第13話
優音が帰ってからのことはあまりよく覚えていない。とにかく、すぐに美波の体へと意識を逸らして、何も考えないようにしていたはずだ。しかし一つだけ、秋は雫の朦朧とする意識の中、ダイニングテーブルに置いてあった茶封筒を開いたことを覚えている。
そこには学校に関する様々な書類に紛れて一枚の紙きれが入っていて、
「上杉に動きがあった」
とだけ書かれていた。
ついに迎えた、スポーツ大会当日。クラスメイトが全員体操服を着て着席している教室は、浮足立っていた。いつもと違う空気感に、秋もワクワクせずにはいられない。
中でも赤木はいつも以上に興奮していて、数分に一度謎の雄叫びを上げていた。
やがて試合時間が近づいてきて、サッカーに参加するメンバーは運動場へと出る。外は相変わらず気温が高いけれど、程よい風が吹いていて、サッカーをする環境としては悪くない。
秋は美波の体をコートの中へと進め、ストレッチをしながら開始の合図を待つ。試合が始まる前から、コートの外にはお互いのクラスメイトが駆け付け、声援を飛ばしていた。
特に森先生は、生徒に劣らない声量で、
「がんばれやー」
と叫んでいた。
ちなみに雫の体の方はまだ出番ではなく、教室でこの前トランプをした男子二人と駄弁っている。あれから、優音とは普通に話すようになり、普通に笑顔を向けてくるけれど、どこかで秋は避けられているような気がした。
今朝もホームルームが終わるなり、優音は席を立ち里奈ちゃんの方へと行ってしまったのだった。ヴァイオリンの進捗具合もなんとなく聞き出せないままでいる。
そのとき、赤木がクラスメイトを集める声が聞こえてきた。秋は意識を美波へと移す。今は、スポーツ大会で勝つことが最優先だ。
そこで赤木の主導により、サッカーに出場するクラスメイトで輪を作る。それぞれが肩を組み、円を作ると赤木が叫んだ。
「絶対勝つぞ‼」
それを合図に、チームメイトが声を上げた。秋も美波の腹から声を絞り出す。
秋は、体の中のボルテージが一気に高まっていくのを感じる。そうして、クラスメイトの拍手と声援に包まれながらピッチへと立った。何だろう。今なら、実力以上のことも簡単に出来てしまいそうな感覚がある。そんな全能感を味わいながら、美波の口角が自然と上がった。
初戦の相手は七組。前評判では、美波達五組の方が優勢である。しかし、油断してはいけない。
やがて試合開始を告げる放送が、グラウンドに響き渡った。赤木のキックオフで試合が始まる。
秋は迷わず、美波の体を前線へと進めた。美波に任されたポジションはフォワード、つまり点取り屋である。守備の大部分を赤木や他のクラスメイトに任せる分、攻撃では中心となって活躍しなければならない。
秋は常にゴールと相手ディフェンスの位置を確認しながら、パスを受けるタイミングを伺っていた。するとチャンスはすぐにやって来る。赤木が相手選手を一人かわし、さらに二人のディフェンスを引き付けていた。そのおかげで、美波の方が手薄になっている。
美波は迷わず声を出した。
「炎っ‼」
すると、その声で顔を上げた赤木から、足元に正確なパスが送られてくる。
美波は落ち着いてそのボールをトラップした。ディフェンスは赤木に意識が向いていたのか、美波に寄せるのが遅れている。
そこで、美波はゴールを見た。キーパーの位置を確認すると、直感的にシュートコースが浮かび上がってくる。
後ろから、赤木の声が聞こえてきた。秋は美波の右足に、神経を集中させ、施設で覚えたように足の甲でボールの中心を叩く。
するとボールは一直線にゴール左隅へと吸い込まれていく。キーパーが動く間もないほどの豪速球だった。
直後、大きな歓声が美波のクラスメイト達から沸き上がる。いつものように赤木が寄ってきてハイタッチをすると、秋は赤木に笑いかけた。
その後も、試合は順調に進んだ。クラスメイトがボールを奪い、赤木に預けて、赤木から美波へとボールを供給。そして、それを美波が決めるというパターンで得点を重ねていた。残り時間が数分の時点で点差は四点にまで広がっている。
そこで相手のシュートを、味方のゴールキーパーがキャッチした。
そして、キーパーが投げたボールを赤木が鮮やかに足元へと収める。
赤木は顔を上げるも、得点を量産した美波は警戒されており、相手のディフェンスがぴったりとくっついていた。秋はなんとかフリーになろうと、相手ディフェンスに駆け引きを持ちかける。秋は美波の体を、相手ディフェンスの背後に走らせたのだ。
相手ディフェンスは、突如視界から美波が消え、慌てて後ろに走る。その瞬間、秋は美波の体を反転させ、ディフェンスとは逆方向にステップを踏んだ。それにより、美波とディフェンスの距離が大きく開く。
秋は今だと思って、顔を上げ赤木にパスを要求しようとした。しかし、秋はすぐに異変に気が付く。そのときすでに、赤木の足元にボールはなかったのだ。
そして、彼の視線の先を追うと、ボールは美波ではなく先ほど引き剝がしたディフェンスの足元へと転がっていた。
秋は一瞬、何が起きたのか分からず立ち止まってしまう。
その間にボールを持った相手ディフェンスが相手のフォワードへとパス。そしてそのフォワードは反転して、シュートを放つと、そのボールは五組のディフェンスに当たり、そのままゴールへと流れ込んでいった。
そこで試合終了のアナウンスが、グラウンドに響き渡る。応援していたクラスメイトから、歓声が上がった。チームメイトたちも、みんな喜びを表情にしている。
しかし、秋はまだグラウンドに突っ立ったまま、動けずにいた。最後のプレーがずっと腑に落ちないのである。
あれはどういうことだろうか。赤木に限ってパスミスをしたとは考えにくい。ならば、意図して美波の足元にボールを送らなかったことになるが………。
「ナイスプレー、美波」
試合が終わり、教室へと向かう途中で赤木が近づいてきた。赤木は美波の肩に腕を回し、一回戦を突破した嬉しさを爆発させている。しかし、秋はどうしても気になって、喜ぶ赤木を遮り質問をした。
「最後のパス、あれはどういうこと?」
赤木は一瞬何を言われたのか分からなかったようだが、すぐに思い当たると、明るい調子のまま答えた。
「あぁ、あれは美波が裏走るかなーと思って、スルーパス出したんだけど、嚙み合わなかったな。悪い、悪い」
そこで秋の知らない単語が出てきて、秋は思わず問いただした。
「スルーパスって何?」
するとそこで赤木は驚いたように、美波のことを覗き込んだ。
「美波、スルーパス知らないのか?」
秋は美波の首を縦に振る。その表情が真剣だったからか、赤木はしばらく下を向いて考え込むと、やがて合点がいったのか顔を上げた。
「そうか。そういえば美波、チームでサッカーしたことないんだよな?」
秋が頷くと、赤木は納得したようで続けた。
「なら知らなくても仕方ないか。スルーパスって言うのは、説明が難しいんだけどよ………」
そう言って赤木は、数学の授業中によく見せている難問を解く時の表情で、解説し始める。
「簡単に言うとスルーパスは、味方の足元にボールを蹴る訳じゃなくて、味方が走っていく先にあるスペースに、ディフェンスの間を縫って出すパスのことだ。足元でボールを受けると、それからドリブルを始めないといけない。でもスルーパスだと走っている勢いを活かして一気に相手の裏をつける」
赤木が身振り手振りを使って、教えてくれる。
「重要なのは、受け手が走り出すタイミングと出し手がパスを出すタイミング。これがぴったりと合わないと、ボールが繋がらない。要は、周囲の状況判断と二人の意思疎通が求められるってことだ」
秋はスルーパスについて、なんとなくの概要を理解する。しかし、不安に思った点を素直に口にした。
「これ、理屈は分かったけど、実際にやろうと思うと難しそう」
それには赤木も、大きく頷いた。
「これは確かに、聞いてすぐに習得できることじゃないかもしれない。でも、勝夜たちは絶対美波をぴったりマークしてくる。そうなれば、スルーパスを使わないと、点をとるのは難しいかもな」
赤木も話しているうちに、声のトーンが下がって来る。今朝まで秋は、五組の勝利を信じて疑わなかったけれど、ここにきて不安要素が見つかってしまった。やっぱり、短い期間でチームサッカーに慣れるのは無茶だったのか。
そうやって思考が下向きに流れ始めた時に、赤木がまた明るい声に戻って言った。
「とりあえず、次の準決勝じゃ勝夜たちとは当たらない、出来る範囲で試してみようぜ。最悪駄目でも、他に方法が見つかるかもしれない。やってみたら、意外と何とかなる」
赤木はそう断言した。秋はその一言で顔を上げる。沈みかけた心が再び上を向き始めるのを感じた。
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