第46話 彼の手

「おい」


 声をかけられて、びくりと震えてしまう。


「大丈夫か」


 九十九くんだ。手には、領収書をまとめていた封筒。整理が終わったのだろうか。


 こちらはまだ終わっていない。また思考がトリップしてしまっていた。まずい。早く終わらせなければ。


「ごめん。すぐやるね」


 伸ばした手を掴まれる。驚いて九十九くんの方を見る。見てしまった。目が、合ってしまった。もう誤魔化せない。


「大丈夫か」


 室内であるはずなのに、六月の照りつける太陽の熱を感じた気がした。


 九十九くんが、あの時と同じ目をしていたからだろうか。


「……ごめんね」


 絞り出した声は掠れていて、今にも泣き出してしまいそうなのがばればれだった。


「大野、まだかかりそうか」


「ちょっと待て、すぐ終わる。」


「その前に保健室に連れて行く。戻ってきてから報告する」


 九十九くんの言葉を聞いて、大野さんはすぐに駆け寄ってくれた。


「どうした、大丈夫か?」


 まだあの音は、大野さんから聞こえる。それなのに真っ先に飛んできて、心配してくれる。それが嬉しくて、でも、本当は私が大野さんにそうしなきゃいけないのにと思うと、情けなくて、悔しくて。


 私は何も答えられなかった。


「そっちを終わらせておいてくれ。そっちは俺じゃ出来ない。なるべく早く戻る。その後は俺がなんとかする」


 なるべく早く、大野さんが居ないと出来ないことは済ませるから、その後私に付き添ってあげて欲しい。


 そういう言葉だと思った。大野さんにも通じたようだった。


「わかった……変なことしたら殺すからな」


「わかっている」


 九十九くんはそう言って、私を連れて教室を出た。


 私の少し先を歩く九十九くんは、ずっと私に気を配ってくれている。とぼとぼと、いつもよりゆっくり歩く私の歩幅に合わせてくれるところからも。廊下で作業する生徒たちをなるべく避け、歩きやすい道を選んでくれるところからも。それが伝わってくる。


 自分のことでパンクしそうな私に向けられた気遣いを、どう受け取ったらいいのか分からなくて。私は気持ちが溢れてしまった。


 私が立ち尽くして泣き出すと、彼はすぐに振り返って、それから何も言わずに、優しく手を引いてくれた。


 私より少し大きくて、筋張った男の子らしい彼の手はとても温かくて、それだけで、私は安心してしまう。


 問題は何も解決していないのに。ずるい、情けない、浅ましい、とも思うのに。


 彼の手から伝わる熱が、それを覆い隠してくれた。



−−−



 保健室に着くと、先生が駆け寄ってきた。どうしたの、と聞いてきたが、彼が休ませてあげて欲しいと言うと、それ以上は何も聞かず、ベッドを貸してくれた。


「大丈夫か」


 ベッドに座らせた私に彼がかけてくれる声には、さっきと変わらない温度。


 私はまだ怖くて、離せずにいた彼の手をさらに握り込んでしまった。大丈夫って言ったら、離れていってしまうと思った。


 すると彼も、強く握り返してくれた。


「俺は、俺に出来ることをしてくる。お前はもう少し安め」


 彼の手の熱が失われてしまうのが怖くて、みっともなく縋る私は、駄々をこねる子どものようだったと思う。


 だけど彼は、子どもに言い聞かせるようにではなく、対等な目線で、言ってくれた。


「……俺が誰かを助けるために自分の身を切るのなら、私がそれを助けると、お前は言ってくれた」


 教室の机の下に潜り込んで盗み聞きをして、そのまま口を出した、あの時の言葉。


「今はお前も大野達も大変だから、俺の番だ。でも俺に出来ることはそう多くない。だから、お前の番が来たときは、頼りにしてる」


 私の手の力が緩む。彼の手がなくても、彼の言葉が私の心を照らしてくれると、そう信じられたから。


「そのとき返してくれたら、それでいい」


 彼はそう言って、私の手を離すと、行ってしまった。


 彼の言葉は、私が欲しかった言葉ではなかったけれど、私が彼に甘えず、自分の足で立つのに必要な言葉だった。

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