第129話 引いたり押したり

 十一月。まだ初旬とは言え、冬の気配が迫ってきているこの頃、早朝の空港は冷えた空気に包まれている。


 だというのに、修学旅行を目前にした生徒たちの顔は期待に満ちて上気していた。


「静かになさい。他の方の迷惑になるわ」


 決して大きくはないが、よく通る声で注意を促す一条さんの傍ら。


 私は指を伸ばして九十九くんを突く。彼に触れた瞬間驚いたように引っ込めてしまうが、またそろそろと指を伸ばし、触れ、引っ込める。


 何度もそれを繰り返しながら訓練を行う。九十九くんはされるがままだ。段々ちょっと楽しくなってきて、二連続で突いてみたり、リズムを刻んでみたりする。


「大丈夫か」


「えぁっ、な、何が」


 急に話しかけられて声が裏返ってしまった。恥ずかしい。突くのをやめて聞き返す。


「人混み」


 学年ひとつ分の生徒が丸々、数にして二百人以上が心を弾ませながら整列していて、私はその中にいるけれど、そういえばあまり気にならない。


「うん。大丈夫」


 心配してくれた。やっぱり彼は優しい。そんなこと、これまで何度も思ったことなのに、これまでとはまるで違う熱が声に乗る。


 だけど、九十九くんは全く顔色を変えず、何の反応も示さない。最近の私の様子を見た結季ちゃんには分かりやすいと言われたのだけど、彼には全く伝わっていないのだろうか。


「荷物は」


 脈絡が掴めないのは、考え事のせいではないはずだ。何だろう。私の荷物、何かおかしいだろうか。


「忘れ物とか、機内に持ち込めないものとか」


「先生みたいな心配しなくても、大丈夫だよ」


 何かと思えばそんなことか。最近浮かれていることくらい自覚している。


 忘れ物のチェックも念入りに行ったし、機内に持ち込めない刃物などの危険物は、修学旅行のしおりに書かれたリストを見ながら過剰なくらい排除した。


 そこまで心配してくれなくても、自分のことくらい自分でできる。あれ、でも、何だか今久しぶりに自然に話せた気がする。


 嬉しくてまた九十九くんの手をつつき始める。何をやってるのよ、と言いたげな冷ややかな目で一条さんに見られたけれど、列を乱すほど動かないし、声も出していないので咎められはしなかった。






 大人数で行動しているから、というのもあるけれど、存外搭乗するまで時間がかかるものだった。クラスごとに順番での移動、検査。


 列に並んでいて移動できないタイミングもあったけれど、搭乗前に飲み物などを買える時間もあって、そういう時は自由に動けるので、結季ちゃんや真咲ちゃんと一緒にいた。


 九十九くんから逃げ出したためでもある。小休止だ。しかし、搭乗時には九十九くんに張り付いていたため、席が隣になる。するとどうなるか。


 約三時間、九十九くんから離れることが出来ず、逃げられない状況になるのである。


 しかも、席は一番窓側。やった、景色が見える、なんて喜んだのも束の間、逃げ場を封じられたことに気がついた私の慌てようと言ったらなかった。


 まだ搭乗時間でゲートすら閉じていないというのに、早々に備え付けのイヤホンを開封し席につなぐ。流れるのは案内メッセージ。


 何度かチャンネル切り替えボタンを押すものの変わらないので、離陸するまでは変わらないのだろうと思っていたら、連打していたのは乗務員呼び出しボタンだったらしい。


 何かあったのかと確認に来るキャビンアテンダントさん。対応に迫られる通路側の一条さん。九十九くんに肩を叩かれて飛び退く私。ようやく事態を把握して平謝り。


「すみません、押し間違えました」


「大事ないようで何よりです。離陸まで今しばらくお待ち下さいね」


 局所的に小さいながらパニックを起こしてしまったけれど、キャビンアテンダントさんの対応が優しくてよかった。


 一条さんは怒っていたけれど、私が羞恥に顔を赤くして頭を下げることしか出来ないでいると、ささやかな小言で許してくれた。が。


「気にしすぎるな」


 九十九くんが私の頭に手を乗せると、また驚いて飛び退き、窓に激突した私に今度こそ一条さんの雷が落ちた。


「いい加減にしなさい! 落ち着いて座っていられないなら九十九を外に放り出すわよ!」


「おい」


 人見を放りだしてもあなた代わろうとするでしょう、とか席を変えれば済むだろう、とか二人が話す傍らで、私は動かず地蔵になることを決めた。



−−−



 機首に向かって左の、席が三つ並んだブロック。そこに窓側から私、九十九くん、一条さんの順に並んで座り、大人しく離陸を待つ。


 しかし、私の決心などさして長続きしないのはもう散々証明されてきたことであって。


 後ろの席の結季ちゃんから差し出されたお菓子を食べたり、離陸時にちょっと怯える一条さんを安心させたり、どんどん遠ざかる大地に興奮したりしていたら、先程の決意はすっかりどこかに行ってしまった。


「九十九くん、海。海見えてきたよ」


「そうか」


「九十九くんも見て。ほら、こっち……やっぱり来ないで」


「それは流石にあんまりじゃないかしら……」


 九十九くんを押し退けた先から憐憫の籠もった声が聞こえてくる。


 私も申し訳ないと思うけれど、ただでさえ席の距離が近いのに、このまま二時間以上は過ごさなければならないのだ。刺激が強いのは困る。


「仕方ないわね。人見が困ってるからもうちょっとこっち寄ってあげなさい」


「さほど変わらないだろ」


 そう言いつつ、一条さんに引き寄せられて九十九くんが少し遠ざかり、その代わり、一条さんとの距離が狭まる。


 自分で遠ざけておいてなんだけど、ちょっと羨ましいな。なんて見つめていたら、一条さんと目が合った。


 あの目は見たことがある。クリスマス、ダブルデートの時に冬紗先輩もしていた。あれにはいろんな意味が含まれていたけれど、そのうちの一つ。私をけしかけているのだ。


「狭いでしょ。大丈夫だから」


 一条さんの視線に応えるように、私も引き寄せ返す。だけど、袖を摘んで引っ張るのが精一杯だったのでピクリともしない。


「無理するな」


「無理じゃないよ」


 私がそう言うと、九十九くんの方から少し寄ってきてくれて、肩が触れる。


「やっぱりごめん」


「ちょっと、押しすぎよ」


「お手洗い行かせて」


 ほんの一瞬前まで、微笑ましそうにくすくす笑っていた一条さんの抗議を聞き流し、トイレに逃げ込む。危なかった。また暴れ出してしまうところだった。


 十分に頭を冷やしてから席に戻る。


「ただいま……二人とも、なんで席を入れ替えてるの?」


 二人揃って目を逸らす。看過できるのはここまでということだろう。ちょっと寂しいけれど、隣が一条さんになってようやく落ち着けた。


 二時間ほど後、沖縄のエメラルドグリーンに輝く海が見えてきた時、私の方に身を乗り出してキラキラ輝く瞳で窓を覗く一条さんを特等席で見れたので、これはこれで役得かもしれない。

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