第7話

 電車が出発してしばらく経った。車内は空いていて、奥に新聞を読んでいるおじいちゃんが一人見える以外座席は空いている。秋は雫と美波の体を並んで腰かけさせ、車窓に映る風景を眺めていた。学校、公園、住宅街、八百屋、銭湯、美容院、病院。今まで小説の中にしか存在しなかった非日常的な景色にただただ心を奪われていた。

 しかし、それも長くは続かない。気づけば、先ほどの施設の光景が脳裏に浮かんできた。武男はあれからどうなってしまっただろうか。そんなことを考え始めると、秋はいつのまにか、武男との過去を思い出していた。

 武男は秋にとって研究者と実験対象という関係を超えて、父親のような存在だったのである。小さい頃は二つの体に絵本を読んでくれたり、武男と二つの体で三角形を作ってキャッチボールをしたりした。いわゆる反抗期の時期には、感情をぶつけてしまったこともある。また時に、武男は厳しく秋のことを叱った。彼は、普通の子供が日常の中で学ぶはずの常識や倫理観を秋に教えようとしたのである。武男は秋に、一つ一つ何が正しくて何が間違っているかを考えさせた。そのおかげで、秋は礼儀や人を思いやる心を育むことが出来たと思っている。

 彼にはいくら感謝しても足りないのだ。

 武男はどうなったのだろうか。今日は朝から色んな事がありすぎて、脳が情報を処理し切れていない気がする。

 そこで秋は雫の口で声を上げた。

「これから、どうするべきだと思う?」

 雫で美波の方を見る。美波の体も、雫の方を向けた。

「分からない。そもそもこの紙に書かれた場所には何があるのだろう?」

 今度は美波の体で問いかける。それに、雫の首を傾げて応じた。はたから見たら、二人が会話しているように見えるだろう。しかし、実際は秋の一人二役である。でも、何かを考えるときにこうやって二つの体を話し合わせることで、問題を客観的に捉えられるような気がしていた。

「何があるかは分からないけれど、行くべきではないんじゃないかな。なんとなくそんな気がしてきた」

「それはなぜ?」

「だって、僕はいつまでも上杉から逃げられるわけじゃない。近いうちに必ず、施設に戻ることになる。だったら、外の世界を知って変な情が湧く前に戻ってしまった方が楽だと思う。今までだってずっとそうしてきただろう?何も望まないことが、傷つかないためには一番大事なんだよ。それに今戻ったら、上杉も許してくれる気がする」

「でも、そうしたら北さんの想いはどうなる?彼が命を懸けてまで僕を連れ出してくれた意味がなくなるじゃないか」

「それはそうだけど………」

 秋はそんなことを一時間近く、延々と考えていた。気づけば、車内は人が増えてきて、つり革を掴む人も出始めている。

 そしてそれからすぐ、電車が終点に着いた。秋は雫の持つあの駅員さんからもらった紙と、さっき流れた車内アナウンスを照らし合わせる。どうやらこの駅で新幹線に乗り換えるらしい。

 しかし、ほかの乗客が一通り下車した後も、秋は座席に座り続けた。まだ行くべきか、それとも戻るべきか結論は出ていない。いっそ上杉の部下がやって来て為すすべもなく、二つの体を連れ帰ってくれたら楽なのにと考えてしまう。

 すると、そこに車掌さんが小走りで近づいてきた。

「お客様、大変申し訳ございませんが、この車両は車庫まで回送電車となりますので………」

 と言われ、秋は車掌さんに謝ると、仕方なくホームに降りた。立ち止まっていては不審がられるかもしれないと思って、秋はとりあえず改札に向かって二つの体を進める。

 そして、ホーム内にあるコンビニの横を通りがかったそのときである。

 コンビニの中から唐突に声をかけられた。

 秋は二つの体をコンビニの方に向ける。そこには高級そうなスーツに身を包んでいる老人がいた。老人は手にコンビニのビニール袋を提げているが、それが紳士的な彼の服装と見事にミスマッチしていた。そこがどこかお茶目な印象を秋に与えてくる。

 秋はその老人に見覚えがあった。

「秋君だね」

 老人はいきなり名前を呼んで来た。この名を知っているのは施設関係者だけである。

 そう、老人はこの間施設にやってきては上杉をやり込めて帰っていった謎の人物だった。確か斎恩と呼ばれていたはずである。秋は警戒した。この人物が敵か味方か分からないからだ。彼が上杉と繋がっていてもなにも不思議なことはない。

 秋はつい先ほど上杉の部下が自分を連れ去ってくれないかと妄想したばかりだった。それなのに、いざその可能性のある人物が現れると身構えてしまう自分に驚く。

 しかしそんな秋の警戒心に構わず、斎恩は笑顔を向けてくる。

「これ、良かったらどうぞ」

 そう言って斎恩は、ビニール袋の中から一箱のチョコレートを取り出した。パッケージには宇宙船かローマ神話で聞いたことがあるような名前が書かれている。

「若いころから、この味が大好きでね」

 そう言って斎恩はそのチョコレートの箱を雫に差し出した。秋は雫の体でそれを受け取る。箱を振ってみるとシャカシャカと中身がぶつかり合う音がした。

 秋は箱を開け、中身を取り出す。それはピンクと茶色の二色で作られた、山のような形のチョコレートだった。それを雫の鼻に近づけると、仄かに甘い香りがする。

 そして秋は、それを雫の口へと放り込んだ。次の瞬間、まろやかな甘みが舌の上に広がっていくのを感じる。秋は思わず、声を出した。

「おいしい!」

 それを見て、斎恩がにこやかに頷いた。

「お菓子を食べるのは初めてかな?」

 秋は頷きつつも、我慢できずさらにもう一つ、もう一つとそのチョコレートを口に運んで行く。

 秋はあっという間に一箱分のチョコレートを食べてしまった。そして名残惜しそうに、空の箱を覗き込む。

 それを見て、斎恩が言った。

「まだ何箱かあるから、新幹線に乗ってから食べるといい」

 そう言うと斎恩は歩き出し、切符を買ってホームに向かった。秋は何も言わず斎恩に付いていく。秋はいつの間にか、斎恩に対する警戒心を失っていた。

 新幹線を待つ間に、斎恩が口を開く。

「北君のことは、非常に残念だった。私は君の悲しみが分かるなんて軽い慰めの言葉を言う事はできない」

 斎恩は、当然のように言った。しかし秋は、雫の体で声を上げる。

「待ってください」

「どうしたかね?」

「北さんのことが残念だってどういうことですか?何か知っているのですか」

「あぁそうか、君はまだ知らなかったのか」

 斎恩はそこで咳ばらいをし、ためを作った。

「北君は死んだ。君を逃がすために彼は体を張って二人の男を抑えた。しかし、その二人から至近距離で撃たれてしまったのだ」

 秋は何が何だか分からなかった。ただ目の前を黒い霧のようなものが覆っていくような感じがする。

「どうしてあなたは、そんなことを知っているのですか?」

「私は、色んな所に目と耳を持っていてね。もちろん施設の中にも」

 彼は真剣な表情で言った。そして秋から視線を外し、遠くを見る。その横顔は、荘厳さと哀愁を漂わせていて、斎恩という人物の貫録を遺憾なく周囲に示していた。

「彼に、地震に合わせて火事と停電を起こし、混乱に乗じて君を連れ出すように指示したのは私だった。だからこそ、彼を死なせてしまったことの責任は全て私にある。許してくれとは言わない。むしろ君はそのことを忘れてはならない。いいね?」

 秋は頷いた。しかしまだ頭がこんがらがっている。武男が死んだと言うことに対しても、実感が湧いてこなかった。心の中がぐちゃぐちゃになっていて、何を感じているのかもわからない。

 斎恩はまた柔和な表情に戻ったけれど、何も言葉を発さず、秋が感情を整理できるのを待ってくれているようだ。

 そこで新幹線がやって来た。少しするとドアが開き、斎恩と秋は車内に乗り込むと、窓側から美波、雫、斎恩の順で並んで座る。

 新幹線にしばらく揺られていると、少しずつではあるが気持ちが落ち着いてきた。ちょっとずつ、武男の死という現実を受け入れられるようになりつつある。きっと秋は心の奥底では、武男が死んでしまった事を理解していた。斎恩にその事実を告げられる前から、直感的に分かっていたのだ。だから必要なのは、目を逸らさず現実を直視することだけである。

 そう思うと、気分が少し軽くなった。雫と美波、それぞれの瞳には涙が控えているけれど、秋はそれを流さない。

 そこで秋は、これ以上黙って考え込んでいても悲しくなるだけだと思い、気になったことを斎恩に尋ねた。

「あの後施設はどうなったのですか?」

「火事でいくつかの部屋が丸焦げになったが、大きな損傷はないらしい」

 なるほど。スプリンクラーはその役割を果たしたようである。

「ではもう一ついいですか」

 斎恩が柔らかく頷いた。

「あなたは、何者ですか?」

 少し質問が直球すぎたのか、斎恩はクスっと笑った。

「私はただの、教師だよ。今は私が創設した私立高校で校長をしている」

 そして斎恩はパチンと手を叩いた。

「そうだ。ちょうど君にはその話をしようと思っていたのだ。君には、我々の学校に通ってもらおう」

「えっ?」

 思いもよらぬ話に、秋は雫の声を上ずらせてしまう。

 すると斎恩は、雫の手に握られていた紙をするりと抜き取った。それは武男が秋に遺した紙である。

「これは今から行く菫谷高校の住所だ。そして、君を学校に通わせると言うのは北君の遺志でもある。彼は私に、君を外の世界に連れ出してやりたいと相談してきた。彼は命を懸けてまでも、それをすることに意味があると考えていたようだ。だからどうか、彼の考えを尊重してやってくれないか?」

 そう言われて、秋は斎恩から視線を外すようにして雫の顔を前に向けた。

 それから、しばらく考え込んだ後、秋は雫の口を開いた。

「もちろん、北さんのことは尊重したいです。しかし、学校に行くことに意味があるようには思えません。僕はどうせ施設に戻ることになるでしょう。それも遠い未来の話ではありません。それに、おそらく普通の学校より高いレベルの教育は施設の中で受けてきました。それなのに、わざわざ学校に行く必要があるのでしょうか?」

 秋は先ほどまで延々と考えていたことの一端を口にする。

「確かに教育的な観点から見れば、そうなるだろう。でも、君は友達や恋人が欲しいのでは?」

 斎恩はその言葉を、あっさりと言った。まるで天気の話をするかのように。しかし、その一言は秋を黙らせるのに十分だった。今までずっと胸の奥に渦巻いていた想い、憧れ。でも、見て見ぬふりをしていたもの。決して手に入らないなら望まない方が良いと、自分をだまし続けていた。それを斎恩は一瞬で見抜いたのだ。

「北君も、気づいていたはずだよ」

 斎恩が言った。そのとき、どこからか武男の声が聞こえてきた気がする。そして、ろうそくに火が灯るように胸がほんのり温かくなった。何だろう、この気持ちは。

「教科書も、家も、戸籍も必要なものは全て私が準備しよう」

 さらに斎恩はダメ押しをするように、畳みかける。

「それに外の世界で暮らせば、チョコレートも食べ放題だ」

 秋はチョコレートごときで何でもかんでも従う訳じゃないぞ、と心の中で吠えた。

 しかし気づけば、雫の首を縦に振っていたのである。


 それから斎恩は学校について準備するものや注意点など詳しいことを教えてくれた。

 秋は雫の体で例のチョコレートを味わいながら斎恩の話に耳を傾ける。

「それから君のその二つの体について、学校では双子の兄弟という設定にしてもらう。つまり、二人の別の人間として振舞うのだ。苗字は何でも良かったが、北君から一文字貰って北川にしておいた。今日から君は、北川雫と北川美波だ」

 そうやって一通り説明を終えると、斎恩は言った。

「新学年になると、すぐにクラス対抗のスポーツ大会が控えている。もし友達を作りたいなら、それで優勝を目指すと良い」

「なぜですか?」

「何かの目標に向かって協力し合うと、そこには不思議と絆が生まれるのだ」

「分かりました」

 秋は、とりあえずスポーツ大会で優勝するという目標を胸の中で定めた。

「それじゃあ、次の駅で乗り換えだ」

 そう言って斎恩が立ち上がったので、秋も二つの体を立たせて後に続いた。

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