第16話

 結局、届いたのはテイクアウトのカレーだった。秋は届いた昼食に何かと文句をつけてやろうかと思っていたが、あまりに無難なチョイスに言葉を失う。そして、味が美味しかったことがさらに秋をやるせない気分にさせた。

 そう言えば、雫の方はお腹が減っていないなと秋はふと思う。しかし考えてみると、定期的に何かの食べ物を口に押し込まれていたことを思い出した。やはり上杉は、雫を傷つける気はないらしい。そのことに秋はほっと胸を撫でおろす。

 そこで昼食を完食し、またベッドにでも行ってダラダラしようかと思ったその時である。

 全身に電流が流れたかのような衝撃が走った。まるで体のあちこちをハンマーで同時に殴られたかのようである。

 美波は思わず椅子から転げ落ちた。しかし、秋は冷静になると美波の体には何の異常も見当たらない。両手を握っては開いてみるが、体の感覚はいつも通りである。

 秋は慌てて意識を雫へと移した。すると再び、体が千切れてしまいそうな程の痛みを感じる。なんとか苦しみから逃れようと身を捩るのだが、手足と胴体が拘束されていて身動きが取れない。

 そんな悪夢のような時間が数十秒続いて、やがて痛みは収まった。しかし体の中には電気が残っていて、まだ手や足の先はピリピリ痺れて動かない。

 視界は相変わらず目隠しをされているようで真っ暗だった。耳も何かで塞がれていて、音は聞こえないのだが、それはすぐに解消される。

 何者かが雫の頭に付いていたヘッドホンのようなものを外したのだ。

「やぁ、お久しぶりだね。秋君」

 その声は上杉だった。姿は見えないけれど、暗闇から声だけが聞こえてくる。そのせいで、上杉の声が普段以上に悍ましく脳裏に響き渡って来た。

「美波君の方は元気かな?」

 上杉が笑みを顔に張り付け、両手を広げながら聞いている様が瞼の裏に浮かんでくる。秋が答えないでいると、上杉は続けた。

「そろそろ、この電気椅子の味が恋しくなる頃かと思ってね」

 そう言うと、急に雫の肩に手が置かれた。視界が無い中で、いきなり体に触れられ、雫は反射的に体をビクッと震わせる。

「そうだ、君に話しておくことがあったんだ。最近、君の新しい家が出来上がったのだよ」

 上杉が先ほどより耳に近いところで喋っているのが感じ取れる。

「今度は太平洋に浮かぶ孤島だ。こんな地下の土臭い施設よりも、ずっと快適に過ごせると思うよ。それに、今度は愚かにも逃げようとした所で、それは叶わないだろうね。まぁ君が鮫よりも早く泳ぎきる自信があるのなら話は別だが」

 上杉は笑いを堪えきれないと言った様子で話した。秋は、その声の不気味さに、言いようのない不快感を覚えつつ、黙って話を聞く。

「その反応を見るあたり、あのじじいから新しい施設のことは聞いていたのかな。せっかく、サプライズで発表しようと思っていたのだが、まぁいいか。美波君の体が揃い次第、君を絶海の地へ招待してさしあげるから、お楽しみに」

 そう言うと上杉が再び雫の耳に、何かを取り付けるのを感じた。途端に周囲の音が遮断され、ゴオォーという耳を塞いだ時特有の音だけが唸っている。それはまるで断崖絶壁に砕け散る波を思わせるような音だった。

 そこで秋は美波に意識を戻す。気づけば美波の来ているシャツには汗が滲んでいた。どこからともなく、焦燥感が沸き上がって来る。今まで施設に戻る日は近いと言葉では理解していたけれど、それが実態を伴って秋の前に現れたのだった。一時間後、自分はまたあの無機質な部屋に閉じ込められていたとしても、何も不思議ではない。

 そう思うと、今まで自由に暮らしてきたこの家がまるで監獄のように思えてきた。やっぱりここにいてはいけない。そうやって心の中の何かが叫ぶ。

 別に、施設へ戻ることが怖いわけじゃない。嫌なわけでもない。むしろそれは喜んで受け入れる。一生外の世界で暮らしていけるなんていうのは甘い夢に過ぎず、無意味な希望を生み出すだけだった。でもだからと言って、このまま何もせず施設に戻ったらきっと未練が残ってしまう。それだけは避けなければならない。傷つかないためにも、きっぱりとこの世界に別れを告げる。秋が現在望んでいることは、それだけだった。

 そのとき、美波のスマホ軽快な音を鳴らして着信を知らせる。秋は机の上に置いてあったそれを手に取った。メッセージは赤木からのものである。すぐにアプリを開くと、赤木から写真が送られてきていた。見るとクラスメイト達が体育館で手を挙げ、喜びを分かち合っている。

「ドッジボール、男女ともに優勝したぞ‼」

 と赤木から追加のメッセージが送られてくる。

「このまま行けば、総合優勝は俺たちのクラスで間違いないぜ」

 赤木が興奮した様子でメッセージを打っている様子が浮かんでくる。それはとても微笑ましい光景なのだが、その場に自分がいないことに秋はやはり寂しさを感じた。

 秋はこれ以上赤木とやりとりをしていても、辛くなるだけだと思い、携帯を机に置こうとする。

 しかしそのとき、さらに赤木からメッセージが送られてきた。不可抗力でそれが目に入ってしまう。

「それで、明日クラスで祝勝会やることになったんだけどよ、美波も来るよな?」

 赤木からのその問いかけに、秋は固まった。どうしても祝勝会に行きたいと思ってしまっている自分に気が付く。駄目なことだと自分を説得しようとすればするほど、欲望は膨れ上がっていくのだった。

 秋は再びスマートフォンを持ち直し、メッセージを打ち込んでは消すと言う動作を繰り返す。

 だがそれだけでは問題は前に進まないことを秋は理解していた。秋はスマホを机に置くと玄関へと向かう。そして、玄関の扉を内側から叩いた。

 すぐに扉の奥から声がする。

「どうしましたか?」

「斎恩先生と話をさせてください」

 そう言うと、一瞬扉を隔てた沈黙が生まれた。しかしすぐに向こう側で大人が話し合う声が聞こえて、数秒後返事が来る。

「分かりました。電話をかけて見ますので、少々お待ちください」

 その直後、玄関扉越しに電話をかける音が聞こえてきた。一、二、三、とコール数だけが重なっていく。

 その場にいた、誰もが諦めかけていた。

「ごめんなさい、やっぱり斎恩先生は出ないようで………」

 警護係の人が、そう謝罪の言葉を述べた時、扉の向こうの空気感が変わったことが伝わって来る。

「はいっ」

 警護係の人が声を上ずらせると、一言二言話した後、外側から玄関がノックされる。

 秋は扉を開けた。すると、手だけがドアの隙間から差し込まれてきて、携帯を秋に押し付けてくる。

 秋はそれを受け取ると、耳に当てた。

「もしもし」

「あ~、美波君かね。何かな私に話というのは?」

 斎恩は電話越しでもいつもと変わらない口調で話していた。だがその奥から、苛立たし気な声がする。

「斎恩先生、その電話今じゃないといけないんですか?今は大事な話し合いの途中ですよ」

 その声は野太く、どこか威厳を感じさせた。

「すまないね、教え子から話があると言われたもので」

「教え子から?こんなことを言いたくはありませんが、警視総監との話し合いと教え子の相談、どちらの方が大切だと思っているのですか?」

 電話の声は、どこか呆れたような口調で斎恩に問いかける。秋は警視総監という言葉に驚いたが、斎恩なら普通に会っていてもおかしくないなと思ってしまう。

 そしてその斎恩はいたって真面目に、

「私にとってはどちらも同じくらい大切なことだ」

 と言った。電話の奥の警視総監はそう言われることが分かっていたようで、諦めるように、

「分かりました。出来るだけ手短に済ませてくださいね。私とあなたが会っている時間が長くなっても、良いことは一つも無いので」

 と言った。

 そこで二人の会話に区切りが着いたようである。斎恩は咳払いすると、改めて秋へと会話の対象を移す。

「すまないね。それで、話とは何のことかな」

「あっ、えーと、実は炎から祝勝会の誘いが来ていて、行きたいな~と思っているのですけど、駄目ですか?」

 秋は警視総監の話を遮ってまでする話ではないと自分でも思ってしまい、声が萎んでしまった。

 だが斎恩はやはりいつもと同じ口調で答える。

「駄目だ」

「そうですよね」

「君はまだ自分自身を騙している。自分でも気づかないうちに、だ。そのことを自覚したとき、本当の自由はやって来る」

「はぁ」

「その様子だと、今はまだ全く見当が付いていないようだな。まぁとにかく、ことが収まるまで家から出てはいけない。だが、物は考えようだ。家から出てはいけないなら、家に呼んでしまえばいい。それに禁止されているとはいえ、家を出たところで誰も君に罰を与えることは出来ないとだけ言っておこう」

 そこで斎恩が悪戯っぽく笑う声が聞こえてくる。それから、その奥から警視総監の溜息が聞こえてきたような気がした。

「それでは、ご機嫌用」

 そう言って、電話は切られてしまう。

 そのときちょうど玄関がノックされた。

「電話は終わりましたか?」

「はい、ちょうどいま終わりました」

 秋が美波の口で告げると、玄関が僅かに開き、手が伸びてくる。秋はその手に携帯を返した。

「斎恩先生は何と?」

 扉の隙間から覗いている手が、美波に話しかける。秋は、そこで一呼吸置くと、斎恩の台詞を頭の中で再生した。秋はその半分も理解できた気がしないけれど、まるで斎恩の茶目っ気が映ってしまったかのような声を上げる。

「明日の夜、外出の許可を頂きました。それから、もしかしたら友達が家に来るかもしれません。もし来たら、家にあげても良いという許可も斎恩先生からもらっています」

 とスラスラ答える。玄関から覗く手は一瞬疑うようにその場に留まっていたが、

「承知しました」

 と言って引っ込み、扉を閉めたのだった。

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