第8話
チャイムが鳴った。秋はこれが本物のチャイムかと、胸の中で感激する。
先ほどの始業式で担任の先生だと紹介された上品そうな女性が教室に入って来た。名前は確か市川先生だ。
まだ慣れない制服に身を包んだ雫の体で、秋は緊張しながら窓側の席に座っている。
先生は教室を見渡して、雫のことを見つけると目でこちらへ来てくださいと伝えてきた。
秋は呼吸が浅くなっていることを感じながらも、雫の体で教壇に上る。
すると先生が話し始めた。
「はい、今日から皆さんは二年生となりましたが、その前に転校生を紹介します」
秋はクラス中の視線が自分のところに集まっているのを感じた。雫の足が勝手にぶるぶると震え始める。先ほどの始業式でも、周囲が自分のことを小声で話しているのは耳に入っていたが聞こえないふりをした。それにより、まだ誰とも会話を交わしていない。
そのせいもあってか、クラスメイト達はより必死に雫がどういう人なのかを見極めようとしているように感じる。
秋は言葉が出なかった。何を言ったら良いのか分からない。あのショートカットの駅員さんに会った時と同じだった。嫌われないようにするためには何を言うべきなのだろうか。何を言ってはいけないのか。考えるほど、言葉は遠ざかる。
不穏な沈黙が、一秒、二秒と積み重なっていく。ただ動悸だけが早くなった。
そこで異常を汲み取ってくれたのか、先生が声を上げる。
「こちらは、北川雫君です。双子の弟が五組にいるそうです。みなさん、何かあったら北川君に色々と教えてあげるように」
先生がそう言うと、教室からパラパラと拍手が起こった。秋は、申し訳なさと失敗してしまった事に落胆しつつ、雫の体で一礼して席へと戻る。まだ心臓の拍動は収まらない。友達を作るのは思ったよりも難しそうだった。
そうして秋が雫の体で席に着いたとき、突如声を掛けられる。横を振り向くと、隣の席の女子が身を雫の方に乗り出して小声で話し始めた。
「私は優音。よろしくね」
「あっ、あぁよろしく」
秋も小声で返す。とりあえず、話しかけてもらえたことにほっとした。
「分かる」
優音と名乗った女子は、それだけ言った。思わず秋は雫の視線を優音の方に向けてしまう。すると、まん丸の綺麗な瞳と目があってしまった。
秋は何もなかったかのように、すぐ視線を逸らす。代わりに秋はごまかすように言った。
「何が分かるの?」
「雫君の気持ち。私も、田舎から引っ越してきて去年の今頃は一人も友達がいなかったから、緊張して自己紹介で何も話せなかった。でも大丈夫。ここにいるみんなは思っている以上に優しいから。正直に思ったことを話していれば、すぐに友達出来るよ」
秋は視線を逸らしたはずなのに、気づけば優音と目が合っていた。なぜだろうか。彼女の話し方は、どこか引き込まれるところがあった。
優音は屈託のない笑顔を向けてくる。そこには武男とはまた違ったそっと寄り添うような優しさが溢れているような気がした。
「ありがとう」
秋はそう言うと、優音は嬉しそうに頷いて席に体を戻す。そのとき、巻き髪のポニーテールが揺れた。そこから、なんとなく育ちの良さを感じられる。
そこで美波の耳から、名前を呼ばれたのが聞こえてきた。秋は美波に意識を移す。
すると、こちらはジャージ姿でいかにも体育会系の担任教師が、美波を手招きしていた。
秋は美波の体で、教壇に上る。また、胸の動悸が早まった。しかし、今度はさっきとは明らかに何かが違った。自分を見上げる顔が、雫の時よりもクリアに見える。そして誰も、自分を責めている訳じゃないと当たり前のことに気が付いた。
「じゃあ、自己紹介してや」
担任の先生が独特のイントネーションで言った。秋は頷くと、小さく息を吐き気持ちを整える。そして、今しがた優音に教えてもらった、正直に思ったことを話せば良い、というアドバイスを胸に刻む。
「えー、北川美波と言います」
秋は美波の体で話し始めた。とりあえず、名前を言うことに成功する。まず一歩の進歩だ。しかし、その先の言葉が見当たらない。
自分が今思っていること、自分が今思っていること、と胸の中を必死に探し回った。でも、何も言葉は浮かんでこない。だったら………。
「すいません。これ以上何も出てこないです」
秋は思い切ってそう言った。すると、クラスから笑い声が上がる。みんなが面白そうに口角を上げて美波のことを見上げていた。そこには馬鹿にしている感じはなく、むしろ積極的に美波を受け入れようとしてくれているのだと分かる。
「何か、聞きたいことがあったら気軽に質問してください」
秋は考えるのを止めて、自然と沸き上がってくる言葉をそのまま口にする。
すると早速、一人の生徒が勢いよく手を挙げた。
「おぉ、じゃあ赤木」
先生がその生徒を当てる。赤木と呼ばれた坊主頭の生徒は椅子を倒しそうな勢いで立ち上がると、大きな声で言った。
「サッカーは好きか?」
その瞬間、クラスからさらなる笑い声が上がる。しかし当の本人はいたって真面目で、本気でその質問をぶつけてきたことが表情から分かった。そこがさらに、クラスメイト達の笑いを増長している。
担任の先生も、呆れたように、
「お前はどれだけサッカー馬鹿なんや」
と言いながら、笑っていた。教室がどんどん明るい空気で満たされていくのを感じる。そして秋は、それにつられるように楽しい気分になっていた。そして美波の口角も自然と上がる。さっきまでの緊張が嘘みたいだった。
そして教室内がひとしきり笑いに包まれた後、再び視線が美波に集まり始める。秋は、質問の回答を求められているのが分かった。
秋は少し考える。施設にいるときに、サッカーをしたことはあった。しかしあのとき、そこに感情は一切なかった。ただ言われたことをこなすだけ。そのことに楽しさを求めたことなど一度もない。
でも、赤木から送られてくる熱い視線を見て気づいたことがあった。
今まで自分がやっていたのは、きっとサッカーではなかったのだ。自分がボールを蹴っていた時のことを考えても、赤木という一人の人間をこれほど熱中させるような要素は見当たらない。つまり自分はまだ、本当のサッカーを知らないだけ。そしてそれに気づいた途端に、本当のサッカーとは一体どんなものなのかを知ってみたくなった。だから秋は、美波の口を開く。
「サッカーは好きです」
それを聞いたクラスメイトから、オーと謎の掛け声が上がる。そして、赤木は美波の目を真っすぐに見て頷くと、満足げに笑い席に着いた。その仕草はまるで、「お前とは良い友達になれそうだ」と言っているようである。
それからもいくつか質問をもらい、それに答え終えるころには美波は学校に来てよかったなと思い始めていたのだった。
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