だけど………」

「あぁそっか、ややこしいな。じゃあ今度からは、秋君って呼ぶね」

「うん。そうしてくれると、有難い」

「一つ質問なんだけど、今まで私が接してきた雫君も、中身は秋君だったってことだよね?」

「そうだよ」

「だったらさ、秋君は私の事どう思っているの?」

 今度は秋が言葉を失う番だった。優音が大きな瞳を全開にして、美波を覗き込む。

「どう思っているとは?」

「そのままの意味だよ。私は秋君にとってどんな存在なの?」

 秋は優音の視線に耐えられず、俯いた。心臓が動悸を覚える。

 優音がこんな質問をしてきた意図は何だろうか。もしかしたら、そう言うこともあり得るのかもしれないと胸の中で期待が膨らんでいく。しかし、これこそ答えのない問だった。この問いかけの真意は優音にしか分からない。

 だがまた、秋の中に住む冷静に感情を分析しようとする自分が言った。ここで、素直に気持ちを打ち明けるべきではないのか?と。どうせ、すぐに施設に戻るのだ。お前は未練を残さないために、彼女をここへと呼んだのだろう?後悔しないためにも、ここはありったけの勇気を絞り出すべきだ。

 しかし、秋の理性はそれに反論する。自分と優音では住む世界が違うのだと。大切なのは、今後も優音と同じ空気を吸うことができるかということだ。秋にはそれができない。だったら、告白をしたところで上手くいくはずがないのだ。それに、もし仮に、万が一成功したとしても、その先へと進むことはない。ならば、正直な気持ちを伝えることにどれほどの意味があるのだろうか。

 そこで秋は口を開く。

「優音は、僕にとって………」

 良き友人だ。その言葉が、もう喉の先までせり上がってきていた。しかしその音が口から出る直前、秋は優音のことを見てしまう。

 優音は相変わらず優しい笑みを口元に浮かべている。その柔らかそうな唇に、秋は惹きこまれてしまう。ピュアな瞳が、真っすぐに自分のことを見ていた。その奥で緩やかな巻き髪のポニーテールが僅かに揺れている。そこから自然と、細く麗らかな首筋へと視線が動く。

 もう秋は気持ちのコントロール権を放棄せざるを得なかった。誰が優音のような存在を前にして、意識せずにはいられるのだろうか。

 秋の心は自由になるとすぐに、告白をする意思を固める。胸の中が沸騰したように高鳴っていた。体が火照ってきて、うっすらと汗をかき始めたようである。

 秋は一度目を瞑ると、深呼吸をした。そしてついに、その言葉を優音へ届けようと口を開いたその時である。

「やっぱり、言わなくていい」

 優音が先に口を開いた。その一言で、美波の口から出かかっていた言葉が引っ込んでしまう。

「やっぱり、言わなくていいよ」

 優音がもう一度言った。優音は美波から視線を外すと斜め下を見る。その表情から、笑顔が消えた。

 美波は優音の心情変化についていけない。何が起こったのだろうか。

「自意識過剰かもしれないけど、秋君の気持ちにはなんとなく気が付いてた」

 優音が言葉を吐く。

「私もずっと同じ気持ちだったと思う。でも、私は自分自身の気持ちを認めることは出来ない。絶対に、許してはいけない。私はひどい人間だから」

 優音の表情が、暗く沈み顔には影が出来ていた。秋は優音のそんな姿を始めて見た気がする。

「優音はひどい人間じゃないよ。だって、こんなに明るくて、優しいじゃないか」

 美波はなんとか優音を慰めようと、声を上げる。

「ううん。優しいのは秋君の方。私じゃない」

 そんなことないよ、と秋は口にしようとしたけれど、優音の真っ黒な瞳を見て、思わず言葉を飲み込んでしまう。

「私の過去の話をして良いかな?」

 優音は斜め下を見たまま言った。その瞳はすでに美波ではなく過去を見ている。

「結論から言うと、私は人を殺したことがあるの」

 優音が自虐的に笑った。

「ね?ひどい人間でしょ?」

「待って、話が分からないよ。どういうこと?」

「私、中学生の時に初めて好きな人が出来たの。仮にA君って呼ぶね。当時はもうそのA君のことが好きで好きでたまらなかった。それで、私ちょっと特殊な環境で育ったから、そのときはまだ社会性みたいなものを十分に身に着けてなかったの。常識とか倫理観とかそういうものが欠如していた。って言っても言い訳にしかならないけれど。でもとにかく、善悪の判断が出来なかった。だから私、私の親友がA君のことを好きで、A君もその親友のことが好きって知った日は、本当にショックだった。そして、どうしてもA君に自分のことを好きになって欲しいと思ってしまったの。それが、すべての元凶だった」

 秋は、信じられないくらい低いトーンで話す優音を見守ることしか出来ない。

「それで私は、私の親友の悪口をあちこちに振りまいた。自分でも吐き気がするくらいひどい噂を友達、先生、そしてA君にも話した。私の作戦は成功した。A君と私の親友はそれから疎遠になっていった。なぜなら、私の親友が学校に来れなくなってしまったから。そしてそれから数か月後、私の親友は自殺した」

 優音はまるで国語の教科書を音読するかのような抑揚のない声で、淡々と自身の過去を打ち明けた。

「じゃあ私、帰るね」

 優音は話し終えると、一呼吸置く間もなく立ち上がった。そして秋が立ち上がる隙もなく、リビングの扉を開くと、最後に美波の方を振り返る。

 そして、例の黒い瞳で美波を睨んだ。

「もう私に関わらないで」

 数秒後、玄関の扉が閉まる音が静かな部屋に響いたのだった。

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