第14話
そうして迎えた第二回戦。美波達五組は僅差だが一組相手二得点をリードしていた。しかし、美波は未だ一点も決めておらず、目立った活躍はしていない。
理由は明らかで、さっきからずっとスルーパスを狙っているのだが、やはりタイミングを掴むのが難しかった。早く走りすぎてもパスをもらう前にディフェンスに追いつかれてしまう。逆に遅すぎると、ボールは無情にも目の前を通過していく。その間の絶妙なタイミングを探り切れないでいた。
そのとき赤木が相手選手からボールを奪って、顔を上げる。美波は相手ディフェンスの裏にスペースがあることに気が付き、慌てて走り出した。
しかし、今回は走り出すのが遅すぎて、赤木がパスを出すタイミングを失ってしまう。それでも赤木は何とかパスを通そうとしてくれたけれど、無情にもそれは相手選手にカットされてしまった。
秋は先ほどから幾度となく繰り返されている光景に、申し訳なさを募らせる。
だが、次の瞬間。赤木が気づけば、秋の位置まで走ってきていた。そして、今ボールをカットした相手選手から、自力でボールを奪い返すと、そのままシュートを放つ。
それが決勝点となり、五組は勝利した。
試合後、秋は美波の体で赤木に寄って行く。
「さっきはごめん。結局スルーパス上手く受けられなかったし、僕の分まで赤木を走らせちゃった」
「気にすんなよ。誰かが困っているときに、助け合うのがチームだろ」
赤木は問題なんて一つもないと本気で信じているような笑顔で前を向いていた。どうしたら、そんな顔が出来るのか不思議に思うと同時に、秋は赤木を羨ましく思う。
そしてなぜか赤木の横にいると、心に火が灯っていくのだった。
昼食をはさんだ午後一時過ぎ。グラウンドの興奮はピークを迎えようとしていた。クラスメイトだけではなく、すでに敗退したクラスの生徒もたくさん校庭に集まっている。さらに校舎の窓から、試合を見下ろす生徒もいた。観戦する生徒の数からも、決勝戦の注目度が伺える。
みんな固唾を飲んで、試合開始の瞬間を待った。五組は、クラスメイト全員で円陣を組み、気合を入れる。
対する勝夜たち六組は、軽くストレッチをしながら薄い笑みを浮かべていた。
秋は心の奥で、闘志が燃え上がるのを感じる。不安要素が消えた訳ではないけれど、今はできるだけのことをやるだけだと、気持ちの切り替えは出来ていた。
やがて、審判をやっている三年生の生徒が、両チームのメンバーをコート中央に集める。
二つのクラスが睨み合うように、向かい合った。勝夜はずっと半笑いで、
「何点で許してあげようか」
とチームメイトに言っていた。まったく緊張していないようで、余裕綽々といった態度である。
だが五組のメンバーもみんな闘魂を胸に秘めつつ、落ち着いた表情をしていた。
そして、審判から一通りルールの再確認が行われると、両チームがポジションに着く。
会場の緊張感が、高まっていく。秋は美波のシューズの紐をきつく結びなおした。足の甲が締め付けられる感覚を覚えて、それと同時に心もグッと引き締める。
その時、試合開始のアナウンスが入った。
最初にペースを掴んだのは六組である。勝夜は味方からパスを受けると、コート中央からドリブルを始めた。そして、鮮やかなフェイントと圧倒的なスピードで五組の選手三人を軽々と抜き去ってしまう。
その勢いのまま勝夜はゴール前までボールを運ぶと、右足を豪快に振り抜いた。 ボールは低い弾道でゴールの左下に吸い込まれる。彼はいとも簡単に一点目を奪ったのだった。
直後、地割れのような歓声が六組側の応援から沸き上がる。中立の立場で観戦している生徒たちも、勝夜のスーパープレーに拍手を送っていた。
秋はあっという間のプレーに理解が追いついていなかった。
しかし、圧倒されている場合ではない。まだ一点だ。そうやって自分に言い聞かせると、深呼吸をして気持ちを切り替える。
すぐに五組のボールで試合が再開した。
秋は、赤木にバックパスをしてボールを預けると前線へと上がっていく。すると勝夜が待っていましたと言わんばかりににやりと笑って、美波にピッタリとくっついてきた。
「かかってこいよ」
勝夜が、至近距離で挑発してくる。秋はそれには返さず、冷静にチャンスを伺いつつ、勝夜のマークを振り切ろうとした。
しかし、秋がどれだけ剝がそうとしても勝夜は全く美波から離れない。さっきから色んな方向に走ったり、切り返したりを繰り返しているが、勝夜はそんな美波の動きに完璧に対応していた。
赤木もそのせいでパスを出すところが無く、何度もボールを失っては取り返すということを繰り返している。
しかも、勝夜はずっと口角を上げていて、まだまだ全力を出している訳ではなさそうだった。
「おい、鬼ごっこで試合を終わらせる気か?」
勝夜が面白そうに言った。秋は必死に勝夜から距離を取ろうとしつつ、頭を働かせ続ける。
そして突如、秋は美波の体を止めた。コート上のみんなが一生懸命走る中、秋だけが足を動かすのをやめ突っ立っている。
「おいおい、諦めるには早すぎないか。もうちょっと楽しもうぜ」
勝夜が相変わらず軽口をたたく。だが秋はそんな勝夜に目もくれず、コート上を見回した。今まさに赤木が相手選手に食らいつき、ボールを奪おうとしている所である。
そのとき、一瞬だけだが赤木が顔を上げ、目が合った。
そこで秋は美波の顔に、不敵な笑みを浮かばせる。
次の瞬間、秋は止めていた足をいきなりフル稼働させた。勝夜は完全に油断していたようで、美波についていくのが僅かに遅れる。。
そこで赤木が相手選手の持っていたボールをつつくと、秋の方にボールが転がって来た。
秋は丁寧にボールをトラップし、前を向く。そこに勝夜が追いついてきて、立ちはだかった。
秋は勝夜の動きをよく観察する。彼がいつ足を出してくるのか、一瞬でも判断が遅れればボールを取られてしまうことは容易に想像できた。お互い、息を飲むことさえ憚られるような緊張感を覚える。
そのとき、勝夜の右足がピクっと動き、そのままボールめがけてつま先が飛んで来た。
秋はそれを見切り、ボールを横に運んでかわす。そしてそのまま勝夜が美波の方へと寄って来る勢いを利用して、彼を抜き去ろうと前へ踏み出した。タイミングは完璧である。
しかし、これは一本取ったと思ったそのとき、勝夜の右足が引っ込み、すぐさま勝夜は美波の動きに対応してきた。
秋は驚き、慌ててドリブルを止める。
どうやら勝夜は美波を動かすために、あえて足を出したようだ。彼はフィジカルやテクニックに頼るだけではなく、頭を使った駆け引きも鍛えているらしい。そこから、勝夜が本当にプロを目指しているのだなということが伝わって来る。
だが、それは秋にとって好都合だった。秋は身体的にも技術的にも圧倒的に上であるプロの選手と練習してきたのだ。プロの選手を抜くために、どれだけ頭を使ったか計り知れない。駆け引きなら負けるはずはなかった。
まず秋は、あえてボールを勝夜の足の届く範囲に置く。まるで取ってくださいと言っているようだ。当然、勝夜は足を出してくるけれど、警戒してか無理はしてこない。
だがそれこそが秋の狙いだった。
基本的には、ディフェンスはオフェンスの動きを常に予測しなければならない。そうしなければ、行動の選択権があるオフェンスが簡単にディフェンスを抜き去ってしまう。
したがって、勝夜は余裕そうな表情をしているが、頭の中で美波がどう仕掛けてくるか考えているはずだった。勝夜が駆け引きに自信があるならば、間違いないだろう。
そこで秋が、あえてボールを危険に晒すようなセオリー外の行動を取れば、勝夜は秋の行動を読みにくくなる。
そこに、隙が生まれたのだった。
そうして勝夜が固まった一瞬をついて、秋は一気に加速する。勝夜も常人では考えられないスピードで反応したが、美波と速度はほぼ互角である。
つまり、スタートの一瞬の差で秋が勝夜の前に出たのだった。こうなれば、勝夜はファウルなしでボールを奪うのは難しくなる。
これはもらったと秋は思った。そのまま、コートを駆け上がると、ゴールが見えてくる。キーパーの位置が手前側に寄っていた。そこで秋は、キーパーの反対側を狙って美波の足を素早く振り抜く。
するとボールは、低い弾道をまるで銃弾のように飛んでいきゴールネットを揺らす、はずだった。
しかし気づけば、ボールは何かにはじかれて、コートの外へと転がっていっている。
美波の足元に一人の人間が滑り込んでいるのが見えた。
「あっぶねぇー」
その生徒は、台詞とは裏腹に余裕そうな表情で立ち上がった。そのツンツン頭に、秋は既視感を覚える。
「ナイス、松下。いやーやっぱり俺、守備は性に合わないわ。こういうのは本職が一番だな」
そこに勝夜が追いついてきて、松下と呼ばれたツンツン頭に声をかける。この松下という生徒は、勝夜が五組に乱入してきた際、廊下で勝夜を待っていた人物だった。
「美波、驚いているみたいだな。その表情嫌いじゃないぜ」
そうやって勝夜が、美波を馬鹿にしたように笑う。
「こいつも、俺とは別のクラブだけど、プロを目指している。しかも俺はフォワードだが、こいつはセンターバック、簡単に抜けるとは思わない方が良いぜ。特に一対一は県内でも最強クラスだ」
勝夜がご丁寧に、松下という生徒について解説してくれた。
「よろしくな」
松下はそう言うと、自分のポジションに戻っていく。思わぬ伏兵の存在に、秋は感情の整理が付かなかった。先ほどまで、嫌になるほどグラウンドを照り付けていた太陽が雲に隠れ、あたりが薄暗くなっていく。
その後、美波のプレーは明らかに調子を落としていた。単純なミスが増え、先ほど勝夜を翻弄したような駆け引きは一切仕掛けない。ただパスを受けても、松下に突っ込んでボールを奪われるということを繰り返していた。
秋は美波の目から流れてくる光景が、まるでつまらない映画のように淡々と流れていくのを感じる。視界がぼやけて、自分が今何をしているのか分からなくなった。
美波の代わりに五組の守備陣が奮闘してはいたが、勝夜にさらに二点を追加され、前半は三点差で終わりを迎える。
「おい、どうしたんだよ?」
ベンチに戻ると、浮かない表情の美波に、赤木が声をかけた。
しかし秋は美波の顔を上げることなく、
「ごめん、ちょっと飲み物買って来る」
と言って、その場を離れた。後ろから、
「五分以内には戻れよ」
と赤木の声が追いついてくるけれど、返す言葉が見つからず無視することになってしまった。
秋は購買の横にある自販機へとやって来る。そこは軒下のようになっていて、日陰になっておりベンチも置いてあった。
秋は水を購入すると、ペンキが剥がれかけたベンチに美波の腰を下ろす。
他学年もこの時間は別の種目の決勝戦を行っているようで、あたりに人影はなかった。
秋は美波の体をだらんと、背もたれにもたれかけさせ、足をだらしなく伸ばす。そして一つ、深い溜息をついた。
昨日まではスポーツ大会で優勝すると軽く口にしていたが、今はそれがとても愚かな事のように思えてくる。外の世界に出たからと言って、自分が万能になった訳ではないのだ。むしろ、出来ない事の方が多いのは当たり前である。何を思い上がっていたのか、と自分がひどく嫌になって来た。
そんな間にも雲は流れていき、青空を侵食していく。秋はしばらく、そんな光景をぼーっと眺めていた。
やがて、もうすぐ後半の始まる時間になる。しかし、秋はもう戻るつもりはなかった。このままずっとここで、ただ空を眺めていたい。このままハーフタイムが明け、後半が始まったとしても、美波のポジションを他の生徒が担当するだけ。
それでは、勝夜たちに勝てないのかも知れないけれど、それは美波がやっても同じこと。
それに、クラスメイトから何と言われようと、嫌われようと、どうせその人間関係は期限付きだ。
そう言えば、校長先生からの封筒で上杉が動き出したと書かれていた。となれば、施設に戻る日は近いのかもしれない。
そう思うと、本当に、もう何もかもがどうでも良くなった。
そのとき遠くの方から、美波の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。そして、姿を現したのは赤木だった。
「おい美波、もうすぐ後半はじま………」
赤木が美波の前まで来て言いかけたが、途中で言葉が途切れる。
赤木は力の抜けきった美波の様子を見て、驚いたように声を上げた。
「大丈夫か美波。どこか、体調でも悪いのか?」
秋はなぜか赤木の言葉が遠い国の言語であるかのように聞こえた。
実際に秋は、赤木は自分とは住む世界が違う人間なのだと考え始めている自分に気が付く。
そして秋は力なく、美波の首を横に振った。
「体調は問題ないよ。でも僕は悪いけど、後半の試合には出ない」
「どうして?」
「僕はここ最近ずっと、このスポーツ大会で優勝することを目指してきた。でも、それは無理な事だった。僕はそれを受け入れることにした。だから、もう試合をする意味がなくなったんだ」
そこで今度は赤木が、異国の人を見るような目で美波を見た。
「諦めたってことかよ?」
秋はだらしなく、美波の頭を縦に振る。そこで赤木は溜息をついた。そして、声に怒気を含めて言う。
「どうして、諦めたんだ?」
「どうして?そんなことは考えたことがないよ。強いて言うなら、無理だったから。それだけだ」
「じゃあなんで無理だと思ったんだよ?」
「状況から見て、明らかだっただろ。僕たちは、攻撃の手段が無かった。僕は松下君には勝てない。対して相手には勝夜がいる。炎が頑張って抑えようとはしていたけれど、お世辞にも完封したとは言えない。その結果が〇対三。むしろ、三点差で済んでラッキーなくらいだ。実力差は、それ以上にあった」
秋は話していながら、赤木の顔がだんだんと歪んでいくのに気が付いていた。彼は、感情が表に出やすい。
赤木は怒りに体を震わせながらも、何かを思案するようにコンクリートの一点を睨みつけている。
しかし、秋にとってはそれすらもどうでも良い。
そこで後半の開始を告げるアナウンスがグラウンドの方から聞こえてきた。
「戻ったら。炎はまだ諦めてないんでしょ」
秋はそっけない態度でそう言った。すると、その一言で赤木の震えが止まる。それから彼は、美波の目を正面から睨みつけた。
「おい、立てよ」
未だだらしなくベンチにもたれかかっていた美波に、赤木が言った。その声は、低く鋭く、最大限の侮蔑が込められている。それはあのとき、雫が恭史郎に放った声と全く同じ性質をしていた。
秋は仕方なく、美波の重い体を立ち上がらせる。すると赤木が、文字通り目と鼻の先まで詰め寄って来た。
自動販売機が、ブゥオーンと鈍い音を上げる。
それを合図にしたかのように赤木は、無言で美波の瞳の奥に軽蔑した眼差しを向けた後、美波の手に握られているペットボトルを奪い取った。
そしてそのキャップを物凄い力で引きちぎる。次の瞬間、赤木はその中身の水を、美波目掛けてぶちまけた。
秋は何が起きているのか理解する間もなく、頭から足までびしょ濡れになってしまう。体のあちこちから水滴が垂れ、足元のコンクリートが黒く染まっていった。さっきまで、爽やかだった風が肌を刺すような冷たさを帯び始める。
そして赤木は、最後の一滴まで美波に水をぶっかけると、空になったペットボトルを握りつぶし、コンクリートに全力で叩きつけた。
「何が無理だよ」
赤木が震える声で言う。
「なぁ、何が無理なのか教えてくれよ」
赤木が叫ぶ。彼は、空いた手で美波の胸倉をひねり上げた。そして、唾が美波の顔にふっかかるのも気にせずに、言葉を吐き出し続ける。
「確かに、松下の守備は固いかもしれねぇ。勝夜の方が強いかもしれねぇ。でも、まだ試合は終わってねぇだろ。無理って言うのは簡単だが、諦めるのは出来ることを全部やってからにしろよ。足掻くことも出来ない奴に、諦める資格なんてない」
そう吐き捨てると、赤木は手を放し、コンクリートを踏み鳴らしながらグラウンドへと戻って行った。
そのとき、一際強い風が吹き、秋はその寒さから美波の腕をさする。その風は止むことを知らず、まるで秋を凍らせようとしているかのようだった。
なんとなくグラウンドの方へ視線を向けて見るも、そこには誰もいない。赤木が戻ってくることもなかった。
ぺしゃんこに潰れたペットボトルだけが、その場に残されている。それはまるで、秋の心だった。
秋はおもむろに、そのペットボトルを拾い上げる。
もう中身は何も残っていない。逆さにしても、一滴たりとも水は零れない。それに、赤木の握力に押しつぶされて、もはや原型は見る影もない。醜い形である。
それでも、穴は開いていない。引き延ばせば、不格好ではあるが前と同じように使うことは出来る。水を汲めば、またそれは役割を果たしてくれる。
「足掻くことも出来ない奴に、諦める資格なんてない」
秋はさっき赤木が吐き捨てた台詞を呟いてみた。
太陽を隠していた雲が流れ、再び光が地上へと舞い降りようとしている。わずかに上昇した気温を、肌が敏感に感じ取った。
なぜだろうか。秋はこの潰れたペットボトルにもう一度水を注いてみたくなっていた。
心の奥底の何かに、そっと火が付いたような感覚。武男が命をかけて遺してくれた小さな火。最初は小さく脆く、すぐに消えてしまいそうだった火種が、新しく薪をくべることで一気に大きな炎へと変わっていく。
秋は近くの蛇口から潰れたペットボトルに水を注いだ。そして、それを頭の上から被った。それでもまだ、心の火が消えていない事を確認すると、空になったボトルをゴミ箱へと放り込む。
気づけば秋は、グラウンドへ向かって走っていた。
コートに戻ると、応援しているクラスメイト達から声を掛けられる。
「どこに行っていたの?」
「なんで濡れてるの⁉」
「炎、めっちゃ怒ってたよ」
しかし、秋はそれらの声に、
「ごめん」
とだけ返して、クラスメイトの間を縫いピッチまで足を進めていく。するとそこで、ボールがちょうどコートから出た。
そのとき赤木が、美波の方を振り向く。目が合った。
すると赤木は頷いて、審判に言う。
「選手の交代をお願いします」
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