04 : 月と蝶
肌に触れる体温が、髪から香る花の匂いが、小さな子どもみたいな嗚咽が、頭の中で繰り返し鮮明に再生される。
ユリサ──私の親友、だった女の子。
私たち、また会えるかな。
もしまた会えたなら、次は「またあなたと仲良くなりたい」って言いたい。
……なんて、ユリサのことを覚えていない上に、マザーボードへ一緒に行ってあげることも出来ない私には図々しい願いだろうか。
南倉庫から作業場まで、什器を抱えて全速力で走って戻ると、不機嫌そうな顔をしたデンジさんが直々に出迎えてくれた。
「シュガー、随分と遅かったじゃないか」
「すみません……っ!えっと、その……途中で少し身体が痛くなってしまって……それで、その……倉庫で少し休んでいたんです。本当に申し訳ありません……!」
ユリサのことを話すわけにはいかないと思った。関係者以外立ち入り禁止のこの工場内に他の人が入り込んでいたとなると、大きな問題に発展する。
声が震えてしまうのは叱られることへの恐怖からか、それとも嘘を吐くという慣れない行為への不安からか。
デンジさんは鋭い眼差しで私を射抜き、ひどく疲れた様子で地響きのような深い溜息を吐いた。
「シュガー……あとで話があるから、俺の所まで来なさい」
それだけ言うと、私の返事も待たずにくるりと背を向けて行ってしまった。
「あちゃー、アレは相当お怒りだね」
近くで作業をしながらちらちらと私たちの様子を伺っていた三木さんが小声でそう言った。
三木さんだけじゃない。藤原さんもDFさんも、その場にいた人達は聞いていない振りをしながら、みんな私たちの会話に耳を澄ましていたようだ。
「シュガー、生きて帰れよー」
「健闘を祈るぜ」
「ところでシュガー、身体痛いの?大丈夫?」
みんなの言う通り、私はデンジさんをかなり怒らせてしまったようだ。いつもならその場で二、三言怒鳴りつけて、その後に「次からは気を付けろよ!」と言って終わる。それが無いまま、呼び出しを食らった。
叱られることへの恐怖よりも、私を助けてくれたデンジさんに失望されることへの恐怖の方が遥かに大きい。
それに、身体が痛いだなんて嘘を吐いて、みんなにまで心配をかけてしまった。
ユリサのことを話すわけにはいかないが、もっと他にマシな嘘があったんじゃないか。私は本当に駄目だ。
「ご心配おかけしてすみません……身体は大丈夫です。ありがとうございます……」
出来るだけ明るい声を出そうとしたが、やっぱり震えて、少し掠れてしまった。上手く笑えた自信もない。
「それじゃあ私、デンジさんの所へ行ってきます」
泣き出しそうな感情をみんなに悟られないように、足早にその場を去った。
私たちの祖先──に当たるのだろうか。昔のロボットやアンドロイドは、感情を持たないことが当たり前だった。
時代が進むにつれ、人間たちの手によって、私たち人工知能の能力は飛躍的な発展を遂げた。
だが、頭脳は造ることが出来ても、感情となるとその何倍も難しい。不可能に近いと思われていた。
だが、その偉業を成し遂げた人間がいた。
コア──それは限りなく人間の感情に近く、コアを持つロボットは自分の意志で動くことができる。
だが、一人の人間によってコアが生み出された結果、人間とAIとの間で諍いが起こり、AI達はAIにとっての自由の国・マザーボードを天上に築き上げた──信じられない神話のような話だが、現に今、上空にマザーボードは存在している。
これは、工場のみんなから聞いた話だ。
私は時々、自分の感情がどこから来るものなのか不思議に思うことがある。
嬉しかったり、面白かったり、辛かったり、後悔したり……
なんだか、自分の感情が自分のものではないような、そんな風に思ってしまう時がある。
作業場を出て長い廊下をひたすら進み、突き当たりにある部屋が事務室だ。デンジさんは一人でここに籠って事務の仕事をしていることも多い。
私は一、二回しかこの部屋に入ったことがない。デンジさんは契約更新などの重要な話をする時には従業員をここに呼び出すが、それ以外の時は滅多に他の人を入れないらしい。
無機質な白いドアに取り付けられた曇りガラスから、部屋の明かりが漏れている。中でデンジさんが動いたような気がした。
不穏に波立つ心を落ち着け、私はドアをノックした。
「お疲れ様です。シュガーです」
「どうぞー」
中からデンジさんの声が返ってきた。ドアノブに手をかけると、ひんやりとした金属の感触が肌を伝播した。
ゆっくりとドアを開く。眼鏡をかけたデンジさんが奥の椅子に腰掛けて、真剣な表情で書類に目を落としていた。
部屋の中は、以前訪れた時と殆ど変わっていないように思えた。私にはとても理解できないような難しそうな本ばかりが並んだ本棚に、黒革のソファ。デンジさんが作業をする事務机が部屋の奥にある。他には、カレンダーや掛け時計があるくらいだ。
「あ、あのぅ……本日は申し訳ございませんでした」
デンジさんは鋭い視線を上げて私を見た。
「ああ。それは別にいいんだよ。それより、身体は大丈夫なのか?」
「あ、はい……全然、大丈夫です」
本当はどこも痛くなんてないのに。こんなひどい嘘しか思い付かない自分が情けない。
「本当か?こっちに来て、見せてみなさい」
デンジさんはそう言って椅子から腰を上げると、躙り寄るようにゆっくりとこちらへ歩み寄った。
その目はぎらぎらと血走っていて、ごくりと生唾を飲み込むような音が聞こえた。普段のデンジさんとは別人のような、悪魔にでも取り憑かれたかのような表情に強烈な悪寒が走った。
逃げなければ。だけど、そう思った時にはもう遅かった。
事前に計算され尽くしていたような、こちらが反応出来ないほど俊敏な動きでデンジさんは部屋の鍵を内側から閉めた。
迫る手から逃れようとドアノブを掴もうとした直後、手首を掴まれて、私は床に押し倒されていた。
生温かい、野生動物みたいに荒い呼吸が首筋に吹きかかる。恐ろしい目つきをした彼の顔が、すぐそこまで迫っていた。
「シュガー……ずっとこうしたいと思ってたんだ……なあ、いいだろう?俺はお前を助けてやったんだから……これくらいのことはしてもらわないとなぁ……?」
掴まれた手首は自由を失い、股間に太い足が押しつけられて身動きが取れない。左手首が解放されたと思ったら、今度は作業着のボタンが器用に外されていった。上着のボタンが全て外されると、その手は私の髪を掬い取り、においを嗅がれた。
「綺麗な金髪だな……最高だ……最高に綺麗だ……」
頭の中が真っ白になって、何も考えられない。きっと、私の頭がこの状況を理解することを受け付けないのだろう。
手も足も出ないとはこのことか。自分の力ではどうすることも出来ない状況に陥った時、人は絶望にその身を委ねる。アンドロイドだって同じだ。
真っ白な頭の中に、突然黒い塊が生じた。次の瞬間、その塊は弾け、得体の知れない黒いなにかがどろどろと流れ出し、全身に回っていく。
浮かび上がってきたのは、いつかの記憶。──いや、これは私の記憶だろうか。
迫りくる無数の手。私を汚す手。内側から私を壊そうとする。痛み。恐怖。絶望。それらの感情が生じる時、そこにはいつも人間がいた。
憎悪。器からこぼれ落ちるほどの──
一人では到底、抱え切れないほどの──
その時私は、私以外を一人残さず殺してやりたいって思ったの。
「い、い……い、やあぁあぁあぁああぁあ!!!!」
叫んだのと、外から窓ガラスが蹴破られるタイミングはほぼ同時だった。
きらめく破片を纏いながら、冷たい夜風に長い黒髪を靡かせて、彼女は私を一瞥した。とても恐ろしい目をしていた。彼女の背後に広がる虚空の夜には、幽霊のような黄金の満月が浮かんでいた。月なんて、ここからは見えるはずがないのに。
ユリサは躊躇なく、デンジさんの顔を蹴り飛ばした。鮮血が飛び散り、吹き飛ばされたデンジさんは壁に頭を強打してがくりと項垂れた。
「フラン!」
白い花弁のような掌が差し出され、縋るように私はその手を取った。今はこの華奢な手に縋っていたい。
泣きたくなるほど弱い自分が堪らなく嫌で、誰かを殺したいと思った自分はもっと嫌で、一刻も早く、醜い感情を忘れたかった。あの時、ほんの一瞬見えたあの悍ましい光景。あれは一体、何だったんだ。
ユリサに手を引かれるまま、私の身体は部屋をふわりと飛び出した。蝶のように、夜風に漂いながら何処までも飛んでいけそうな気がした。
何も見えない夜の闇の中、月へさえも昇って行けそうな、そんな予感に静かに胸を弾ませていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます