第15話
ピッチに入った美波に、赤木が耳打ちする。
「あれから一点決められて〇対四だ。残り時間はだいたい十分」
それだけ言うと赤木は、美波から距離を取り自分のポジションへと戻っていく。
その直後だった。
「いくぞぉーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ‼」
赤木の咆哮がグラウンド中に響き渡る。隣のコートの三位決定戦を観戦していた生徒達も、赤木のことを振り返っていた。
勝夜が、
「あいつの無駄な気合だけは、世界トップクラスだな」
と呟いた。そして、呆れたような視線を赤木に向ける。
そして秋もまた、赤木のことを見ていた。遠くに見える赤木を。眼下に広がるピッチの中央で、声を枯らす男を。大きな驚きと、そして光とともに。
隣の優音が、耳元で言った。
「ごめん、私呼び出されちゃったから、少し外すね」
そう言うと優音は、逃げるように雫の横から去っていく。だが今はそんなことは気にならなかった。
秋は今、雫の体でグラウンドを見下ろしている。
先ほどの衝撃的な感覚がまだ残っていた。秋は、赤木の叫び声を時間差で二度聞いたのである。一度目は、近くにいた美波の耳から。そして二度目は雫の耳から。そのとき、突然頭の中である考えが閃き、慌てて意識を雫に移したのだ。
秋は窓枠に雫の腕を置き、爽やかな風を受けつつ、赤木達が試合をしているコートに目を凝らす。
ちょうど今、美波がピッチに入り試合が再開したところだった。上からだと、試合の状況がよく見える。ディフェンスの配置、空いているスペース、ボールの位置などが正確に判断できた。
そうやって雫の体でコートを俯瞰しつつ、秋は美波の体を動かしていく。
秋はさっきまで美波の体をずっと最前線に張らせていた。それがフォワードに求められる役割だからだ。
しかし俯瞰的に見ると、それは勝夜たちを相手にする時には悪手であったと気づかされる。
その証拠に、美波には松下がピッタリとマークに付いているが、その背後にスペースは無かった。つまり美波がスルーパスを受けたりドリブルをしたりする余地が無いのだ。
そこで秋は、美波の位置を少し後ろに下げる。松下がそれに合わせて距離感を変えずに付いてくるけれど、その背後には空間が生じた。
そこでタイミングよく、赤木から美波にパスが入る。
すぐに松下がピッタリと体を寄せてきた。秋は松下に体を当てつつ、ゴールに背中を向ける形でボールをキープする。そして顔を上げると、赤木に背後のスペースを目線と首のわずかな動きで伝えた。
赤木はそれを十分に読み取ったらしく、直後猛ダッシュで美波たちを追い越していく。
秋は雫の目でタイミングを見計らう。そして、赤木が完全に松下の背後を取れると思った瞬間に、秋は美波の足を動かした。
松下は赤木を目線で追ってはいたけれど、美波が後ろを向いているためパスは出せないと判断したらしい。そうやって赤木を放置する代わりに、いっそう美波へのチェックを厳しくする。
だがそのとき、美波はボールを自身の足の後ろ側に回すと、かかとでボールを蹴った。いわゆるヒールパスである。
意表を突かれた松下の足元をボールが素通りしていく。そしてそれは赤木の足元で綺麗に収まった。
そのままキーパーとの一対一を赤木が冷静に沈め、一点を取り返す。直後、クラスメイト達から今日一番の歓声が上がった。
赤木が自陣に戻る途中で、秋は美波の手を出しておく。その手を、赤木が全力で叩いた。掌からジーンと重いものが伝わってくる。それ以上は、何も必要なかった。
そこから、流れが美波達五組へと傾き始める。
試合が再開されると早々に相手のパスミスを赤木が回収し、パスコースを探した。松下は、失点の反省を活かしたのか、美波との距離をわずかに空けた。しかし、それは裏のスペースを警戒している訳ではないと言うことは美波も分かっている。
むしろ松下は、あえて美波にパスを出させてそれをカットする、いわゆるインターセプトを狙っていたのだった。
だがそうなると………、秋はそこで美波の顔を思わずにやけさせてしまう。
秋は顔を上げ、赤木の方を見た。一瞬だが、お互いに目が合う。それだけで赤木は、秋が何を言いたいのか理解したようである。
その瞬間秋は、美波の体をコートの右サイド側に、弧を描くように膨ませた。
そこで赤木が寄せてきたディフェンスを一人抜き去り、顔を上げる。
秋は雫の方から、コートの状況を見渡した。裏のスペース、ディフェンスの配置、赤木と美波の角度。全て問題ないことを確認して、美波の体を全力で走らせる。
それと同時に、赤木が美波の足元ではなく走り込む先にあるスペースに目掛けて、繊細なパスを出した。速度、方向、タイミングのどれもが完璧なパスである。
松下が必死に足を延ばすも、ボールは彼のつま先の先を通過していく。
そして、美波はその背後で赤木からのパスを、受け取った。
なんだか笑いがこみ上げてきて、秋は二つの表情を綻ばせてしまう。
ついに秋はスルーパスを完成させたのだった。まだチームサッカーの経験が浅い秋に必要だったのは、コートの状況を俯瞰的に把握できる目だったのである。そして奇しくも、その目を持ちうるのは全世界で秋だけだった。
そうやって美波は完全に松下を抜き去ることに成功する。一人ではあれほど高かった壁。それが二人だとあっさり乗り越えられてしまうことに驚きを覚えた。
だがそれも束の間であり、後方から猛ダッシュで自分を追いかけてくる人物に気が付く。
勝夜である。彼は前半よりスピードを上げており、すぐさま美波の前へと立ちはだかった。
「何があったか知らねぇけど、後半から急に動きが良くなったな、美波。悪いけど、こうなれば俺も全力でやらせてもらう。何しろ俺は負けるのがこの世で一番嫌いだ」
そこで美波対勝夜の一対一が始まった。秋は揺さぶりをかけようと、フェイントを仕掛けてみたけれど勝夜は全く反応しない。ただ重心を落として、ボールを凝視していた。
どうやら勝夜は駆け引きに応じるつもりは無いらしい。むしろ、美波が動いてから後出しで完璧にその動きについてきていた。
それは本気を出した勝夜の瞬発力と身体能力故に出来ることであり、秋にとっては松下以上に厄介だと言える。
秋は完全に動きを止められてしまった。雫の体でコートを見ると、あたりにスペースは存分にある。しかし、そこへ行こうと美波の体を動かすと必ず勝夜に先回りされてしまうのだった。
その間にも、残り時間は減っていき焦燥感が心臓の拍動を加速させる。秋は何か手はないかと必死に頭を働かせた。今はまだあきらめる時ではない。やれることを全部やって、それでも駄目だった時に現実を受け入れればいいのだ。きっとまだ手は残されているはず。
そのとき、自陣側から猛烈な勢いで走って来る赤木が視界の端に映る。
「美波、こっちだ」
赤木は手を挙げつつ、美波にパスを要求する。秋はすかさず、横まで上がって来た赤木にパスを預けた。
しかし、勝夜も超人的な反応速度でそのボールについていく。そして気が付けばもう赤木に追いつこうとしていた。
だが、そのときである。勝夜が赤木の方へ走って行ったことにより、その後ろ側にぽっかりと大きなスペースが空いたことが、二つの視点から分かった。
秋は考えるよりも先に、美波の体で勝夜の裏へと走り出す。
そこでちょうどボールが赤木の足元へと届いた。それと同時に、勝夜は赤木がトラップした瞬間をついてボールを刈り取ることに狙いを定める。
しかし赤木はボールをトラップしなかった。彼は転がってきたボールを、そのまま美波の走る先へと蹴り出す。
勝夜が赤木の前に体を差し込んだときにはもう、ボールは美波に向かっていた。
そしてその正確無比なパスは、ピッタリと美波の足元に収まる。後ろから勝夜が追ってくるけれど、到底間に合う距離ではない。
秋はそのままキーパーの位置を確認して、ボールをこすり上げるように蹴った。最後に勝夜がスライディングをして足を伸ばしてくるが、美波のボールには届かない。
美波が放ったシュートは、ゴールのわずかに外側へ向かって飛んでいく。それを見た人たちはみんな、美波がシュートを失敗したのだと思った。その時である。真っすぐ飛んでいくと思われていたシュートが弧を描くように、内側へと曲がった。キーパーにとってもそれは予想外だったらしく、慌てて手を伸ばしてきたが、ボールに触れることは出来ない。そのまま美波のシュートは、ゴールの右隅に吸い込まれた。
そうして秋は、追加点をあげた。
「よっしゃぁぁぁっ‼」
ボールがゴールに吸い込まれた瞬間、秋は喉から声を絞り出し、拳を天高く突き上げていた。すぐにチームメイト達が駆け寄ってきて、美波の周りを取り囲む。そして、真っ先にやって来た赤木はまだ湿っている体操服にも構わず、美波を思いっきり抱きしめた。
ピッチ外からも、一際大きな歓声が上がる。未だ地面に滑り込んだままの勝夜が、拳で砂を叩きつけるのが見えた。
その後、美波達は勢いそのままに一点を追加し、勝夜たちをあと一点差まで追い詰めたが、そこで試合終了のアナウンスがグラウンドに響く。
「あ~」
とクラスメイト達は残念そうな声をあげたが、直後あちこちから拍手が沸き上がって来た。その真ん中に赤木と美波が立っている。
秋は試合に負けたけれど、とても幸せに感じていた。チームでのサッカーがどんなものか、今ならはっきりと答えられる。チームメイトやクラスメイトが居たからこそ、秋はここまで戦えたと自信をもって言うことが出来た。
特にハーフタイムに赤木が来てくれなければ、美波の体は今もあのベンチにあったかもしれない。仲間とは、互いに助け合い精神的にも物理的にも、一人ではできなないことを可能にしてくれる存在なのだ。そこに絆があるだけで、僕たちの日常は一段上の別世界になるのだと秋は思った。
いつの間にか空は晴れ渡っており、美波の額を心地良い汗が流れ落ちた。
そのとき、雫の名前が耳に入る。秋は本能的に、意識を雫の体へと移した。
窓の外の楽しそうな光景から視線を外し、後ろを振り返る。するとそこには、帽子を目深に被った女性の警備員がいた。
「雫君、大変。優音ちゃんが倒れたの」
警備員はそう言うと雫を手招きして、廊下を走り出した。秋は考える間もなく、雫の体でその後を付いていく。
やがて警備員さんは身軽に階段を駆け下りると、昇降口から外に出て、校舎の裏にある駐車場へと入った。
あたりは閑散としており、人の気配は無い。秋は、優音はどこだろうかと雫の体で周囲を見渡していたが、直後に全てを悟る。
そこで警備員さんが振り返り、雫の前にショートカットの可愛いらしい顔が現れた。秋はその顔に見覚えがある。前も確か似たような制服を着ていた。
目の前の警備員は、あのとき秋に東京への生き方を教えてくれた駅員さんである。
彼女はどこからか銀色の拳銃を取り出すと、銃口を雫の眉間に当てた。
秋は美波の体をソファへと沈めた。まだ昨日の疲労が残っていて、ふくらはぎのあたりが張っている。腰や肩の関節も、動かすたびにボキボキッと音が鳴るようなありさまだった。
だが体がソファに、沈没していくのは疲れのせいだけではない。
秋は昨日の夕方、スポーツ大会が終わった後の校長室での会話を思い出す。
確かあのときも、フカフカのソファに腰を下ろしていた。まだアドレナリンで元気だったため、背筋を伸ばしていたはずである。その前のソファに校長先生は優雅に座って言った。
「君が誰よりも分かっていると思うが、雫君が攫われた」
秋は美波の体で頷く。
「もちろんスポーツ大会中学校は厳戒態勢で警備していた。それにも関わらず、雫君は連れ去られてしまったのだ。そんなことができるのはおそらく上杉くらいだろう」
秋はなんとなく責められている気がして、肩をすくめた。
「私は少々上杉君を甘く見すぎていたようだ。昔の彼なら、おそらく雫君を誘拐することは不可能だっただろう。しかし、彼もまた人間だった。つまり、成長したのだろう」
秋は口を挟まず、ただ校長先生の言葉に耳を傾ける。
「上杉君に関して手に入った情報を共有しておこう。まず彼は、君があの地下施設を出る前から、太平洋の孤島を強引に買い取って別の研究施設を作っていた。聞いた話によると、そこはまるで要塞みたいだそうだ。おそらく彼に捕えられれば、君はそこに連れていかれることになるだろう。一度そこへ入れば、もう逃げ出すことは極めて困難だと言わざるを得ない」
秋は太平洋に浮かぶ巨大研究施設を頭の中で想像する。それもまた上杉のしそうなことだなと、妙に腑に落ちた。
「それから彼は今、残りの金を使って傭兵を大量に買い集めているそうだ。理由は想像するまでもないだろう。私も出来るだけ尽力するが、いつまでも君を守り通すことは難しいかもしれない」
斎恩は、明日雨が降るかもしれないと告げるようなテンションで話した。これももう、慣れたものである。
「そこで、君にはしばらく自宅待機をしてもらう。家の周りには常に複数人の警護係を置く。不便なことがあれば彼らを存分に頼ってくれ」
そこで、秋は初めて口を開いた。
「待ってください。どうして、自宅待機なのですか?」
「状況を、考えれば明らかだろう。もう学校も安全ではない。不要不急の外出は控えるべきだ」
斎恩は優しく、幼稚園児に物事を教える時と同じような口調で美波に説明する。以前はその優しさに安心感を覚えたけれど、そのときはなんだか違和感を持ってしまう。
「僕は別に施設に戻っても良いんです。ずっと前から覚悟していました。外での暮らしが長くは続かない事なんて、僕からしたら当たり前です。確かに、思った以上に短かったけれど。でも、せっかくなら最後の一瞬まで友達やクラスメイト達と楽しく過ごしてはいけないのですか?」
秋はわずかに声を荒げて、捲し立てた。しかし斎恩は顔色一つ変えない。
「明日もまだスポーツ大会は続きます。せっかく、外の世界に来たと言うのに、自宅に籠っていては意味がないじゃないですか。僕は明日上杉に捕えられようと構いません。だから、明日も普通に学校に来てはいけませんか?」
このとき秋は、数時間前のことを思い浮かべていた。クラスメイト達と心を一つにしたようなあの感覚。あれを、もう一度体感してみたかったのである。
しかし、斎恩はいつもと変わらぬ口調で、
「駄目だ」
と言っただけだった。
そうして秋は今、美波の体をリビングのソファに埋めていたのである。もうテレビをつける気にすらならなかった。今頃クラスメイト達が笑いや感動を共にしているのかと思うと、誰に対してかもわからない怒りがこみ上げてくる。
そこで、グゥーッと美波のお腹が鳴った。時計を見ると、すでに時刻は十一時を回っている。今朝は無気力感に押しつぶされて、ベッドの上で過ごしていたため朝食は取っていない。
秋は仕方なく美波を立ち上がらせると、玄関へと向かった。もしかしたら、という僅かな希望にかけて玄関の扉を押してみる。
扉は一瞬外側へと開いたが、すぐに外側から圧力が加わり押し戻されてしまった。
「不要不急の外出は、控えてください」
無機質な声が扉の向こう側から聞こえる。秋は、苛立ちながら扉に向かって喚いた。
「腹が減った」
すると、扉が返事をする。
「何か、買ってきましょうか?」
秋は再び扉に向かって声を上げる。
「普通の昼食が欲しい」
秋は必要以上に、「普通の」を強調して言った。だが扉は皮肉を理解しなかったのか、それとも分かったうえでスルーしたのか、
「承知しました」
とだけ告げ、それ以降喋らなくなった。
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