第2話
ちょっぴり気が弱そうだけれど心優しそうな青年である雫の体を使って、秋はベッドの上に座り込んだ。彼は、無機質で音の無い六畳ほどの部屋で一人の時間を楽しもうとしている。部屋にあるのは、ベッドと机、それから本棚くらいであり、しかもそれらの家具はすべて白色で統一されていた。何も特徴がないことが唯一にして最大の特徴である部屋だ。
ここはとある町のはずれにある地下研究施設。若くして様々な事業を成功させ、多額の富を築いた天才、上杉才智が作り上げた、秘密基地とも言える。その存在は、長く町に住む町民さえ知らない。ちなみに雫は生まれてから、この施設を出たことはない。
そんな施設の一室で、雫は新しく取り寄せてもらった小説を開く。
まだ先ほどの罰で流された電流が体に残っていて、腕がピリピリしている。だが、この罰にもかなり慣れてきた。
小説を開くと、当然のことだけれど、そこには文字が整然と並んでいる。しかし、秋にとってそれはただの文字の羅列ではなかった。そこは秋にとって唯一自由な世界であり、外の世界のことを教えてくれる学びの場でもある。
秋の生活はトイレやお風呂を除きほぼすべて監視されていた。この無機質な部屋も例外ではない。
しかし、本を読んでいるとき、秋がどのような世界を旅し、どんな気持ちを抱いているかまでも監視することはできないのである。だから秋は小説を読むのが好きだった。
そのとき、コンコンと部屋をノックする音が響く。この部屋に入るのに、ノックをする時点で誰が来たのか分かった。
「はい」
と返事をすると、ドアが開く。姿を現したのは、もじゃもじゃの頭にひげを生やした白衣の男だった。彼の名前は、北武男である。武男という名前のくせに弱々しい見た目をしているが、彼は上杉が作った研究チームのリーダーだった。そして、自ら秋のお世話係、執事のような役割も兼ねている。
「雫の体は大丈夫か?」
武男がちょっとざらついた声で言う。秋はこの声が嫌いじゃなかった。
「はい。まだ少しピリピリするけど、特に問題ありません」
「美波の体の方は?」
そう言われ、秋は意識を美波の体に移した。途端に視界が切り替わる。そこには雫の部屋と同じつくりの部屋があった。家具もほとんど同じように配置されているが、ここには本棚はなく代わりにストレッチ用のマットやゴムが置かれている。
一つの体に二人の人格が宿っていることを人は二重人格という。それに対して、秋は二分の一重人格だった。つまり秋は二つの体を持っている。それらはそれぞれ名付けられていて、その名前が雫と美波だった。そしてそれらを操る人格の名が秋である。
秋は武男が研究していた空間を超越して伝わる電波により生み出された。それは革新的な研究であり、それに目を付けたのが上杉だ。彼は武男に指示し、その電波で人間の脳細胞をリンクさせる方法を確立させた。そしてその方法を用いて生み出されたのが、秋である。
言わば秋は上杉と武男の実験対象、モルモットであった。
秋は美波の体に異常が無いことを確認すると、再び雫に意識を戻した。そして、雫の口を使って言う。
「美波の方も大丈夫そうです」
「そうか。それなら良かった。最近上杉さんが『止め』の指示を出すのがどんどん遅くなってきているから、心配していたのだ」
「本当に体の方は問題ありません。ただ………」
「ただ?」
武男は雫に目線を合わせるようにしゃがみ込み、真っすぐその瞳を見ながら先を促した。
秋は雫の体を使って頷くと、続きを話す。
「自分が涙を流してしまったことに、驚きました。今でも少し動揺しています」
「うん」
そこで秋は言葉に詰まる。それでも、武男の優しい瞳は決して雫の中にいる秋を見放さない。
「それから?思っていることを正直に話してごらん。人は話を聞いてもらうだけで気分が軽くなることもある」
武男が言った。秋は頷いて、呼吸を整える。
「正直に言うと、僕はもう涙を流すことなんて無いと思っていました。涙は、希望を抱いていたけれどそれが叶わなかったときに流れるものだと僕は思っています。そして僕は、もう全てを諦めていました。人生に光を見出すことさえです。僕は人生が暗いままで良いと思い、また暗闇を受け入れていました。僕の心に、期待や希望なんてなかったはずなのに、涙を流していたことが、ちょっとショックです」
なぜだか武男を前にすると、秋の舌は良く回る。これは、武男の聴く能力と人柄のおかげだろう。
武男は秋の話に、口をはさむことなく、時々相槌を打ちながら、最後まで話を聞いてくれた。
そしてそれを頭の中でかみ砕いていたのだろう。ちょっと黙って、何かを考えた後、口を開く。
「君は昔の私に似ている。私もかつて絶望し、人生を諦めたことがあった。でも、私がいうのもなんだが、未来は思っているよりも明るいものだよ。今の状況が一生続くことはありえない。いつか必ず変化が訪れる」
武男は優しい声で、言った。それは秋のことを心から想っての言葉であると、秋も分かっている。
でも不思議と、怒りが腹の中で沸き上がってくるのを感じた。なぜかは分からないけれど、武男の言葉は秋の心の柔らかい部分を逆なでしたのである。
そして秋は、できるだけ刺々しい態度にならないよう、必死に腹立たしさを堪えながら、言った。
「未来が思っているよりも明るいのは、普通の人間の場合は、ですよね?」
秋はそこで言葉を止めようとするも、口が勝手に動いてしまう。
「僕は普通の人間じゃない。いや、人間ですらない。僕をモルモットのように扱っているのはあなたたちです」
それは研究者や上杉を含めた人たちの中で唯一、秋を人間として接してくれる武男にかけるべき言葉ではなかった。
秋は口にしてしまってから、言ったことを後悔する。
武男は少し悲しそうな顔をしたけれど、すぐにまた柔和な笑顔に戻った。そんな武男の優しさに、秋は心苦しさを感じる。これ以上、武男の優しさに甘えて、わがままな感情をぶつけていてはいけない。
そう思って、秋は言った。
「ごめんなさい。ちょっと動揺していて感情的になってしまいました。まだちょっと気分が落ち着いてなくて………、一人にしてもらえますか?」
それを聞いた、武男は頷くと、立ち上がった。
「すまない。邪魔をしたね」
そう言って武男は雫の肩に手を置くと、白衣を翻して部屋を出て行った。
秋はまだ胸の内で何かが動いているのを感じたけれど、それを無視して読書に没頭する。本を読んでいれば、何も考えずに済む。物語の内容は、独りぼっちだった少年がひょんなことから親友を作り、それから運命の人に出会うという、ありきたりなものだった。秋は同じような本を何冊も読んできたけれど、それでもなお心動かされている自分がいることに気が付く。
自分にも、親友や恋人と呼べる存在がいたならば、人生は明るくなるのかもしれない。まぁ、この施設の中にいれば、そんな存在が出来ることはあり得ないのだけれど。
それからしばらくすると、十一時半になり就寝の指示が入った。雫は本を閉じ、言われるままにベッドに潜る。そして目をつむった。
また一つ、管理された一日が終わりを告げたのである。
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