第5話

 武男と、雫と美波の体はコンピューターの間を縫い、人気の少ない廊下に出る。

 その瞬間、ムワッとした熱気が雫と美波の頬を撫でた。美波の体で左側を見ると、もう五メートル先まで火の手が迫っている。そして頭上からは、スプリンクラーの水が降り注いでいた。

「少し熱いが我慢してくれ。まだ炎はそれほど広がっていないはずだ」

 そう言って武男は雫の手を引きながら、左側の廊下に走り出した。迷っている間もなく、秋は美波の体でそれに続く。

 両側から来る、皮膚を焼き付けんばかりの熱と、頭上から来る水しぶき。そして、それに濡れた床に何度も足を取られそうになりながらも、武男と二つの青年の体は、廊下を突き抜けていく。

 目の前は常に火花と水しぶきが入り乱れたカオスだった。天井付近には、黒い煙がまるで世界のすべてを闇で覆いつくさんばかりに蔓延っている。それでも、武男と秋は、躊躇することさえ許されず、その混沌へと飛び込み続けた。

 やがて、火による脅威から逃れることに成功する。武男と二つの体は、同時に止めていた息を再開し、大きく空気を吸い込んだ。秋は雫と美波の両方の体で、膝に手をつき呼吸を整える。美波の前髪の先から、水滴が零れ落ちた。しかし、立ち止まっている暇はないと武男が言う。秋は武男に頷いた。

 そして武男と秋は廊下を歩き始める。そこからは一メートル先も見えない暗闇が待ち受けていた。

 しかし、武男は迷わず進んでいく。まるで通る道をあらかじめシミュレーションしたかのようである。

 そこから迷路のような道を進み、武男と秋は辿り着いたエレベーターに飛び乗った。

 エレベーターの中は明るくて、目が慣れるのに数秒がかかった。備え付けられている鏡で体を確認すると、あちこちが濡れていたり、煤が付いていたりするけれど、それ以外は問題なさそうである。

「エレベーターは非常時にも動くように、他とは電源が別にしてあるんだ」

 そのとき、武男がさっきまでの鬼気迫る口調からいつもの優しい声に戻って言う。そして彼は、エレベーターに揺られながら頭をポリポリと掻いた。まるでいたずらをした小学生が、母親に罪を白状する時のようである。

「君たちは、いや、君はもうこの施設に縛られる必要はない」

 唐突に、武男は話し始めた。

 秋は言葉を発さない。ただ四つの瞳で、武男を捉えた。

「今まで本当にすまなかった。ずっと君たちを道具のように扱うことがいけないことだって分かっていた。でも、怖くて止められなかったのだ。上杉に逆らうことと、そして今の地位を失うことが。本当に申し訳ない」

 秋は話の全貌が見えてこなかった。でも、思ったことを素直に口にする。使ったのは雫の体だ。こっちの方が優しい声が出せる。

「北さんは、僕を唯一人間として扱ってくれた。謝らないでください。僕はあなたに感謝しています」

 そこからは言葉はいらなかった。武男は涙をこらえるように奥歯を噛みしめると、雫と美波、二つの体を抱き寄せる。秋はそこで、武男の温もりを感じた。それも雫と美波、二人分の温もりを。秋は人生で誰かに抱きしめられたのは初めてだが、それが武男で良かったと思う。

 その間もエレベーターは地上に向かって進んでいた。

 やがて、チンっという音とともに、扉が開く。三人は、エレベーターから廊下に出た。この階の電源はすでに復旧されたのかそもそも停電しなかったようで、廊下は明かりが灯っている。とそんなことを考えていられたのも僅かな間だけだった。

「これからどちらへ行かれるのですか?」

 武男、そして雫と美波の前に、上杉が立ちはだかっていたのである。その後ろには、スーツ姿の、おそらく研究員とは別で上杉直属の部下である男が二人控えていた。どちらもスーツがはち切れんばかりの筋肉量である。

 上杉は絶好の獲物を見つけた狩人のような笑みを浮かべた。

「武男さん。まさかその後ろにいる青年を、外へ連れ出そうなんて思っていませんよね?」

 その時だった。武男が白衣の内側に手を忍び込ませるのが目に入る。そして、そこから鋼色の物体を取り出した。廊下の天井に埋め込まれたランプの光を受けて、その拳銃は燦然と輝く。

 武男はその銃口を真っすぐ上杉へと向けた。

「何の冗談かな?」

 上杉は焦っているようには見えないが、先ほどまでの余裕は消え去っている。その笑みは、引きつっていた。しかし、それも僅かなことで、上杉は笑うことを諦めると、状況を冷静に分析し始めたようだ。

 そこで後ろに控えていた上杉の部下二人もスーツの中から黒い拳銃を取り出す。

 しかし、上杉は彼らを手で制した。

「万が一にも、貴重なモルモットを傷つけるな」

 そう言われ、二人は銃口を地面に向ける。そして上杉は続けて、武男を正面から見た。

「君に僕が撃てるのか」

 そう言って、上杉は手を広げ一歩前へと進み出た。それは常人には到底できない行為である。あらためて、上杉という男の胆力を思い知った気がした。

 武男もそれは予想外だったのか、手を震わせながら一歩後退する。武男は上杉の圧力に完全に負けてしまっていた。そのとき、武男のかかとが雫のつま先を踏んでしまう。武男は少しよろけて、それから雫をちらっと見る。その目は、驚いているように秋には見えた。それはまるで、雫の存在が目に入ったことにより、自分が何のために銃を握っているのか思い出したかのようだ。

 上杉は後退した武男を見て余裕を取り戻したのか、また不敵に笑い始める。

 しかしそこで武男の手の震えが止まった。

 次の瞬間。地震を知らせる警報とは比べ物にならない轟音が響き渡る。武男が引き金を引いたのであった。

 だが、発射された弾丸が貫いたのは、上杉のこめかみでも心臓でもなかった。

 次の瞬間、あたりがわずかに暗くなった。弾丸は、上杉の頭上にあるランプを撃ち抜いたのである。そのことに、上杉たちが気を取られている間に、武男は白衣の中からまた別のものを取り出す。それは紙と財布だった。それをそれぞれ雫と美波の手に握らせ、武男は叫ぶ。

「走れぇっ‼」

 それを聞いて、秋は二つの体を使って思いっきり床を蹴った。何も考える間もなく、気づけば足が動いている。

 後ろから部下二人が追ってこようとしたのが見えた。しかしその次の瞬間、彼らは地面に倒れる。なんと、あの細身であった武男が、がたいが良い二人の男をタックルで倒してしまったのだ。その強く勇ましい様は、まさに彼の名前に恥じない姿だった。

 しかし次の瞬間、二発の銃声が鳴り響く。そして直後に、武男のうめき声のような叫び声が廊下にこだました。

 しかし、秋は決して振り返らず、また足を止めることもない。

 それは武男が、「走れぇっ‼」と叫び続けていたからだった。

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