第6話

 秋はそれから、廊下を全速力で走り回った。上杉の部下たちは武男のおかげですぐに秋を見失ったようである。それから、秋は非常階段に出て、その踊り場についていた梯子を上っていく。すると、頭上にマンホール型の蓋が現れた。しかし、隙間に指を入れると簡単にスライドすることが出来た。そこから上に出るとどうやらそこは、何かのバックヤードのようだった。移動式の長机の周りにパイプ椅子が並べられていて、そこに鞄やらの飲みかけのペットボトルやらが散らかっている。あたりは照明が弱く薄暗い。

 そこからさらに進み、銀色の扉を開くと視界が開けて、一気に眩しくなる。

 秋は雫と美波の体を一歩前進させた。すると、建物の奥までびっしりと並ぶ人よりも背の高い棚が目に入る。そこには、見たことのない名前のお菓子が並んでいた。

 秋はどうやら大型のスーパーマーケットに出たようである。誰も、こんなスーパーの下に巨大な地下研究施設があるとは思わないだろう。上杉のやりそうなことだった。

 秋は初めて本物のスーパーを見たことに、感慨深い思いがするけれど、のんびりはしていられない。

 秋は二つの体を進めた。すると、次の棚は従業員らしき人で溢れかえっている。どうやら先ほどの地震で落ちた商品を陳列し直しているらしい。秋は雫の体を使って、手前にいた年配の従業員に話しかけた。

「あの、ここに行きたいのですが」

 そう言って、雫は武男から受け取った紙を見せる。さっき走りながらちらっと確認したとき、そこに書かれていたのが住所だと把握していたからだ。

 年配の従業員は、このくそ忙しい時に話しかけてくるなというオーラを隠そうともせずに、紙を見た。そして、苛立たしげに声を上げる。

「あん、東京なんて知らねぇよ。そんなもん、駅で聞きな」

「駅はどこにありますか?」

「店出て右に真っすぐだよ」

 そうぶっきらぼうに告げると、しっしと雫を手で追い払うような仕草をした。秋はお礼を言い、その場を去る。初めて施設関係者以外の人と話したけれど、どうやら不快にさせてしまったようだった。

 

 やがて、駅らしき建物に辿り着く。ここはかなり田舎のようで、駅の中はそれほど人がいなさそうだった。秋は二つの体で、券売機を通り過ぎて、改札に近づいていく。そこに駅員室があることは小説から得た知識として分かっていた。しかし実際に、それがあることを確認すると、なんだか不思議な気持ちがする。

 そこで秋は駅員室の窓を覗き込んだ。しかし、そこに人影はなかった。あれっと思った、そのときである。

「君、どうしたの?」

 清らかな声が後ろから聞こえてきた。それはまるで体の不純物を洗い流してくれる清水のような声だ。

 振り返ると、駅員の制服らしきものを来た若い女の人が立っている。顔は幼さが残る印象で、明るい髪はショートカットに切り揃えられていた。

 駅員さんは、底抜けの明るさで笑顔を向けてくる。それに対して、秋は言葉を失ってしまった。紙を見せて、ここに行きたいと言えばいいだけなのに、なぜだかそれが失礼な行為なのではないかと考え始めてしまう。先ほどの失敗も相まって、自分がどういう言動を取るべきか分からない。

 秋は、この人に嫌われたくないと思い始めていた。そして、嫌われたくないと思えば思うほど、言葉は遠ざかっていく。こんな感覚も秋にとっては新鮮だった。

「あ、あの………」

 言葉は出ないのに、秋はまた沈黙を恐れた。小説に出てくる気まずい空気がどういうものなのかを、実感とともに学習する。

 秋は雫の喉から声を絞り出そうとするけれど、上手くいかない。かろうじて出た音は、自分でも驚くほど小さく、踏切の音にかき消されてしまった。

 それでも駅員さんは、雫の目を真っすぐに見て待ってくれる。

 やっとのことで、秋は雫の右手を上げた。そして、そこに握りしめられている紙を、駅員さんに示す。

「ここに行きたいの?」

 そう駅員さんが言った。秋は、言いたかったことが伝わったことが嬉しくて、強く頷く。

「ちょっと待ってねー」

 駅員さんはそう言うと、駅員室に入り、紙とペンを持って戻って来た。そして駅の壁を机代わりにして、駅名やホームの番号を書き記していく。おそらく、乗り換え情報等をまとめてくれているのだろう。

「新幹線は使う?」

 駅員さんが、一度振り返って雫に聞いた。急に話しかけられて、雫はびっくりする。そして反射的に、

「はい」

 と言ってしまった。

「おっけー」

 駅員さんは、それを聞くとまた壁に向かう。そして、一通り書き終えると、その紙を雫に渡してくれた。

「ずいぶんと遠い所まで行くみたいだけど、お金はある?」

 秋はそう言われて、美波の手に握っていた財布を見せた。

 それから駅員さんは切符の買い方や乗り換えの仕方を丁寧に教えてくれる。駅員さんが雫の横に立ち、紙を覗き込んだとき、微かに甘い香りが漂ってきた。

 なぜだか分からないけれど、心臓の動悸が早まっていく。それは施設の中では経験の無い心の動きだった。

 それからの説明は、あまり頭に入っていない。しかし、最後に駅員さんが放った言葉は、これからも秋の記憶に残り続けることになる。

「緊張しなくていいよ。私は味方だから」

 そのときだけ、駅員さんの声が変わった。底抜けに明るかった声色が、一気に大人びた妖艶な色を帯びたのである。

 秋はその変わりように動悸を覚えた。しかし、そこで電車が来るという構内アナウンスが流れる。

 そして駅員さんがまた軽快な声に戻って、言う。

「ほら、電車来ちゃうよ。じゃあね」

 駅員さんは雫の背中に手を当て、改札へと促してくれる。秋は、そのまま改札を通り、ホームに出て、それからやって来た電車に乗った。その間も、秋の胸はざわついたままで、後ろを振り返りもう一度駅員さんの姿を見ることさえできなかった。

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