特別

 ──これまで力が入らなかったのが嘘みたい。


 千早は布団を片付け、押し入れに仕舞う。徐々に回復している様子はあったものの、このように身体を動かすことまではできなかった。部屋を出てトイレへ行くことすら息切れを起こしていたほど。

 そんな状態だったはずなのだが、こうして普段通り動けるようになったのだから驚きしかない。

 しかし、それがあのキスのおかげとは。

 昨日のことを思い出してしまい、千早は顔を赤く染める。声にならない声を出して座り込み、頭を抱え込んだ。

 恋人はもちろん、初恋すらまだない。まさか、いろいろとすっ飛ばしてキスを先に経験するとは思っていなかった。天羽々斬本人は千早が回復したことに喜んでいたものの、キスについては何も言ってこない。

 返せとは言わない。言わないが、せめて何か一言ないのか。


「……わたしのファーストキス、なのに」

「千早、そこで蹲ってどうした? 腹でも下したか?」

「わぁ!?」


 突然聞こえてきた声に驚いた千早は、腰を抜かして後ろに倒れた。入り口には天羽々斬が立っており、訝しげな目でこちらを見ている。

 再び、昨日のキスを思い出してしまう。慌てて顔を逸らした。

 平然としている天羽々斬に悔しい気持ちを抱きつつも、それ以上に恥ずかしさが込み上げてくる。とにかく顔が熱い。身体中の熱が顔に集中しているのではないかと思ってしまうほどだ。

 すると、目の前で誰かが座り込むような気配がした。もしかして、と千早が横目を向ける前に、顔が手で包み込まれ、強引に振り向かされる。


「顔が赤い。熱でもあるのか? どれ……」

「……っ!」


 千早の前髪が天羽々斬の手によって上げられ、額が露わになった。そこに、天羽々斬は自身の額を合わせる。

 あまりにも手慣れたスマートな動きに、すぐ目の前にある綺麗すぎる天羽々斬の顔。千早は小さな声で「はわ……」とよくわからない声をあげることしかできなかった。

 数十秒後、天羽々斬は千早の額から自身の額を離した。ぷは、と千早は無意識に止めていた息を吐き出し、肩で呼吸をする。


「熱はないな。具合はどうだ?」

「だ、大丈夫です」

「昨日の今日だ。念のため、接吻でもしておくか」


 だから何でそうなると、顔を近づけてくる天羽々斬の口を両手で塞ぐ。だが、止められたのもほんの一瞬。天羽々斬の手が千早の手を離してしまう。ムッとしたような表情で更に顔を近づけてくるため、距離を取ろうと顎を引いた。


「何をしている?」

「は……恥ずかしいんです」

「これは千早を回復させるためのものだ」


 それは千早にだってわかっている。されど、そう簡単には割り切れない。

 キスという行為はやはりで、想いが通じ合っている者同士がするものだと千早は考えている。千早と天羽々斬は、そうではない。

 考えていると、段々と気分が落ち込んでくる。手からは力を抜き、顔は畳に向けた。

 何をこんなにも落ち込むことがあるのか。そう思いつつも、気分は下へ下へと落ちていく。すると、千早の手がゆっくりと下ろされた。膝の上に置かれると、ぎゅっと手を握り締められる。

 おずおずと顔を上げると、悲しげに表情を曇らせる天羽々斬がこちらを見ていた。


「すまない。接吻という行為について理解していたつもりだったが、千早の気持ちを理解できていなかった」

「違うんです、何というか、その……キスというのは特別というか。単純に、わたしが慣れていないっていうのもあるんですけど」


 うまく言葉が出てこない。落ち込んだ理由も、天羽々斬に何を言いたいのかも、頭ではわかっている。わかっているのに、言葉にしようとするとモヤモヤとしたものが喉につっかえてしまって邪魔をされる。まさしくそんな気分だ。

 もう、このまま呑み込んでしまえば。

 何も考えずに、キスをすれば──。


「そうだな、特別なものだ」


 暗い思考を消し去るかのような天羽々斬の凜とした声に、千早は目を見開く。

 それはどういう意味で言ったのだろうか。首を傾げていると、天羽々斬は小さく笑って頭を撫でてきた。その手は優しく、あたたかい。


「回復させる目的は確かにあるが、千早が辛そうにしているとそれを取り払ってやりたくなる。何故なら、私にとって千早が特別だからだ」

「……それは、ご先祖様の力を継いでいるから?」

「違う。


 これもまたどういう意味なのだろうか。口をぽかんと開けたままにしていると、天羽々斬は朗らかな笑い声を上げて頭をポンポンと優しく叩いてきた。


「とにかく、むやみやたらに接吻を迫っているわけではないし、何も想っていないわけではない。そこは信じてもらえないだろうか」

「……はい」

「ついでだ、これも話しておこう。千早が目を覚ましたとき、私は手を握っていたのだが、覚えているだろうか?」


 もちろんだ。千早は小さく頷いた。


「手を握っていたのは、私の力で千早の回復力を底上げするためだ。それでも、千早が目覚めるまで丸一日かかってしまった。接吻であれほどの効果が出たのは、直接力を流し込めたからだと考えている」


 では、もしも天羽々斬が手を握ってくれていなければ。

 そう考えると、ぞっとする。

 力の回復が遅れ、目覚めるのにもっと時間を要したかもしれない。いや、夢の中で闇に囚われ、二度と目覚めることができなかった可能性もある。


「……わたし、何も知りませんでした。何も、わかっていませんでした」


 天羽々斬は千早のことを考えて行動してくれていた。それがわかった今、自分のことばかりで頭がいっぱいだったのが恥ずかしい。


「ならば、これから知っていけばいい。私だって、千早について知らないことがある。もっと話そう」


 そう言って目を細めて笑う天羽々斬に、千早も笑顔を浮かべて頷いた。

 心が軽くなったように思える。キスについても、まだ緊張はするだろうが何とかなるような気もしてきた。

 カタン、と窓が音を鳴らした。二人がほぼ同時に振り返ると、鮮やかな緑色の葉が一枚、窓にくっついている。今日は少し風が強いらしく、木々が同じ方向に傾いていた。風で窓が揺れ、葉が飛ばされてここへやってきたのだろう。


 ──そういえば、ここは天羽々斬様の柄を置いていた部屋だ……。


 どうして自室ではなくここで眠っていたのだろうか。再び天羽々斬を見ると、彼は今もまだ窓の外の景色を眺めていた。

 そう、晴天であればここから見える景色は本当に綺麗なのだ。

 もしかすると、千早がここで眠っていたのは天羽々斬の柄をこの部屋に置いた理由と同じなのかもしれない。


 ──あ、名前。……いろは、とかどうかな。


 色とりどりの景色。そして、いろは歌。

 いろは歌は、仮名文字を覚えるためのもの。千早は天羽々斬のことを知らない。知らなければならない。覚えるとはまた意味は異なるが、そこに近しいものがあるような気がした。

 もう少し考えてみて、他に何も思い浮かばなければ。一度、天羽々斬に訊いてみる必要がある。

 その瞬間が訪れるのは恥ずかしさから緊張もあるが、どこか楽しみでもある千早だった。

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