第115話 まだ、今日だから
滑る音が聞こえてきて、彼の姿が見える。そのまま、すぱん、と小気味いい音を立てて、彼はプールに沈んだ。
飛び込みだと飛沫が少ない方がいいんじゃなかっただろうかと、真咲ちゃんが言っていた。それなら九十九くんは高得点を取れるだろう。飛び込みじゃないけれど。
すう、と静かに浮いてきて、滑るようにこちらに泳いでくる。
叫んだりしないのは予想通りだったけれど、あまりにも音がスマートすぎる。あの着水はどうやっているのだろう。
「なんだ」
「ううん。忍者みたいだなって」
私は不思議そうな顔をしていたのだろう。聞かれたので思ったままを答えたら、今度は九十九くんが不思議そうな顔をした。
「それより、もう一回いこ。今度は九十九くんが先に滑って、私を待っててね」
「どっちが先でも変わらないだろ」
「変わるよ」
滑り終わったあとに君が待っていてくれる事を思って、勢いよく飛び込んでいくのと。先に滑って、私を見つけて近寄ってきてくれる君を迎えるのと。それぞれに違う良さがある。
何度か繰り返せば分かってくれるかな。分かってくれるといいな。そう願いながら、何周もした。
九十九くんも、こういうのは好きらしい。絶叫マシンとかも好きなタイプだと思う。何度私がもう一回と言っても付き合ってくれた。
私は、滑るのも、滑り終わったあと彼に駆け寄っていくのも、滑ってくる彼を迎えるのも好きだったけれど、一番好きなのは彼の手を握って、並んで順番を待っている時間だった。
−−−
滑るのに疲れてきたら、ちょっと遅くなってしまったけどお昼にする。
前に来た時はお昼すぎから遊び始めたからソフトクリームしか食べなかったけど、早く来てよかった。こういう所には、こういう所でしか食べられない味がある。
「どうして、こういうところのラーメンって変に塩っぱいんだろうね」
「知らん。それより」
「九十九くんも食べたい?」
「いらん。多い」
私の前にはラーメン。九十九くんの前には、カレーとたこ焼きとアメリカンドッグ。取り敢えずいろいろ買って置いてみたけど、育ち盛りだからまだ足りないだろうか。
「焼きそばも買ってくる?」
「話聞いてるか?」
ふざけ過ぎただろうか。そろそろ怒られそうなのでこの辺にしておこう。
これだけ食べさせれば、少しは肉がつくかな。体育もあるから最低限の運動はしているはずだし。
食べ始めたのは同時だけど、量の差がある分、ゆっくり食べても私の方がはるかに早く食べ終わってしまう。
「一個ちょうだい」
返事も聞かず、たこ焼きを一つ、ぱくり。たこ焼きも何だかチープな味がする。それがまたいいのだけど、家で作ってもこうはならないのに、何でだろう。具の量かな。
「ゆっくり食べてていいからね」
たこ焼きを飲み込んでから席を立ち、食いしん坊を見るような目をした九十九くんに一言声をかけてから、器や箸を片付ける。全て使い捨てなので、ゴミ箱に捨てるだけだ。
それから、ロッカーまで戻り、荷物を一つ取り出してから戻る。前の時にあったらいいなと思ったので、わざわざ用意したもの。
「用意がいいな」
私が持ってきたものを見て、九十九くんはアメリカンドッグを齧りながらそう言った。
「次行くとこには、あった方がいいでしょ?」
少し大きめの浮き輪。二人で入れるほど大きくはないけれど、外からも掴まれるくらいの大きさはある。
大きいから膨らませるのはちょっと大変だけど、九十九くんが食べ終わって、動き出すまでには出来るだろう。
そう思っていたら、九十九くんは残りの食べ物をすぐに綺麗に平らげて、片付けを始めてしまう。
まあ、食べ終わってすぐには泳ぎに行かないだろうと、そう思っていたのに、
「手伝う」
そう言われた。そのためにわざわざ急いでくれたらしい。観念してお願いしようかな。そう思って、口を離して、気づく。
「……いい」
「一人でそれはきついだろ」
「いい」
取られないように抱きしめながら、急いで膨らませる。飲み物の回し飲みくらいなら気にしないけど、同じ空気栓を咥えるとなると流石にちょっと、無理です。
私達が移動し始めたのは、浮き輪を膨らませ終えて、私が酸欠から回復するまで、たっぷり休憩した後のことだった。
−−−
浮き輪に身を任せ、流水プールに浮く。直ぐ側で九十九くんが所在なさげに漂っているので、浮き輪の紐を渡す。紐付きを買ってよかった。
「はい、九十九くん」
「なんだ」
紐をしっかり握ってくれたのを確認し、深く頷く。うん。準備完了。
「出発、ツクモ号」
「おい」
私が前方を指差すと、九十九くんは突っ込みの声とともに、一瞬何かを言いたそうな顔をしたけれど、小さなため息で流してくれて、牽引を始めてくれる。
快適快適。他の人にぶつからないようコースを調整しながら引っ張ってくれる九十九くんと二人、流水プールをぐるぐると漂う。
快適、なのにな。浮いて漂うだけで体力も使わなくて、水は冷たくて、日差しは暖かくて。
なのに、眼の前の九十九くんの背中が、冬紗先輩の下へ駆け出したときと同じに見えるはずの背中が、あの日より遠くて。
落ち着かなくなってしまって、思わず九十九くんの背中に飛びついた。
後ろから腕を回して彼の胴に抱きつこうとすると、彼と私の間に浮き輪が挟まる。
邪魔だな。邪魔だけど、これがなくなったら、今日だけでは我慢できなくなってしまう気がする。
「なんだ」
これも、ずるい。今日だけでも何度か聞いた言葉なのに、そのどれよりも優しい温度を持った声で聞いてくるから、思わず余計に腕に力がこもってしまう。
「落ち着く?」
クリスマスの夜。君はそう言ってくれた。私が側にいると落ち着くって。
でも、君を掴む私の手に触れようとしない、君の手が。強張る身体が。答えを教えてくれる。口で返事をしてくれなくても、伝わってきてしまう。
「あの日から君は、そうじゃなくなっちゃったんだね。九十九くん。私、側に居ない方がいい?」
「そんな訳は無い」
強い声。背中側でよかった。目を見てしまったら、揺らいでいたかも知れない。
「お前が俺の手を引いてくれるから、助かってる」
「でも君は、笑ってくれなくなった」
……黙らないでよ。そんなことないって、言ってよ。君は本当に、人に不誠実な嘘はつけないんだね。
「私がくっつくの、嫌ですか?」
震えるな、声。違うって、嫌じゃないって、彼にそう言わせるような声を出すな。
「嫌じゃない。……悪い。応え方がまだ、見つからないだけだ。お前が悪いわけじゃない」
それでも。それでも私は、二人の問題にして欲しかったのに。
「私、明日から少し、距離を置くね」
「おい」
「自分の問題だからって、私を遠ざけたのは九十九くんでしょ」
こんな風に言うつもりじゃなかったのに。思わず飛び出した言葉は棘を纏って、二人を傷つける。真咲ちゃんも、こんな気持ちだったのかな。
「もう関わらない、って訳じゃないよ。九十九くんが苦しそうだから、少し、距離を空けるだけ。それでも私、ちゃんと九十九くんのこと、見てるから」
ああ、言い訳臭いな。一条さんや冬紗先輩に言われたことを、ほとんどそのまま口にしているから。
「だから九十九くんも、他にも友達を作って。私じゃなくても、応えてくれる人はいるはずだから。頼れる人を頼って、甘えられる人に甘えて」
だけど最後だけ、嘘にするつもりのない本心からの願いだよ。私以外の全部で君が完結してしまったら、きっと嘘になってしまうから。
だからこそ、本当になって欲しくて、言うんだよ。
「私も、居なくなったりは、しないから」
たっぷり時間をあけて、力なく、君は呟いた。
「まだ、いいのか」
やっと、そっと、君のお腹に回した私の手に、君が触れる。
「まだ、今日だから」
私は、その手を握りながら。ここはプールで、すでにびしょ濡れだから、涙が紛れてくれてよかったなんて、そんなことを考えた。
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