第3話
翌午前。上下にスポーツウェアを着た、茶髪が印象的な好青年である美波の体を使って秋は、芝生の上でスパイクの靴ひもを結んでいた。彼がいるのは雫や美波の部屋よりもさらに地下深いところにあるトレーニングルームだ。
このトレーニングルームは、バスケットコートほどの部屋がいくつも連なってできている。そしてそれぞれの部屋で、ありとあらゆるエクササイズやスポーツをすることができた。
美波がいるのは、その中のサッカー専用の部屋だ。床には人工芝が敷いてあり、奥にはサッカーゴールが見える。
ここは体育館のように天井が高くなっていた。そして頭上から、人工的に作られた太陽光と同じ成分の光が降り注いでいる。今現在、外の季節は春であり、この部屋の光もそれに合わせてどこか温かみを与えてくれるような量に調整されていた。美波は以前にもドリブルとパスを習得しており、この部屋を使うのは三回目だ。
そこに自動ドアが開く音がして、振り返ると上杉が相変わらずピカピカに磨かれた革靴を履いて部屋に入ってくる。
「やぁ秋君。調子はどうかね?」
「特に問題ありません」
秋は美波の体を使って答えた。美波の方の声は、透明感があるけれど、芯がある。雫の声も儚い感じで嫌いじゃないけど、秋は美波の声の方が好きだった。
「それは良かった。今日は見ての通りサッカーをしてもらう。中でも、今日はシュートを覚えてもらおうか。今、雫の体の方にコツが書かれた本を届けに行ってもらったところだ。それを読んで、しばらく自由に練習すると良い。ではまた」
それだけ言うと、上杉はさっさとトレーニングルームを出ていく。
そしてその直後、雫の部屋の扉が乱暴に開かれた。無愛想な研究者が無機質な白い部屋に踏みこんで来る。部屋で待機を指示されていた雫の顔を上げると、研究者が無言で本を差し出してきた。どうやらこれが、シュートに関する本のようだ。
秋は雫の体を使ってさっそく、その本を開いた。そして、シュートの打ち方を頭に入れていく。
研究者はそのまま部屋に居座って、何をするでもなく、ただ雫の体を監視していた。その視線に居心地の悪さを感じていたのも、遠い過去の話である。今はもう慣れた。
「強いシュートを打ちたいなら、足の甲の真ん中あたりにある硬くて骨が出ている部分を使う。その部分でボールの中心わずかに下を蹴ると良い。これをインステップキックと言う」
秋は太字になっている部分を、音読みする。その方が、頭に入りやすい気がするからだ。その横に、サッカーボールと足の絵が描いてあり、先ほどの内容が分かりやすく図示されていた。
それを見て、秋は強いシュートの打ち方を理解する。
すると、今度は美波に切り替えて、研究者から受け取ったサッカーボールを芝生の上に置いた。そこから助走のための距離を取る。目の前には無人のゴールが佇んでいた。
秋は狙いを定めると、美波の体でボールに向かって走り出す。それから、足の甲を立てるように足首に力を入れる。そして軸足をボールの横に置くと、骨ばった足の甲の硬い部分でボールの中心わずかに下を捉えた。
美波の力が乗ったボールは、空気を切るかのように一直線に飛んでいく。そして、ゴールネットの中心に突き刺さった。
それを確認して、秋は再び雫の体を使い次のページへと進んだ。そこにはカーブシュートの蹴り方が説明されている。秋はさっきと同じ要領で、コツを頭に入れた。
するとその直後、美波の体がシュートを放つ。飛んで行ったボールは先ほどとは違って、空中で弧を描きながらゴールの隅に吸い込まれた。
そうやって雫の体で知識を集め、美波の体で実践することで、秋は短時間で数多くのシュートを習得する。
秋にとって、雫と美波の体を使い分けることは、普通の人間が右手と左手を使い分けるのと同じだった。
だから二つの体を同時に使うこともできる。逆に一つの体に意識を集中させることも出来た。そうやって一方を意図的に使っているときは、もう一方は意識せずとも状況に応じてふさわしい動きをしてくれるのだ。
そんな感じで練習を初めてから数時間が経った頃、秋は美波の体に疲労を感じ始める。太ももやふくらはぎの筋肉がピリッと張っていて、喉も乾いた。
そのとき、美波の背後でプシューという、扉が開く音がする。
秋が美波の体で振り返ると、上杉と身長が二メートルはありそうな男が現れた。
「やぁ秋君。捗っているかね?」
秋は頷いた。
「この方は、現サッカー日本代表のゴールキーパーである、田代さんだ。シーズン中にもかかわらず、君のためだけにここへと足を運んでくださった。今日はこの田代さんから得点を決めてもらおう」
そう言うと、上杉はゴールから二十メートルほどの距離にボールを置いた。その距離から打てと言うことらしい。
それを見て、田代さんが声を上げた。
「そこはさすがに遠すぎないですか?実際のサッカーコートならペナルティエリアの外ですよ。さっきシュートを覚えた素人が、プロから点を取るのは不可能な距離だと思います」
田代さんはそう進言したが、上杉は一言だけ、
「いや、これでいい」
と言って田代を制した。田代は納得していないようだが、仕方なくゴールの方へと向かっていく。
そこで、再びドアが開く音がした。
その場にいた全員がドアの方を振り向く。するとそこには、白髪交じりの髪と髭を生やした、七十歳ほどの老人が立っていた。老人はスーツを着こなしており、その佇まいから、品の良さが滲み出ている。
「私も、見学させてもらって構わないかな?」
老人が年を感じさせないよく通る声で言った。
すると上杉の態度が急変する。彼は見たことがないほど柔らかな笑顔を作り、腰を曲げて老人へとすり寄っていった。
「これは斎恩先生。この度は私どもの研究に興味を持っていただきありがとうございます」
今までこの施設には、田代のように各界の大物が数多く訪れてきた。その誰に対しても上杉は表面上丁寧な態度を取ってきた。しかし、内心では彼らを馬鹿にしていたと秋は思っている。上杉は大物たちが帰った後、いつも自分の方がすごい人間だと確信して笑っていたのだった。
しかし斎恩と呼ばれた老人に対してだけは、本気でへりくだっているのが分かる。そして上杉がそれを屈辱的に思っていることも、美波には感じ取れた。それほどこの斎恩という人物は、偉大なのだろうか。
「もちろん、見学して頂いて構いません」
そう言って、上杉は続けた。
「先ほども説明させていただきましたが、彼は今朝シュートを覚えたばかりの素人です。私どもの研究した教育プログラムでは、そんな彼でも、短期間にしてプロから点を取れるほどの成長を遂げることを可能にします。それをご覧に入れましょう」
そう言うと、上杉は秋にシュートを打てと目で合図を送って来た。いや、違う。最後に上杉が睨みつけてきたのを、秋は見逃さなかった。上杉の指示はシュートを「打て」ではなく、「決めろ」であると理解する。
秋は助走のための距離をとり、キーパーを見た。長身の田代さんが前に立つだけで、さっきよりもゴールが小さく見える。
美波の足は震えていた。すでに数時間休むことなくシュートを打ち続けている。ふくらはぎと太ももは限界を迎えていて、集中力も切れかけていた。それでも、上杉の指示ならばシュートを決めなければならない。
秋は一つ深呼吸をして、助走を始めた。田代さんが腰を落とし、こちらの動きを注視しているのが分かる。秋はさっきまで繰り返していた動きを頭に描き、足の甲でボールを力強く蹴り出した。
ボールは練習通り真っすぐに飛んでいく。田代さんが秋の放ったシュートを見て目を見開くのが見えた。彼は、必死に横へ跳びボールに手を伸ばす。
しかし、その手がボールに触れることはなかった。彼の手がシュートコースに入った時には、ボールはすでにゴールネットを揺らしていたのである。
田代さんが信じられないといった顔で、自らの手と転がったボールを交互に眺めていた。
そこで上杉が、満足げに声を上げる。
「ご覧いただけましたか?どうでしょう、我々の教育プログラムは。これをさらに突き詰めていけば、日本の、いや世界の教育に革命が起こるでしょう。ぜひ、斎恩先生も投資者として我々に協力していただけませんか?」
上杉は、満面の笑みを浮かべていた。美波の足はもう破裂しそうだったけれど、上杉からの指示がないため秋はその場に突っ立っていることしかできない。美波は母親の買い物に付き合わされた子供がするように、足を曲げたり伸ばしたりしてなんとか疲労感を逃がそうとする。
そこで斎恩が声を上げた。
「上杉さん。本当の研究内容は、どのようなものですか?」
斎恩の声は、特に上杉を非難するような響きもなく、ただただ淡々としたものだった。
しかし、その一言で場の空気感が一変したのを秋は感じる。一瞬にして、上杉の顔から笑顔が消えた。
「それはどういう事でしょうか?」
「今のシュートは確かに美しかった。そして今日練習を始めたばかりというのも本当でしょう。しかし、彼がここまで成長したのはあなたが言う教育プログラムのおかげではないのでしょう?」
斎恩はなおも淡々と続ける。まるで、世の中の理をすべて理解しているかのような雰囲気だった。
「私が思うに、彼は並外れた運動神経とポテンシャルを持ち合わせている。つまり彼は普通に練習しただけで、ここまで上手くなってしまった。あなたが彼に特別な教育を施した訳ではない」
秋は驚いた。この斎恩という老人は今のシュートを見ただけで、そこまで見抜いてしまったのか。あるいは…………。
「強いて言えば、彼がどのようにシュートの打ち方を覚えたかということは疑問である。そちらの田代さんが教えた訳ではなさそうだ。何も教わらず、やみくもにボールを蹴ってここまで上手くなるとも考えにくい。しかし、そのあたりはあなたの本当の研究内容が説明してくれるでしょう。あなたが大金をかき集めて行っている研究が」
老人は腰の後ろで手を組んで、穏やかに微笑みながら理路整然と語った。
上杉はさっきまで反論を試みようとしていたみたいだが、そこで観念したようで、肩を下ろす。
「初めから知っていて、ここに来たのですね?」
「さて、どうだろうか」
斎恩が今度はとぼけるような顔を作る。
上杉は苛立っているようだが、それを表情に出さないように努めていた。そして、本当の研究内容、二分の一重人格のことを斎恩に洗いざらい説明していく。
一通り話を聞き終えると、斎恩は咳払いをした。
「ふむ。研究についてはだいたい分かった。投資をさせてもらうかどうかは、一旦持ち帰って検討させてもらうとしよう。ではごきげんよう」
それだけ告げると、斎恩はくるりと振り返ってトレーニングルームを出て言った。
美波はなんとなく嵐のような人だったなと感じる。颯爽と現れて、上杉をやり込めてしまったと思うと、ひょうひょうと去っていく。
上杉は、一度思いっきり芝生を踏みつけ怒りを発散させると、
「あのじじい。必ず潰してやる」
とぶつぶつ言いながら、自動ドアに向かっていく。
そのとき、美波の口が勝手に開いた。秋は気づかないうちに、美波の喉から声を絞り出していたのだ。
「待ってください」
そこで上杉が立ち止まる。しかし決して振り返らず、声だけを返してくる。
「なんだ」
「僕は今から何をすれば………」
秋は、上杉の態度を窺うように言った。しかし上杉は、嫌いな人間の自慢話を聞かされた時のように、興味がなさそうな口調で言う。
「練習を続けろ」
それまでの何が秋を突き動かしたのか分からない。昨日の涙か、斎恩の存在か、それとも思っている以上に足は限界を迎えているのだろうか。分からないけれど、秋は気づけば、声を出していた。
「休憩させて下さい」
それを聞いて上杉は怒りを隠そうともしない表情で振り返った。そこには驚愕の感情も含まれていたようである。
しかし、一番驚いていたのは秋自身だ。
上杉は息を荒立てながら、美波の下へとにじり寄って来た。秋は美波の指すら動かすことも、ままならない。
「お前は今日も電化製品になりたいのか。いいな、お前が俺に意見するなよ。絶対に」
その顔は、怒りに歪んでいた。だが口調は淡泊であり、それが余計に、言葉に込められた非難の色を強調している。
上杉は美波に手を挙げるのを必死に自制しながら、最大限の侮蔑の意を込めて美波を睨みつける。
美波の体は、黙ったまま小刻みに震えていた。それは、秋が上杉の怒りに恐怖を覚えたからではなく、上杉に意見した自分を恐れたからだ。まるで自分が自分ではないような感覚がする。
上杉に何かを言ったところで、何も変わらない。それどころか、状況は悪化するだけ。そんなこと、小さいころから何度も学んで来たはずである。成長するにつれ、上杉の持つ権力がいかに大きいかを思い知った。抵抗するだけ無駄だと、何度も自分を諫めてきた。そして最近は、抗うことを止めたはずだった。すべてに従っていることが一番楽だと理解したはずだった。
それなのに、どうして自分はまた、何かを望もうとしているのだろう。自分は人生を諦めたのではなかったのか?と自問自答する。秋はスポーツウェアの胸のあたりを、捻り上げるように掴んだ。すると指先から、心臓がまるで何かを急かす様に拍動しているのが伝わってくる。
秋は自分が怖かった。
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