第49話 心の形

「ニノマエ……!」


「泣けばいいだなんて、思ってないだろ」


 彼の様子はいつもと違った。彼は、怒っていた。


「自分だけが辛いなんて、思ってないだろ」


 それが、


「じゃあなんなんだよ!」


「お前を想って泣いてるんだろうが」


 靄ではなくなって、初めて見えた彼の怒りは、大野さんと同じように、自分自身に向いていた。


「誰よりお前を想うから、溢れた思いが涙になって流れてるんだろ」


 その通りだった。小川さんも、大野さんも。私も。


 初めて見た彼の心は、自分自身を刺しながら、それでも相手をちゃんと見ていた。渦巻く怒りや悲しみが自分を傷つけるその中心に、変わらず他者への思いやりがあった。


「ならなんで! 何も言ってくれねえんだよ!」


「言い訳がしたいわけじゃないからだ。泣いてる理由でも、自分が苦しいことを正当化する言葉でもなくて、お前が苦しまなくて済む言葉を探しているからだ」


 他の人には、九十九くんが小川さんを庇って、小川さんに酷いことを言う大野さんを追い詰めているように見えるのだろうか。


 だけど私には、彼が放った一つ一つの言葉が、大野さんが知りたかった答えなんだと分かった。彼が話すたびに、少しずつだけど、大野さんの心が軽くなるのが見えた。


 言葉は厳しいけれど、私には彼が悲鳴を上げているように見えた。


 どうか、傷つかないで。苦しまないで。誰の思いも踏みにじられないで。報われてほしい。


 一つ一つ、そう願いながら放っているように見えた。こんな言い方でしか伝えられない、自分を責めながら。


「だから、そんな心にもない言葉じゃなくて、お前が本当に欲しかった言葉が何なのかを言えよ」


 一歩ずつ、大野さんに歩み寄る九十九くんが、突然横に吹き飛んだ。大きな音を立てて机とぶつかる。


 小川さんが九十九くんを突き飛ばしたのだ。


 やっぱり、彼女には九十九くんが大野さんを追い詰めているように見えていたのだろう。そうじゃないのに、どう伝えたらいいか、分からない。


「小川さ――」


「好き勝手なことを言わないでよ!」


 呼びかける声は遮られてしまった。私はそれでも諦めず彼女の名前を呼びながら止めようとするが、まるで意に介する様子がなく、止まらない。


「どれだけ大野ちゃんが頑張ってきたと思ってるの! あんたなんか口だけ挟んで何もしなかったくせに! ズレた予算の調整も! お金を使わずに周りの人に協力してもらって解決するのも! 全部大野ちゃんがやったのに!」


「それで?」


「……っ! どれだけ大野ちゃんが皆のことを考えてきたか知らないくせに! 影で悪口言われても! 悪者にされても! 成功させて皆に喜んでもらうんだって、皆のことを想って頑張ってきたの!」


「……それだけか?」


「わたしが泣き虫なのも! 大野ちゃんに何もしてあげられなかった弱虫なのも! 全部本当のことなんだから! どうでもいいの! わたしのことなんて、どうだっていいから!」


 心を剥き出しにして、小川さんは叫んだ。


「わたしじゃなくて、大野ちゃんを助けてよばかあ!」


「言いたいことは、それで全部か」


「……大野ちゃんは、頑張ってるんだから……」


「ああ。小川ほどじゃないけど、俺も知ってる」


 私は、叫び疲れてへたり込む小川さんを支えながら、眼の前の光景をどう処理したらいいのか、分からずにいた。


 小川さんに突き飛ばされた九十九くんの心には、起き上がって、小川さんの言葉を受けるときにはもう、さっきまであったものは何もなかった。


 自身を傷つける、冷たく仄暗い自責の渦も。眼の前の相手が救われることを願う、温かな優しさも。


 ただそこには、透明な箱があった。


 小川さんが彼に感情をぶつける度に、彼はそこから大野さんへの想いを選り分けて、透明な箱に仕舞っていた。


 今、箱の中には小川さんから大野さんへ向けた大切な想いの塊がある。


 どうやってそれをしたのかは分からなかったけど、受け取ったものをどうするのかは、分かる気がした。


「お前は?」


 彼の瞳が、私を射抜く。


「伝えたいことは、口にした方がいい」


「私、は」


 私は、いの一番に駆けつけておいて、何も言えなかった。また間違えた。そう思った途端、何も言えなくなった。言葉を失った。


 大野さんが自分で自分を苦しめ続けるのも、小川さんがそれを見て悲しむのも、分かっていたのに止められなかった。


 何も出来なかった。何も出来なかったくせに、今更何を言えばいいのか分からない。どんな言葉が正解なのか、分からない。


「私、体育祭のときに三人で撮った写真、プリントして机に飾ってあるの」


 分からないのに。また間違えているかもしれないのに。それを聞いた大野さんがどう思うかも、その結果どうなるかもまるで考えず、関係ないみたいに。


 私の思いは勝手に溢れ出していった。


「文化祭でもまた、三人で、あんな写真が撮りたいよ」


 私の声は、嗚咽混じりで掠れていて、小川さんも大野さんも、ボロボロで。だけど、あの時私が倒れたあとでも、写真の中の私達は幸せな顔で、笑っていた。


 だからきっと、また。


 気づくと、九十九くんの透明な箱の中に、もう一つ、塊があった。


 この〝感覚〟が身についてから一度も、自分の心は感じ取れなかったのに。鏡にだって映らなかったのに。


 私は生まれて初めて、自分の心の形を知った。


「ああ。そうだな」


 彼はそれだけ言って、大野さんに向き合った。


「大野」


 私にこれまでたくさん、してくれたみたいに。

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