03 : ユリサ
暗闇に目が慣れてきて、徐々に周囲がはっきりと見えるようになってきた。
それでも未だにこの状況を理解できず、自分の尻尾を追いかける仔犬みたいに、思考は無駄な動きをぐるぐるとひたすら繰り返している。何が何だかわからない。
デンジさんに什器を取って来るよう頼まれて、工場の敷地内にある倉庫まで来てみると、知らない女の子がいた。
そして今、私はその子に抱きしめられている。
密接する華奢な身体は柔らかくて温かい。だけど、気のせいだろうか。ほんの一瞬、どこか固くて冷たいような感触が当たる。
私の顔のすぐそばにその女の子の小さな頭があって、花のようないい香りがする。柔らかい髪が頬に触れて、少しくすぐったい。
「やっと……やっと会えたね……」
この子はさっきそう言った。
そして、身体を小さく震わせながらずっと泣いている。
私とこの子は、どこかで会ったことがあるのだろうか。
「やっと会えたね」という言葉から推測するに、この子は私のことを捜していた?もしかしたら、以前の私はこの子にとって大切な存在だったのかもしれない。
だけど、何も思い出すことが出来ない。肌に触れる声や匂いはどこか懐かしいと感じるのに、分厚い壁に阻まれてでもいるかのように記憶が遮断されている。
それがもどかしくて、耳元で発せられる嗚咽が切なくて、なんだか私まで泣きたくなってくる。
私は、忘れてはいけないことを忘れてしまっているような気がする。
どれくらい時間が経っただろう。
その子は急に泣き止んで、顔を上げて私を真っ直ぐ見つめた。肩には微かな重みが残り、作業着は涙でしっとりと濡れている。
その子はとても綺麗な顔をしていた。白い肌やほんのりと赤い唇、胸のあたりまでの長さの黒髪、漆黒の瞳。暗がりの中にいても、その姿は不思議と鮮やかな色味を帯びて私の脳裏に描き出された。
泣き過ぎた所為か、二つの瞳は赤く腫れている。
「あの……あなたは……?」
私は覚えていなくとも、この子は私を知っている。私が忘れてしまっていると知ったら、傷つけてしまうのではないか。
愚かな私は、この言葉を口にした後でそのことに気が付いてはっとした。
一瞬、のように思えた。一瞬、世界中の時が止まったかのような静謐が訪れた。それは次の瞬間には、暗闇の中で蝶のように飛び去っていった。
泣き止んだはずのその子の目から一筋の雫が頬を伝い、闇の中へと沈んでいくのが見えた。
どうしよう。せっかく涙が止まったのに、私がまた泣かせてしまったんだ。私に会いたいと思ってくれていたのに、私はこの子のことを忘れてしまった。その上、無粋な言葉で深く傷付けてしまったようだ。私はなんて馬鹿なんだろう!
「あのっ、えっと……ご、ごめんなさい!わ、私……その……実は、ここに来るまでの記憶が無くって……あなたのことも、他のことも……何も思い出せないの!だから……覚えていなくて、本当にごめんなさい……!」
こういう時、どういう風にすれば謝罪の気持ちがよく伝わるのかわからなくて、私はその子がさっき私にしてくれたみたいに、彼女をつよく抱きしめた。
到底許せないことだろう。だけど、こうする以外にどうしたらいいのか、何も思い付かなかった。
少ししてから、背中に掌が重ねられた。温かくて優しい、綺麗な手。この子のことは覚えていないけれど、この手の感触は知っているような気がした。
「いいのよ、フラン。あなたが生きていて、こうしてまた会えただけでも私は凄く嬉しいの。フラン、本当に無事でよかった……」
フラン。それが以前の私の名前らしい。いつも夢の中で私のことを呼んでいたのは、この子だったんだ。
その子は私の身体から手を離し、また真っ直ぐに私を見つめながら言った。
「きっといつか思い出すわ。もし思い出せなかったとしても……また一から始めればいい。私はユリサ。あなたの親友」
ユリサ──親友──
金色の美しい記憶の糸が頭の中を掠めるのに、どうしても、どうしても思い出すには至らない。するりと私の身体をすり抜けていく。
以前の私には親友がいたんだ。それも、こんなに綺麗で優しい親友が。そのことがわかっただけでもう、夢みたいだ。
「ユリサ……」
その名前からは御伽噺の王国で暮らす王女様みたいな印象を受ける。この子にとてもよく似合う、可憐な響き。
そして、フラン──以前の私の名前。声には出さずにその名を口にすればするほど、自分によく馴染んでいくような気がする。
だけど、今の私の名前は「シュガー」だ。デンジさんが付けてくれた名前。私はこっちも気に入っている。
ユリサは私に手を差し出し、穏やかな微笑みを浮かべた。
「さあ、フラン。マザーボードに帰ろう。みんなあなたを待ってる」
「えっ、待って。マザーボードって……」
マザーボード──私たちが今いる世界、人間が暮らす世界の上空に浮かぶ、AI達の世界。
記憶を失くす前の私は、そこにいたというのか。
私はアンドロイドなのだし、普通に考えればそれは当たり前のことなのかもしれない。だけど……
「フラン、どうしたの?さあ、早く行きましょう」
マザーボードがどんな所なのか、ずっと気になっていた。それに、そこに行けば以前の記憶を取り戻すことが出来るかもしれない。私が何を成す為に造られて、今まで何をしていたのか。
何故、人間の世界の──それも山奥にある廃屋の中で一人倒れていたのか。
知りたいに決まっているし、このまま知らないで生きていくつもりもない。
だけど、私はまだ、ここでみんなと一緒にいたい。
私を助けてくれた上に、ここで働かせてくれたデンジさん。三木さん、藤原さん、DFさん……人間もAIも、みんなとても優しくて面白い。みんな大切な仲間だ。
視線を上げると、不安そうな眼差しをこちらに向けているユリサと目が合い、ちくりと胸が痛んだ。
「ごめんなさい……」
ユリサの表情がまた泣きそうになっていくのを見ていられなくて、狡い私はまた視線を逸らした。
「私、ここのみんなのことが好きなの。私、全然仕事できなくていつも失敗ばっかりなんだけど……みんな私のこと、仲間だって認めてくれてるんだ」
「そんなの!私の方がずっと前からあなたのこと……っ!」
ユリサが声を荒げた。その目には涙が浮かんでいる。
ユリサ、ごめん。ごめんね。ずっと私を捜してくれていたのに、一緒に行ってあげられなくて。だけど、私はここの仲間たちのことも好きなんだ。それに何故だかわからないけど……マザーボードに行くのは、少し怖い。
「本当にごめんなさい。でも、来てくれて嬉しかった。こんな私にも親友がいたんだって。あなたみたいな素敵な子に、こんなにも大事に思ってもらえていて。だから……」
ユリサの表情がまた崩れていく。駄目だ。せっかく会えたんだからもう少し一緒にいたいけど、今の私は何を言っても、きっと彼女を傷付けてしまうだけだ。
「ごめんなさい……っ!また何処かで!」
私はそれだけ言うと、ユリサの顔さえ碌に見ないまま倉庫を飛び出した。
いつの間にか、外は真っ暗になっていた。
作業場まで戻る途中、肝心の什器を忘れてしまっていたことに気が付き、急いで倉庫まで戻った。作業場と倉庫はそれほど離れていないのに、どう考えても時間がかかり過ぎだ。デンジさんに叱られる未来は目に見えている。
再び倉庫の扉を開けた時、中にユリサの姿はなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます