第12話
家に帰り、夕食を終えて雫と美波のそれぞれの部屋でダラダラしている時のことだった。
雫の携帯に、通知が入る。それをタップしてメッセージアプリを開くと、優音から連絡が届いていた。
「昼間は迷惑かけちゃってごめんね。雫君があそこで切り上げてくれたおかげで、もう今は大分落ち着いた。ありがとう‼」
その言葉の後に、ウサギのキャラクターがぺこりと頭を下げているスタンプが送られてきた。
秋はそれに返信しつつ、心の中が花を咲かせたかのように明るくなっていくのを感じる。今なら何でもできるような気がしていた。返信を打ち終えると、携帯をベッドの上に放り投げ天井を見上げる。今はダラダラとさえしたくなかった。ただただ、この言い表せないような多幸感に浸っていたい。何も意識せずとも、脳裏に優音の笑顔が咲き乱れていく。そして、学校生活初日に秋の緊張をほぐしてくれたこと、数学の早解き対決、今日のトランプとまだ短いながらも楽しかった思い出がこみ上げてきた。
しかし、好きな人はいないと告げた時の優音の声が、突然呼び起こされて、次の瞬間には胸が締め付けられるかのような痛みを感じる。そしてその痛みは、晴れ上がった心を曇らせる靄へと変わった。どうしたら自分のことを好きになってくれるだろうか。気が付いたら、そんなことを考え始めている自分がいる。やけに天井の電球が眩しく感じた。
秋は傍にあった掛け布団を、強く抱きしめる。そうしていないと、心臓が暴れ出して体から飛び出して来そうだった。初めて感じる胸の高鳴り。自然と、優音の笑い声が聞こえてくる。
これがきっと恋をするということなのだろう。
翌朝、秋は美波の体で赤木からパスをもらい、たった今シュートを決めたところだった。吹き付けた風が涼しくて、とても心地が良い。
そこに赤木が寄ってきて、ハイタッチをする。
「やっぱり上手いなー、美波は」
「いやいや、今のは炎のおかげだよ。僕はシュートを打っただけ」
「またまたー、謙遜するなよ」
そう言って赤木は笑顔を向けてくるが、これは本当に謙遜ではない。
美波と赤木、それからサッカーに出場するクラスメイトは、土曜日の午前にも関わらずグラウンドで練習に励んでいた。午後からは赤木達サッカー部がグラウンドを使うため、空いている時間がここしかなかったのだ。
そうして始まった早朝からの練習は、すでに一時間を超えようとしている。秋は、しばらく赤木とプレーして気が付いたことがあった。
赤木はパスの精度が異常に高いのである。彼は、そのお調子者の性格のせいか泥臭く走り回るようなプレーに注目が集まりがちだが、実はボールの扱いが非常に繊細なのだ。
実際に今秋が決めたシュートも、赤木がディフェンスの間を縫ってピンポイントで美波の足元にボールを送ってくれたおかげで決められた。おそらく、赤木以外にそんなパスを出せる人はそういない。秋は、今から勝夜の悔しそうな顔を見るのが楽しみになった。
そこで、インターフォンが鳴る音が聞こえてくる。秋は慌てて、意識を雫へと移した。そして雫の体で見ていた映画を止める。
秋は、どちらかの体が目を覚ますと、もう一方の体も起きてしまう。そのため、美波の体でサッカーの練習に出かける時間に合わせて、雫の体の方も早起きをしていた。
しかし秋は今朝から出来るだけ、雫の体を使わないようにしている。雫の体を使っていると無意識のうちに優音のことを考えてしまうのだ。
しかし、学校のシステム上、土曜日と日曜日の二日間は優音に会うことはできない。そうなると、虚しさばかりが心に積もっていき、何もやる気が出なくなってしまうのである。
だから、秋は美波の体を積極的に使ってサッカーに意識を集中させることで、気を紛らわせようとしていたのだ。
しかしインターフォンが鳴ったので、秋は雫の重い腰を上げ、玄関へと向かう。
そして、外に誰がいるかなんて全く考えないまま、玄関の扉を開けてしまった。
その瞬間、外の熱気とともに爽やかな空気が室内へと流れ込んで来る。
秋は玄関の扉を支える体制で硬直した。目の前の光景を理解するのに、学校の授業で習うどの問題よりも時間を要する。
目の前の人物は、そうやって驚いている雫を見て、面白そうに、にっこりと笑った。
「びっくりした?」
玄関先にいたのは優音である。ついさっき、次の月曜日まで会えないと諦めていた人物が、目の前にいた。
その瞬間、心臓が遅刻ギリギリで目を覚ました子供のようにあわただしく拍動し始める。
「どうしてここに?」
そう言いつつ、秋の頭は高速で回転していた。優音は制服姿で、額にはうっすらと汗をかいている。このまま玄関先で話すのは、可哀そうだと思うけれど、いきなり家に上げて変に思われないだろうかと、様々な思いが逡巡する。
だが結局、秋は優音を家の中へと促し玄関の扉を閉めた。
「とりあえず、上がって。ちょっと散らかっているけど」
「お邪魔します」
そう言うと優音は脱いだローファーを丁寧に揃え、恐る恐ると言った感じでリビングへと繋がる扉を潜った。
秋も雫の体でそれに続く。
「とりあえず、適当に座って」
そう言って、秋は優音をダイニングテーブルへと促すと雫の体をキッチンまで進め、冷蔵庫から麦茶を取り出す。そして食器棚からコップを取り出し、中に注いでいくけれど、手が震えてコップの淵ぎりぎりまで麦茶が入ってしまった。
「ごめん、ちょっと入れすぎちゃった」
秋はお茶をこぼさないように忍び足になって、コップをダイニングテーブルまで運ぶ。
「わっ、本当になみなみだね。でも、喉乾いたから丁度よかったかも」
そう言って、優音はコップを丁寧に口元まで持っていくと、麦茶を一気に流し込んだ。
秋は初対面の時とは違った緊張感を覚えつつ、優音の前の席へと腰を下ろす。
「お茶くらいしか出す物が無くて、申し訳ない」
「いいよいいよ。私も手ぶらで来ちゃったし」
お茶を半分以上飲み干した優音は、コップを置いた。コップの底とテーブルが当たって、コンッと子気味良い音を立てる。それを合図に、優音は続けた。
「どうせなら、次来る時のために、好きなもの聞いておいて良い?」
「好きなもの?」
「そう。例えばお菓子とか、スイーツとか」
そう言われて、秋は頭を悩ませる。一瞬脳裏には、あの宇宙船の名前のお菓子が浮かんだけれど、子供っぽい感じがして言葉にはしなかった。だが、他に良いものが思いつかない。また沈黙が積み重なっていきそうな予感がして、秋は焦りを覚える。
そして、咄嗟に口を開いてしまった。
「ケーキかな」
そう言った瞬間、時間が凍ってしまったかのような空気が訪れた。秋はすぐに、今の返答が不正解だったことを知り、視線を下に向ける。
しかし、次の瞬間優音は声を出して笑いだした。
「ケーキか~。ちょっと意外だったから、ごめんね。雫君は、甘いものが好きなの?」
「うーん。甘いものは確かに好きだけど、ケーキって言ったのは食べたことがなかったから」
「えっ?ケーキ食べたことないの?誕生日とかに食べなかった?」
「うん」
と言いつつ、秋はしまったと思った。きっと、普通の人は誕生日やクリスマスのお祝いでケーキを食べる。だからこそ秋はケーキに憧れていて、思わず自分がケーキを食べたことが無いことを打ち明けてしまった。
追及されたらどうしようと考えたが、優音は気を使ってくれたのか、それ以上質問をしてこない。
代わりに優音は、そういえばと言って通学用の鞄を開けた。
「はい、これ」
そう言って渡されたのは、茶色い封筒である。
「私、昨日早退しちゃったから、さっきまで教科書を取りに学校へ行っていたの。そしたら、教室で校長先生に会ってこれを雫君に渡してくれって。この家も、校長先生に教えてもらったの」
秋は封筒を受け取るが、この場では開封しなかった。校長先生からの封筒ということは、施設関係の話であることは間違いない。それを優音の前で開くには、いろいろと問題が生じてくる。
「それにしても、良い家だね~」
優音が、室内を見渡しなら言った。
「この家、校長先生から借りているんでしょ?さっき本人から聞いちゃった。校長先生から気にかけてもらえるなんて、雫君ちょっと羨ましいな」
「羨ましいってなんで?」
「えっ、だって斎恩先生って言ったら、超有名人じゃん。平安時代から残る名家の出身で、研究者としても超一流。地震がいつ来るかを正確に予測するシステムを開発したってすごくない?」
優音は目を輝かせながら言った。
「それのおかげで、東北では津波も来たのに、被害が最小限で済んだらしいよ。その他にも、芸術家としても世界的で、先生が描いた油絵は億単位の値段で取引されているものもあるみたい。正直うちの学校に入学してくる生徒の半分くらいは斎恩先生が目的な気がする」
あのお茶目な老人はそんなにすごい人だったのか。と秋は心の中で驚きの声を上げる。しかし、よく考えれば上杉をやり込めるほどの人物だ。それくらいの功績があっても不思議ではない。
優音はなおも室内を見渡していた。そしてリビングの窓際にポツンと置かれたヴァイオリンを見つける。彼女はそれを指さして、雫に言った。
「雫君、ヴァイオリン弾けるの?」
秋は雫の首を縦に振る。すると、優音はさらに目を輝かせて言った。
「私ヴァイオリンの音大好きなの。何か弾いてくれない?」
秋は頷いて、ヴァイオリンを手にすると、ダイニングテーブルの傍まで戻って、構えた。
優音は静かに、雫を見守っている。秋は何を弾こうかと考える。優音の心をつかむにはポップスでも弾けたら良いのだが、あいにく秋はポップスをほとんど知らない。仕方なく、ヴァイオリンを弾いている感が強い、二四のカプリスより第二十四番を弾き始める。
いきなり妖艶な音色で始まるこの曲は、一気に聞いているものをその独特な世界に引きずり込む。ところどころで超絶技巧が要求されるけれど、秋は世界的ヴァイオリニスト直々に教えてもらったのだ。秋はもう技術的な心配をする段階にはいない。それどころか、いかにして聞いている人の心に触れるか、どうすればより表現力を豊かにできるかという点に注意を払う。そして妖艶な世界観を思わせる主題の後、その世界を破壊し尽すようなフィナーレがやって来る。次第に激しさを増していく音が、混沌とした世界の終わりを思わせた。さんざん不思議ながらも魅力的な世界観楽しませた後、すべてを破壊して聴いている人をおぞましさの底へと連れていく。そして、最後に圧巻のアルペジオを持って曲は終了する。
曲を弾き終えると、その余韻から沈黙が浮き彫りにされた。しかし、それは今までの沈黙とは違って嫌な感じはしない。むしろ、達成感を感じられた。優音は一瞬、ポカンと口を開けて雫を見つめている。どうやら、曲の世界から戻って来るのに時間がかかっているらしい。だが、やがて意識を取り戻すと、持てる力のすべてを尽くして雫に拍手を送る。
「すごい、すごいよ雫君。音を聞いていただけなのに、目の前に見たことのない光景が広がっていた」
優音は、目の端に浮かべた涙を指で拭った。秋も、優音を喜ばせることができて、胸の中がジーンと温まってくるのを感じる。
「実は私、母が音楽家なの。それで、昔から色んな楽器やっていて………。でもヴァイオリンだけはなかなか上達しなくて、辞めちゃったの。でも、今の演奏聞いて思い出した。私本当はヴァイオリンの音色が一番好きだったんだって」
優音はテンションを高くして、雫に捲し立てる。秋はそんな優音を受け止める権利を自分が持っていることが誇らしかった。
「それで、またヴァイオリン始めたいなって思った。だから、教えてくれない?」
秋は考えるまでもなく頷いた。優音の本気度は、その喋り方や仕草から十分に伝わってくる。
そこで秋と優音はソファに移動し、秋は優音に初心者向けの曲を一つ弾いてもらった。優音のヴァイオリンは、音は取れているけれどまだ基礎が固まっていない部分が多々見られる。そこで秋は、施設にいた時に教えてもらったことを頭に思い浮かべつつ、優音にアドバイスを送っていく。
優音は弓を持つ右手の肘が強張りすぎていて、変な角度で固定されてしまっている。これは、ヴァイオリンを始めた頃の秋もよく先生に怒られていたことだった。
そのためどのように教えれば良いのか、すぐに思い描くことが出来る。秋は雫の手を優音の背中から回して、彼女の右手の肘にそっと添えた。そして、肘の角度を調整しつつゆっくりと音を出してもらう。雫の視線は常にヴァイオリン本体を捉えて、弓と弦が垂直になっているかを監視する。
そのせいで、秋は優音が頬を赤らめていることに気が付くのが遅れてしまった。秋はそんな優音の表情に気づくと、ふと冷静になり、自分がやっていることが客観的に見えてしまう。そして、慌てて右手を優音から離して引っ込めた。完全に無意識だったとはいえ、よくそんなことが出来たなと自分でもびっくりする。秋はまるで、優音を抱きしめるかのような体制になっていたのだ。
「ご、ごめん」
秋は慌てて、謝罪した。優音は、
「いいよ」
と体の前で手を大きく振ったけれど、その直後俯いたまま固まってしまう。その目は、どこか遠くを見ているようだった。優音は心ここにあらずといった状態で、秋もかける言葉が見つからない。
そのまま、どれほどの時間が経過しただろうか。おそらくは五分にも満たない時間だっただろうけれど、秋にはその時間が永遠に続くのかと思われた頃、優音は突然立ち上がった。
「ごめん。私、帰るね」
優音が声を震わせながら言った。優音は笑顔を作っているけれど、それが心からの笑みでないことは明らかである。優音は何かに怯えていた。
帰るという言葉が頭の中を反芻して、寂しさが秋の胸にこみ上げてくる。しかし秋には優音を引き留めることなどできなかった。優音が去っていくのは自分のせいであり、悪いのは全て自分なのだと理解する。これほど自分のことを嫌に思った日はないかもしれない。
だが、帰り支度をしようとした瞬間、優音は自分の手にヴァイオリンがあることを思い出したようだった。そして、名残惜しそうにヴァイオリンを眺めると、それを丁寧にリビングの机に置く。
それを見て、秋は気づけば口を開いていた。
「それ、持ち帰っていいよ」
「えっ?」
「練習したいんでしょ、ヴァイオリン」
秋が雫の口でそう告げると、優音は雫の顔とヴァイオリンを交互に眺めた。そして最終的には雫から目を逸らし、ヴァイオリンを手に取って、
「ありがとう」
と言う。そして優音は通学鞄を肩にかけ、ヴァイオリンと弓を大切そうに抱えて、帰っていった。
最近、自分でも理由の分からない行動が増えた気がする。ヴァイオリンを優音にあげたのもそうだ。頭で考えても、説明することが出来ない。ただ漠然と秋は、自分が嫌われたとしても優音にはヴァイオリンをやって欲しいと思った。優音はきっと、ヴァイオリンとともに輝ける。秋は直感的にそう感じていた。そして、優音には輝いていて欲しいとも強く思った。
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