第45話 沈む

 その子とは、小学生の頃から仲が良かった。真面目で優しくて、でも控えめな性格で、あまり自己主張をしない子だった。


 私は昔から、思い込みが激しくて、そのくせよく考えずにすぐに行動して、よく失敗した。周りの人たちにも、よく呆れられた。


 そんな私に、もう、しょうがないね、って優しく笑いかけてくれる彼女に、私はすぐに懐いた。


 長くてサラサラな黒髪。落ち着いた大人な雰囲気。周りの人への細かな気配り。


 私が持っていない沢山のものを持つ彼女に、私は憧れた。


 彼女は、私の一番の理解者だった。私の大好きなものも、ちょっとしたモヤモヤや不安も、何でも分かち合えた。


 分かち合えていると、思っていた。彼女は私の理解者なのに、私は彼女の理解者には、なれていなかった。


 彼女からその音が聞こえたのは、中学二年生の時だった。


 彼女は突然、家から出てこなくなった。


 最初はただの風邪だと思っていた。お見舞いに行ったら、会いたくないと断られて。それでようやく、なんだか普通じゃなさそうだと察し始めた。


 何度も何度も押しかけて、ようやく会ってもらうことは出来たけれど、彼女は何も、話そうとしてくれなかった。


 理由なんて分からなかったけど、彼女が苦しんでいることだけはわかったから、私はあの手この手で彼女の機嫌をとろうとした。


 これまでに撮った沢山の写真を持って行って、楽しかった思い出を語って、また一緒に遊びに行きたいね、なんて。


 連れ出すために私が立てた軽薄な作戦で、軽率に放った私の言葉は、彼女の心を追い詰めた。


 その時。私の〝感覚〟が、発現した。


 キリキリ。キリキリ。初めて〝感覚〟で捉えた音は、小さくて、何が何だか分からなくて。すぐに心の音だとは、気付かなかった。


『えー、いいじゃんこのくらい』


『もう、真面目だなあ』


 周囲の友人たちが、そんな風に軽く笑って、軽い冗談で済ませようとしたものは、彼女にとってはとても大事なものだったらしい。


 放課後、遊びに行ったときも。文化祭や、修学旅行のときも。何気ない授業中の一幕でも。


 そんなことは、中学校に入学してから、何度もあったらしい。一回一回は些細な出来事でも、彼女の心にはその度におりが溜まっていたのだろう。


 私は、自分ではそんなこと、一度も言った覚えはないけれど。友人たちが彼女にそう言う時、私は側で笑っていた。


 追い詰められて、部屋から出ることもできなくなった彼女が、悲鳴をあげるみたいに苦しみを吐き出すまで。私は、そのことに気づいてもいなかった。


「気づいてもいなかったのに! 一緒になって笑っていたのに! 私がどんな思いでいたのか、知りもしないくせに! また一緒になんて……っ、ふざけるのも大概にしてよ!」


 バツンっ。叫びとともに聴こえた音は、そんな、脚の健が切れるような音だった。それで、あぁ、もう取り返しがつかないのだと、そう感じたのをよく覚えている。


 私は、どうしたらいいのか分からなくなった。間違えたことは分かっても、何が正解か分からなかった。


 だけど、彼女が苦しみ続けることが正しいとは思わなかった。取り返しがつかなかろうが、諦められるものではなかった。だから私は、それからも何度でも彼女の元に通って、誠心誠意謝った。


 誠心誠意だろうが、なんだろうが。彼女の気持ちを正しく分かってあげられてないくせに投げかけられた私の言葉は、彼女にとっては、暴力だったのだろう。


 ある日彼女は、もういい、と言った。千切れてしまってから、もうずっと沈んだまま変化しない彼女の心と表情に慣れてしまったからか、私はそれで許されたのだと思ってしまった。


 あれはきっと、諦めだった。


 そのことに気がついたのは、彼女が引っ越して、なんとか聞き出した引っ越し先の住所に送った手紙が、宛先不明で戻ってきた時だった。


 もう、電話もメールも繋がらなかった。


 それから私は、あの時分からなかった正解を求めて、藻掻くように生きた。わからないままでいたら、同じことが起きた時、同じことをしてしまうと思った。それが怖かった。


 誰も傷つかないように。悲しまないように。大事な気持ちが損なわれてしまわないように。


 あの時身についた〝感覚〟で心を暴いて、なりふり構わず誰にでも踏み込んでいって、理想を強要して、鬱陶しがられて。


 それでも他にどうしたらいいのかわからず、足掻くのを止められなくて。空回るばかりの中学最後の一年間は、息苦しかった。


 そして、高校に入学して、九十九くんに出会った。


 彼の中に、答えがあると思った。どんな感情なのかがわかっても、それに対してどうしたらいいか分からない私と違って、彼には相手に必要なものが見えているのだと思った。何をしてあげたらいいのか、正解が分かっているのだと思った。


 だから彼を観察した。私も、正解を知りたかった。そうやって彼と接しているうちに、彼のたくさんの優しさに触れた。思いやりを感じた。


 彼に貰ったものが、私の中に溶けていって、形になっていくのを感じていた。


 今ならわかる。彼は、正解がわかるから人に優しく出来ているわけじゃないということ。いつだってその人にとってより良いことを考え続けて、真摯に向き合うからこそそれが出来るということ。


 彼がくれたものが、少しずつ私の世界を広げてくれて、それで私は、変われた気になっていた。


 いつだって、何かしたのは九十九くんで、私は何もしていないのに。


 かつてと同じようなことが、今起きていて。


 追い詰められた人を放っておけば壊れてしまうことも、掛ける言葉を間違えれば居なくなってしまうことも分かっているのに。


 未だにどうすればいいのか分からなくて、大野さんに何もできずにいるくせに。


 どうして、変われているだなんて思えたのか。私は今回も、問題が起きるまで気づけてもいなかったじゃないか。


 どうしてそれで、ちゃんと見ているだなんて言えたのか。どうしてそんな風に、思い上がっていたのだろうか。


 こんな〝感覚〟があったところで、本当に必要なものは何も見えないって、わかっていたはずなのに。

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