05 : レモンソーダに沈む夜
彼女に手を引かれ、私は初めて工場の外へ出た。彼女──ユリサは私の手を痛くない程度に強く握りしめ、人一人見えない暗い夜道を迷うことなく進んでいく。
ユリサが何処へ向かっているのかわからないけれど、今は目の前を漂う黒髪を眺めているだけで、何も話す言葉が浮かばない。
頭の中がぐちゃぐちゃに入り乱れていて、何かを考えようとしても思考がぼんやりとしてまとまらない。
つい数分前のことが──思い出そうとしても思い出せなくて、思い出したくなくて、思い出そうとすると吐気が込み上げてきた。もし吐いてしまったら、私の身体の中からは一体何が出てくるというのだろう。
夜闇の中、ユリサに手を引かれてどこまでも歩き続けた。随分と遠くまで来たようだ。ユリサはこのまま、私をマザーボードまで連れて行くつもりなのだろうか。
工場は山間の小さな町の中にある。「田圃」と「畑」くらいしか無いような所で、最寄りの「コンビニ」までは車で20分もかかるのだと、以前聞いたことがある。
夜の冷気に当てられて、ぐちゃぐちゃだった思考が少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。
ユリサの手はひんやりとしていて、それでいてどこか温かくて、なんだか心地がいい。
首を動かして辺りを見回してみても、夜に沈んだ町の光景ははっきりとは見えない。建物らしきものはぽつりぽつりとある程度で、リーリーと鳴く虫の声が永遠と聞こえていた。
それからもうしばらく進むと、いつの間にか虫の声は止み、ぶおおんという静かな音が時々近付いてきては遠去かっていった。
少し違うかもしれないけど、工場の中にもあんな音を出しながら動く機械がある。この先に機械仕掛けの獣でもいるのだろうか。
しばらくするとまたその音が近付いてきて、何かが物凄い勢いでこちらの方へ向かってきた。それはやっぱり、機械仕掛けの獣だった。眩い光と静かな呼吸を撒き散らしながら、私たちの横を一瞬で通り過ぎていった。
「ユ、ユリサ……」
あのような獣がこの辺りには沢山いるのだろうか。怖くなって、私は工場を出てから初めて彼女に声をかけた。
ユリサが立ち止まり、こちらを振り返る。その目はとても穏やかでよく澄んでいた。涼やかな口元には微笑が浮かび、その顔を見ると胸の中に渦巻いていた恐怖や不安が溶けていくようだ。
「疲れた?少し座りましょうか」
そう言ってユリサが指差した先を見ると、人工的な明かりを放つ自動販売機と寂れたベンチが肩を並べていた。
ユリサが取り出したコインを「自販機」の中に入れてボタンを押すと、ガコンという音がして飲み物が出てきた。
「……このお金がこんな時に役立つなんてね」
取り出した飲み物に視線を落としながら、ユリサは私に聞こえないくらい小さな声でぽつりとそう呟いた。その目はひどく寂しそうで、彼女のそんな顔を見ていると、胸が締め付けられるような思いがした。
「はい。人間の世界の飲み物なんて、あなたは好きじゃないかもしれないけれど。どっちがいい?」
ユリサはそう言って、箱の中から取り出した2つの飲み物を私の前に差し出した。どちらもカラフルなラベルに文字が沢山書かれている。
「じ、じゃあ……こっち」
本当はどちらがいいかなんてわからないけど、ラベルの色が一つは黄色で一つは黒っぽかったから、なんだか私たちの髪の色に似ている気がして、私は黄色い方を選んだ。
「はい」
「あ、ありがとう……」
アンドロイドはものを食べたり飲んだりする必要はない。私は食べたり飲んだりすることが出来るアンドロイドだが、味はほとんどわからない。
ユリサもマザーボードから来たアンドロイドなら同じはずなのに──それなのに私に飲み物を買ってくれる意味とは、一体どういうことなのだろう。本当のところは本人に聞かなきゃわからないけれど、ユリサはとても優しい。これだけは確かなことだ。彼女は私を助けてくれた。
ユリサは私の隣に腰掛け、さっき買った飲み物を一口飲んだ。白い喉が白蛇のように畝った。
飲み物を飲んだことはあるけれど、この「ペットボトル」という容器に入ったものは飲んだことがない。ユリサの真似をして、私は飲み口の蓋を捻った。思いの外力が要る。力を込めた瞬間プシュリという音がして蓋が緩み、中の微細な泡が弾けた。
「わっ、わ、なにこれっ」
「あはは、フラン、炭酸飲んだことないんだね」
思い切って一口飲んでみると、口の中でしゅわしゅわと、無数の微細な泡が弾けた。味はあまり感じないけど、ほんのりと甘くて酸味が強いような気がした。
「どう?」
「なんだか、不思議な飲み物……おいしい、のかも……?」
「あははっ、『かも』ってなによ?そこは『おいしい』でいいのよ」
「そっか……うん、おいしい」
味はよくわからないけれど、ユリサが言うように「おいしい」と、そう思って飲めば本当においしく感じられてきた。
それよりも、ユリサの笑った顔があまりにも無邪気で可愛くて、綺麗で儚い雰囲気を纏った女の子だから、こんな風に笑うなんて想像できなかった。
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