99+1
すっかり忘れていたそれは、気が緩みきった私の目を覚まさせるように、唐突にやってきた。
「ねえ、一透ちゃん」
「なあに、結季ちゃん」
「約束、覚えてる?」
約束、と言われて思い浮かぶものは特になかった。最近交わしたものであるなら覚えているはずだ。修学旅行より前の約束だろうか。
一番余裕のない時期だったため覚えてないのかもしれない。そう思って、素直に聞き返す。
「ごめん、なんだっけ」
これが悪手だった。一瞬そう思ったけれど、改めて考えれば、別にここはどう返事をしても変わらなかっただろう。
なぜなら、退路は既に絶たれていたから。過去の自分によって。
「ほんとはね? 修学旅行でお願いしたかったんだけど、わたし我慢したんだよ? 一透ちゃん大変そうだったから」
「ごめん。何のことか分からないけど、今からでもいいなら私、頑張るよ」
「ほんと?」
「うん。まかせて」
むん、と張った胸に手を当てる。どんとこいのポーズ。
なんの要件かも分からないまま、無防備に引き受けるものではなかった。
「じゃあ、夏休みに話したモデルの件、今日の放課後にお願いしていい?」
時間が止まった。
−−−
放課後。結季ちゃんに導かれ、連れてこられたのは美術準備室。
美術室では美術部が活動中で落ち着かないだろうから、と準備室の方に通された。
「…………」
なんで俺まで、という内心が顔にそのまま出ている九十九くんと一緒に。
「備品だらけで背景がゴチャついちゃうと面倒臭いから、窓をバックに座って貰って良い? そこの長椅子でいいから」
これも備品なのだろうか。結季ちゃんに指示されるまま、座面が革張りの長椅子に腰掛ける。
「ニノマエくんも、はやく」
「……俺いらないだろ」
「いるから呼んでるの。はやく」
結季ちゃんに急かされ、不承不承といった様子で隣に腰掛ける九十九くん。
流石に前ほどではないけれど、九十九くんが近くに来ると、未だに少しドキリとしてしまう。
それが分かっていて、なのだろう。結季ちゃんは容赦なく畳み掛ける。
「二人ともちょっと遠いよ。もっと近く」
有無を言わさぬ迫力を纏った指示に気圧されるように、少しだけにじり寄る。
「もっと」
……もう少しだけ、寄る。
「もっと」
はぁ、と小さな溜め息が横から聞こえた。かと思うと、いきなり肩が触れるような距離まで九十九くんが寄ってくる。
どうせこうなるなら抵抗するのも不毛だろう、と考えたのだろうけど、違うの。心の準備が。
ビクリと震え上がるように反応してしまった私を見透かして、尚も結季ちゃんは容赦をしない。
「もっと」
「これ以上おもちゃにする気なら帰るぞ」
譲歩できるのはここまでだ、と暗に伝える九十九くんに、今度は結季ちゃんの方が折れた。
かすかに舌打ちが聞こえたような気がするのは気のせいということにしておこう。
−−−
会話のない静かな室内に、サラサラと鉛筆を走らせる音がかすかに転がる。
窓を背にした私達に向かって、スケッチブックへ書き込みを続ける結季ちゃん。真剣な表情が西日に照らされる。
逆光で見えづらくないのだろうか、という心配はすぐに霧散した。彼女の眼差しは、しっかりと私達を捉えている。
先程まではどこか面白がっていた事もあって、ふわふわと明るい暖色を発していた結季ちゃんの心は、もうすっかり落ち着いていた。
修学旅行の最終日。あの丘の上の東屋で消えてしまったと思っていた私の〝感覚〟が消えてなどいなかった事に気がついたのは、迎えに来た担任の三枝先生から発せられる、怒り心頭のオーラを感じ取った時だった。
隣に視線をそっと向ける。どれほど目を凝らしても、耳を澄ませても。やはり九十九くんの心は感じ取れない。もう、靄ですらも。
感じ取れなくなったのは、彼限定のことらしかった。
それでも、他の人の感情にだって、もう大袈裟に揺さぶられることはなくなったように思う。
どこか以前より薄くなったように感じられるのも、きっと気のせいじゃない。
いつか、九十九くん以外の人にも必要ないと思える日が来たら。その時こそ、完全に消えてしまうのだろう。
それでいいと思っていた。今でも悪いとは思っていない。それはきっと、私の成長だ。
だけど、目の前にある結季ちゃんの感情が、真剣に、真摯に絵に向き合うその熱を持った深い蒼が。少しだけ、勿体ないと思わせてくる。
もう少し。もう少しだけ、眺めていたい。いつか消えるその日まで。
願わくば。いつか来るその日も、君がこうして隣に居てくれたら――。
まるで、そう願ったのが見透かされたように。
そっと。私の右手に、彼の左手が触れた。飛び上がりそうな私の驚きを抑え込むように、優しく彼の小指が、私の小指に乗る。
ほら。さみしいけれど、大丈夫。見えてなくても、応えてくれる。見えなくなっても、応えられる。
私も彼と同じくらいに柔らかな力で、彼の小指に、私の小指を絡めた。
−−−
「すごい……!」
出来たよ、と見せてくれたスケッチを掲げながら感嘆の声を漏らす。
差し込む夕日の眩さの影で、ふんわりとぼかされた表情がなんとも言い難い。
モデルが自分なので、本当に、いろんな意味でなんとも言及し難い。こんな表情をしていたのだろうか。鮮明に描かれなくてよかった。
そして、より深い影でぼやかされているけれど、あの瞬間、確かに結季ちゃんの心も和らいだのを私は見過ごさなかった。
絵の中の私達もこの影の中で、しっかりと小指を繋いでいるのだろう。これもわざわざ言及はしない。恥ずかしいので。
「写真撮っていい?」
「もちろん。……ニノマエくんも撮れば?」
「……いい」
「素直に撮ればいいのに」
「いいの。九十九くんには私から送るから」
ぱしゃり、とスマホでそのスケッチを撮影して、有無を言わさず九十九くんにも送る。
本当は原画をそのまま譲って欲しい。なんならお金を出すから買わせて欲しい。そして額に入れて部屋に飾りたい。
でもそうすると親に見つかった時の言い訳に困るし、それに、このスケッチは結季ちゃんのスケッチブックの中にあって欲しい、という気持ちもある。
仕方なく写真で我慢することにした。
「結季ちゃん、この絵のタイトルは?」
「夕焼けバカップル」
「それだけはやめて」
私が必死に懇願すると、結季ちゃんは「冗談だよ」と笑ったけれど、最後まで本当のタイトルは教えてくれなかった。
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