第35話 夢見心地
そのお話の主人公は春から高校生になったばかりの女の子で、あらすじにあった通り、人の心を色で感じ取るという、不思議な共感覚を持った子だった。
だから、正直私は、自分に重ねるように読み進めていた。だけど、次第にまるで違うということがわかっていった。
このお話のジャンルはミステリーだ。だけど、決して登場人物は死なない。
春に進藤くんが言っていたことを思い出す。小川さんの上履きが無くなってしまった事件の時、彼はミステリー小説を引き合いに出して、思ったより面白くなかったと評した。特別な仕掛けがなく、すれ違いと勘違いがあっただけだからと。
私はその時、特に疑問を持っていなかった。こういったミステリー小説もあるのだということを、私は今日、初めて知った。
だから、だろうか。
誰も死なない、日常の謎のなかで。起きてしまった、ささやかな事件にまつわる登場人物たちの繊細で複雑な心情を、優しく解きほぐしていく彼女の姿は。
私よりも、九十九くんに重なって見えた。
私の〝感覚〟は五感に作用するけれど、常に五感の全てに作用するわけではなく、どの感覚に作用するか、どの程度強く感じ取るかはまちまちだ。どの刺激ならどう感じる、というのも、きっと定まっていない。
彼女は視覚で色を感じ取るだけだったけれど、常に強い感度で感じ取っているようだった。
きっと、その差もあったのだと思う。読み進めるほどに、全身全霊で人の心と向き合って、自分が傷ついてでも眼の前の人の想いが報われることを願うその姿は、私から離れていって。
私から離れていくほどに、想像の中の彼女の表情は、九十九くんと重なっていった。
お風呂に入っている間も、夕飯を食べている間も、読んでいる途中の小説の物語が頭から離れなくて。
食器を洗い場に放り込むようにしながらごちそうさまを吐き捨てて、私は部屋に飛び込み、小説に齧りつくように読み進めた。
−−−
『九十九くん』
『起きてる?』
今までにないくらい熱中してじっくり読んで、読み終えたその流れで、私は九十九くんにメッセージを送っていた。
気がつけばもう二十三時を過ぎている。こんな時間に迷惑だろうか、なんて考える前に、既に送ってしまっていた。
この気持ちが薄れてしまう前に九十九くんの感想が聞きたい。
彼はこの物語をどう読んだのだろう。
ヴヴ、という振動を手の中から感じて、飛びつくようにスマホの画面を開いた。九十九くんからのメッセージの通知。
『どうした』
味気のない、たったの四文字。なのにどうして、彼の真っ直ぐな眼差しと、全身でこちらに向き合ってくれているのを感じ取れるようなあの声色を思い出してしまうのか。
きっと、主人公に彼を投影するように小説を読んだせいだ。さっきまでこんな時間に迷惑じゃないか、なんて考えていたのに、今は彼の声が聞きたくて堪らないのも。
彼に電話をかける。丁度ワンコールで、彼は出てくれた。
「九十九くん?」
「どうした」
その声色は、電話越しでも、私の想像そのままだった。
「あのね、私ね――」
私は今日のことを、一つひとつ彼に話した。起きて、ご飯を食べて、図書館に行って、お婆さんを手助けして、九十九くんが読んでいた小説を借りてきて、夢中になって読んだ。その一つひとつを、丁寧に。
どうしてすぐに本題に入らなかったのかは、自分でも分からなかった。
私が話すことに、九十九くんがときどき、ああ、とか、んー、とか、相槌を入れてくれて、その時間はとても、心地が良かった。
「それで、九十九くんはあのお話を読んで、どう思った?」
ようやく本題に入ると、九十九くんの相槌は止まった。だけど、電話越しだと顔が見えなくて、自信がないけれど。きっと今、返事を考えてくれているのだと思う。
「優しい話だと、思った」
待っていると、少ししてから九十九くんはそう言った。私も、優しい話だと思った。主人公の優しい気持ちのお話。だけど。
「主人公は、独りだったのに?」
周りに振りまいた主人公の優しさは、周囲の世界を明るく照らした。沢山の想いを掬い取って、大切に扱った。だけど、それが主人公に還っていくことはなく、主人公は最後まで独りだった。
「だから、優しさなんだ」
そう断言した九十九くんの声は、まるでその孤独に寄り添うようだった。
「人の幸せだけを願って、人の幸せだけを成しているから。他の何かを成すための道具にも、何かへの言い訳にも、なっていないから。だから、優しさなんだ」
「……見返りが発生したら、それは優しさじゃなくなるの? 別の気持ちが混じってしまえば、それはもう、優しさじゃないの?」
私には、そうは思えない。
「いや。本質に思いやりがあって、それが相手の中で正しく形を成せば、それでいいと思う」
九十九くんも、否定した。だけど。
「結果は、どうしても必要?」
「優しさのつもりでいるだけになるかどうかは受け手次第だからな。かけた優しさが、その人から返ってくるかどうかも」
九十九くんは、なんでもないことみたいに、それが当然だとばかりに、そう言った。
「きっとそれも、優しさの一面だと思う」
違う、とは言えなかった。それを否定する言葉を私は持たない。だけど、それではあまりに悲しいと思ってしまうのは、まだ頭の中に、一人でいる主人公のイメージが強く残っているからだろうか。
「九十九くんも、見返りはいらないと思う?」
九十九くんの息遣いが微かに聞こえて、少しだけ間が空いた。そこから感情は読み取れない。
少しでも多くを読み取ろうと澄ませた私の耳に、彼はそっと、答えを置いてくれた。
「自分のしたことが誰かの幸せを形作れたのなら、それが何よりの見返りだろう。他人は、ともかく。そう思えない自分の行為を、俺は優しさとは呼べない」
ああ、これが。これが、彼の優しさなんだ。私がこれまで彼に貰った優しさの根っこには、これがあったんだ。
私はそれを、なんと表現したらいいのか分からなかった。だけどやっと、彼から受けた優しさの輪郭に触れることができたような、そんな気がした。
主人公が彼に重なって見えていた理由が、今わかった。
−−−
そっか、って返して、それ以上、深くは聞かなかった。代わりにお礼を言って、いい感想文が書けそう、と言ったら呆れられた。
それでおしまいにしても、良かったのだけれど。
「九十九くんは?」
もう少しだけ、声を聞いていたかった。
「九十九くんは、今日は、どんな風に過ごしたの?」
「……特に、何も」
「だめ。起きた所から」
応え方もわからないまま甘えちゃいけない。そう思っていたはずなのに、今日はなんだか止まれない。
九十九くんは相変わらず、はぁ、と呆れたようにため息をつきながらも、応えてくれた。
「今日はまず、起きてから――」
私は、たどたどしく語られる九十九くんの日常を聞きながら、スマホと一緒にベッドに寝転んだ。九十九くんの真似をするように、時折うん、と相槌を打つ。
横から聞こえる九十九くんの平坦な声が、なんだか心地よくて。意識がふわふわと緩んでいく。
きっと、これを。
あぁ、これを、夢見心地というのだ。
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