第4話

「今日は、心が揺れているようですね」

「えっ?」

 秋は思わず、雫の演奏する手を止めてしまう。彼は今、ヴァイオリンの指導を受けていた所だった。

 美波の体は運動神経が良い代わりに、細かい作業が苦手である。逆に雫の体は、運動神経はそこまでだが手先が器用だった。だから雫の体では小さい時から、楽器を習わされてきたのである。中でもヴァイオリンは長い間、練習してきた。

 そして今、雫の先生兼世界的ヴァイオリニストの伊織先生が、秋の心が揺れていると言った。

「音が普段よりも、震えています。何かあったの?」

 雫の部屋で向かい会った二人の視線がぶつかった。

「いえ、特になにも」

 秋は雫の体ではごまかした。伊織先生も納得した様子ではないが、追及しては来ない。それにしても、その道を極めた人ならば些細な音の違いから心理状態までも見抜いてしまうのか。秋は普段と同じように弾いていたつもりなのに、先生には違って聞こえたらしい。

「すいません。ちょっと、お手洗いに行ってきます」

 秋はそう言うと、ヴァイオリンをそっと置いて部屋を出た。無機質な廊下の固い床を踏み鳴らして歩き、突き当りにあるトイレまで進む。

 秋は一人になりたかった。確かにこのところ、気持ちが揺れている。まるでチョコレートが溶けるかのように、心が決まっていた形を失っていくのを感じた。

 秋はドアノブを捻る。そこから先は、この施設で数少ない監視する目がない部屋だ。秋は雫の体でそこへと入る。

 どうせ自分は研究対象として、一生上杉の管理下で暮らしていく。そこに感情など必要ない。ただ何も望まず、何も感じず平穏に日々を過ごすことができたらそれでいい。上杉の指示に従って、データを取られ、それが人類のためになるのならばそれで十分だった。

 そのとき、トイレットペーパーの端が三角形に織り込まれているのが目に入る。秋は約十七年間この施設で暮らしてきたけれど、そんな光景を目にするのは初めてだった。

 秋はドアのカギを閉めたことを確認すると、トイレットペーパーを引っ張った。すると、一枚の紙切れが床に舞い落ちる。秋はそれを拾い上げた。

「2023,3,11」

 その紙に書かれていたのは、その数字だけだった。そしてそれは明らかに日付を表している。

「二〇二三年、三月、十一日」

 秋は声に出して呟いた。それは今日から一週間後を指している。この日に、何かあるのだろうか。秋はこれ以上、この紙切れから情報を読み取ることはできなかった。

 しかし、なぜか胸がざわつく。この紙に書かれた日に、何か起こるのではないかと淡い期待を抱いている自分が、心の片隅にいた。秋は、雫の首を横に振りそんな思考を振り払う。そんなものはただの妄想であり、現実的ではない。たとえ一時的に何かが起きようと、運命は変わらないのだ。それほど上杉の力は強大だった。そうやって秋は人生を諦めることに自分を納得さえ、ホッとする。

 そして雫の指で紙きれを破ると、それを便器へと流した。


 二〇二三年三月十一日。午前をいつも通り上杉の指示に従って過ごした秋は、それぞれの体で昼食を取るとあの電気椅子がある部屋へと連れてこられていた。

「安心して。別に罰を受けてもらうために、ここへ来たわけじゃないから」

 雫と美波の体を部屋へと連れてきた人物、武男が言った。その表情からは、いつもの優しさが消えていた。代わりに、切腹の覚悟を決めた侍のように、険しさと清々しさを併せ持った顔をしている。秋は所在なさげに、二つの体で椅子の前に立ち尽した。

「しばらく、そこで待っていてくれ」

 そう言うと、武男は早足で自動ドアを潜っていく。取り残された秋は、やることもなくただ突っ立っていた。しかし、少しして今日があの紙切れに書いてあった日だと思い出す。

 それに気づいた途端に、胸の動悸が早くなっていく。秋はうんざりして、二つの体で溜息を吐いた。そして運命に対して愚痴をこぼす。これ以上、人生をかき乱さないで欲しかった。どうせ、自分に人権などないのだ。一生モルモットとして、この研究施設で生きていく。もうそれでいいと決めたのに………。

 そのとき、甲高いベルの爆音が鳴り響き、雫と美波の耳をつんざいた。

 次の瞬間、足元が揺れ始める。それはだんだんと強くなっていき、椅子につかまっていなければ立っているのが難しくなった。窓ガラス越しにコンピューターを操作していた二人の研究員が見える。彼らは慌てて机の下に身を隠すと、大声で話し始めた。

「おい、ここは地下だぞ!」

「それだけでかい地震ってことだ。下手したら、阪神淡路以来かもしれねぇ」

 そしてさらにその次の瞬間、雫と美波の視界が暗闇に包まれた。どうやら停電したようである。ガラス窓の向こうで灯っていたコンピューターのランプが一斉に消えるのが見えた。

「おい、今度はなんだ?」

「停電だな。大丈夫、すぐに電源が切り替わるはずだ」

 そんな研究者たちの会話が、窓ガラスを隔てているため、くぐもった声で聞こえてくる。

 そして、しばらくの静寂があたりを覆った。揺れはすでに収まっている。しかし、一向に電気が付く気配がない。

 不審に思った研究員の一人が、机の下から出て廊下の扉を手動で開くのが見えた。

 すると、廊下から赤い光が漂ってきて、コンピュータールームの室内がわずかに照らされる。次の瞬間、濁った叫び声がガラス越しに聞こえてきた。

「火事だ!」

 そう言って研究員は慌てて廊下を右側に走り去っていく。それを聞いた研究員も、机の下から飛び出て後に続いた。

 そのとき、左側の廊下から入れ違いでコンピュータールームに入ってくる人物が、窓ガラスを通して目に入る。それは武男だった。彼は、電気椅子の部屋の扉をこじ開ける。暗闇でも、彼が肩で息をしているのが分かった。

「説明している時間はない。行こう」

 そう言って武男は雫の手を取って走り出す。秋は美波の足を動かしてそれに続いた。そして武男と秋は電気椅子の部屋を出る。そこから先は、秋にとって侵入が禁止されているエリアで、足を踏み入れたのは初めてだった。

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