第36話 最初の一歩

 気がつくと、朝になっていた。


 普段なら充電器に繋がれているはずのスマホが眼の前に見えて、慌てて飛び起きる。開いて画面を確認すると、九十九くんとのメッセージ履歴に覚えのないメッセージが二つあった。


 音声通話が終了しました、というシステムメッセージと、九十九くんからのおやすみの一言。


 いつ眠ってしまったのかまるで覚えていない。九十九くんが話してくれた彼の一日も、お昼に差し掛かるくらいまでの内容しか記憶にない。


 ただ、なにやらふわふわした頭で、ふわふわしたことを考えていたような感覚だけを覚えている。


 せっかくの夜の長電話や彼の日常の話を聞く機会を無駄にしてしまったことが悔やまれる。悔やまれるけれど、悔やむよりも先にやることが出来てしまった。


 昨日書くはずだった読書感想文にもまだ手を付けていないのに、私はまず、彼への謝罪文の作成から手を付けなければならない。



−−−



 今日のお昼ご飯は冷やし中華だった。


「最近麺ばかりだね」


「文句を言うならたまには自分で作りなさい」


 思ったことをそのまま口にしたら、そう返された。母の料理はとても美味しいので、文句だなんてとんでもない。多少偏っていても、自分で変なものを作るくらいなら母に作ってもらいたい。


 気恥ずかしいので、直接そう伝えることはしないけれど。


 今日は朝起きてから、九十九くんに謝罪文を送ったあと、昨日の小説を読み返した。読書感想文を書くことを視野に九十九くんと話したことを振り返りながら読み返しているだけなので、あと少しで読み終わりそうだ。


 昼食を食べ終えて片付けと食休みを挟んだら、もう一度図書館に行こう。


 電気代がかかるので就寝時以外での自室のエアコン利用は制限されているし、この感想文を親の目が届くリビングで書くのはなんだか恥ずかしい。


 図書館には持ち込み可の自習スペースもいくらかあったはずだ。あそこなら冷房も効いているし、静かで丁度いいだろう。


 今日の予定が決まったところで最後の一口を飲み込む。するとタイミングよく、スマホが振動する。


 見てみると、私の渾身の謝罪文は、別にいい、の四文字で華麗に受け流されていた。



−−−



 私は食器を片付け、少しの食休みを挟むと、予定通り図書館に向かった。館内図を見て自習スペースの位置を確認すると、そこに向かっていって腰を下ろす。


 残りの部分を読み返し終えたら、読書感想文を書きながら要所要所を必要に応じて確認するように読み返す。ときどき、九十九くんとのメッセージ履歴を見ながら、話した内容を思い返す。


 電話で話したから履歴に内容は残っていないけれど、画面を見れば、不思議と鮮明に思い出せた。


 そうして私は、夕方までには読書感想文をきっちり書き終えた。すぐに帰ろうかと思ったけれど、感想文を読み返し、要約した短い文章を別で用意することにした。


 荷物をバッグに仕舞って引き上げながら、要約文をスマホに打ち込んでいく。送り先はもちろん、九十九くんだ。


 図書館を出ながらメッセージを送信すると、少し離れた所から受信の音が聞こえた。凄いタイミングだな、と思ってふとそちらを見ると、それも当然だった。


「九十九くん」


 声をかけながら駆け寄っていくと、片手にスマホを持ったまま呆れた顔で迎えてくれる。会えるとは思っていなかったので、そんなことは関係ないみたいに私はちょっと舞い上がっていた。


「奇遇だね」


「ああ。……これは?」


「読書感想文を短く要約したんだけど。せっかくだから、全部ちゃんと読んでもらってもいい?」


「何で俺に」


「九十九くんのお陰で書けたものだから」


 九十九くんは、ふぅ、と軽く息を吐く。彼の心は靄になっていて読み取れないけれど、やれやれしょうがないな、って顔に書いてあるみたいだ。


「中でいいか」


「もちろん」


 私は先を歩いて九十九くんを誘導しようとしたけれど、先に行ってろとだけ言って道を逸れていってしまった。


 図書館の入口から入ってすぐ、目立つところで待っていると、少しして九十九くんはやってきて、返却コーナーで何やら本を返してから、私のところに来てくれた。


「どこに行っていたの?」


「……いくぞ」


 質問には答えてくれなかったけれど、答えはすぐにわかった。


 私はすぐ近くのテーブルに腰掛けようと思っていたのだけれど、九十九くんは飲食可能なスペースまで移動して、そこの長椅子に腰掛けると、私の方にジュースを置いて、自分の近くにコーヒーを置いた。これを買ってきてくれたらしい。


「いいの?」


 私が遠慮がちに聞くと、九十九くんは何かを要求するように手を差し出してきた。それはそうだよね、と財布を出そうとすると、感想文、と言われたので、慌てて感想文に持ち替えて彼に手渡す。


 それから彼は私の書いた感想文を読んで、その間、私は静かに彼がくれたジュースを飲みながら彼の様子をじっと見ていた。


 これもやっぱり、彼の優しさなのだろうか。だとすれば、昨日言っていたみたいに。


 私がこれを嬉しいと思って幸せを感じているだけで、彼には見返りになるのだろうか。


 それでも私は、やっぱりそれ以上のものを返したいと思う。九十九くんが私のためになることをして私の幸福を喜んでくれるみたいに。


 私も九十九くんのためになることをして、九十九くんの幸福を喜びたい。


 私の読書感想文も、そんな内容だった。主人公の優しさと、周囲の登場人物たちの幸福について書いて。


 私が直接主人公の優しさを受けたわけではないけれど、それでもその優しさを、眩しいと思ったから。


 主人公が自分の身を切り分けて、与えるように人を幸せにした分だけ、主人公が欠けた分が、誰かの優しさで埋まることを願うような。そんな感想文を書いた。


 九十九くんは読み終えると、


「お前らしいな」


 それだけを言った。私も、うん、とだけ返した。



−−−



 九十九くんは元々、借りていた本の返却だけが目的だったようなので、私は彼と並んで二人で帰った。


 途中、ふと思い立ってコンビニに立ち寄った。二人で分けられるアイスを買って、片方を彼に手渡す。


 少しだけ戸惑った顔を見せながらも、彼は受け取って、食べ始めてくれた。


 私は小説の中には入っていけないので、私と似たような、でもまるで異なる感覚を持ったあの少女と出会うことは出来ないけれど。


 どれだけそれを願っても、私が直接、彼女の欠けた部分を埋めてあげることは出来ないけれど。


 九十九くんは、私の隣にいる。彼の優しさを、優しいつもりなだけのものにするかどうか。受けた優しさを、返すかどうか。私は決められる立場にいる。


 九十九くんを一人にしないことを選べる場所に、私はいる。


 きっと、返してみせるから。つもりなだけになんてさせないから。


 隣を歩いて、何気なくアイスを食べるこの時間がその最初の一歩になればいいと、そう思った。




「……ところで、九十九くん」


 何? と視線で聞いてくる。


「昨日私、いつ寝ちゃったのか覚えてないんだけど。何か、変な寝言とか言ってなかった?」


「……別に」


「九十九くん? どうして目を背けるの?」


「意味はない」


「九十九くん?」


 いくら揺すっても何も教えてくれなかったので、やっぱりまだ、先は長いかもしれない。

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