第18話 四回
「あっ、ほら、大野さん一位取ったよ」
「迫力……」
やや引いた表情をする九十九くんの感想はあまりにもストレート過ぎて本人に伝わったら怒られそうなので、聞こえなかったことにした。
私達は今、生徒たちの待機スペースギリギリの、脇に外れた位置にいる。
百メートル走の競技位置は、校舎前に並べられた教員及び実行委員用のテントの正面の直線。一般生徒達の待機所は、競技用トラックを挟んだ向こう側。
私達のいる場所は、一般生徒用の待機所側の左端。競争用トラックで言うと、カーブと直線の中間を外にそれたあたりだ。
青組の待機所は中央付近だけれど、人が多くなく、かつ競技が見やすい位置として最も都合が良かったので、少し歩いてここまで来た。
九十九くんは渋ったけれど、私の作戦が功を奏し、無事ついてきてくれる事となった。
作戦自体は、ごく単純なものだった。
私が、今日は何を読んでるの、と聞きながら手を差し出す。
五月頃はカバーを取って表紙を見せてくれるだけだった九十九くんだが、私が中身についても聞くようになってからは、面倒なのか本ごと渡して確認させてくれるようになったのだ。
今日もいつものように、彼は本を渡してくれた。
私はそれをすぐさまシャツの中に入れて、シャツの裾をズボンに入れた。要するに、彼の本を質に取ったのだ。
信じられないものを見たような彼の顔が忘れられない。
しかし、あれだけ表情が変化しているのにも関わらず、心には靄がかかったままで感情を感じ取れないなど、信じられないのはこちらの方だ。
そこからは、もう力押しだった。
「じゃあ、行こう」
「俺はいい」
「行こ」
「いい」
「行こ」
「……」
「行こ」
四回で彼は折れた。
今はもう大人しく、私の隣で競技を見てくれている。彼は紳士なので、女子の服を捲りあげて本を取り返そうとしたりはしないだろう。
とはいえ、私も自分の出場種目があるのでいつまでも持っているわけにはいかない。何か他の作戦を考えておく必要があるかもしれない。
そんな考えを見透かされたのだろうか。彼は突然手を差し出してきた。
「本。返せ」
「だめ」
当然だ。彼を連れてくるためだけにこうしているわけではない。
これは私のわがままだけど、彼にも行事にきちんと参加してほしいのだ。
一つも漏らさず全て、とはいかなくとも、クラスメイトが頑張っているところくらいは見ていて欲しい。
欲を言えば、私が頑張っているところも。
「逃げないから、返せ」
「だめ。ほら、次から男子の走順だよ」
「シャツの裾をしまっていると、風通りが悪くなって熱がこもりやすい」
聞く気はありません、という態度で突っぱねるつもりでそっぽを向いていたのだが、予想外のことを言うので、振り返ってしまった。
彼は真っ直ぐ私を見ていた。いつもの目だ。
「本はどうしても良いから、シャツを出せ。立ちっぱなしだし辛いだろ」
私のことを考えてくれていたらしい。私は一も二もなく、すぐに裾を出した。
ついでに少しパタパタと仰いで、中に風を送る。思っていたより熱がこもっていたようで、ぬるい風でも心地良い。
これはどうしよう、と本の扱いに少し悩んだけれど、逃げないと約束してもらったので、彼に返した。
どこに仕舞うのだろうと思っていたら普通にズボンのポケットに入れたので、文庫本くらいなら入るのかとその時気がついた。わざわざ変なところにしまう必要はなかったらしい。
出来るとわかった途端気になってしまったので、一度彼のズボンのポケットから本を取り出し、自分のポケットに入れた。
入るには入ったけど、ギリギリだった。彼のポケットからはすんなり取り出せた事を考えると、単純にサイズの差なのだろう。
満足したので彼のポケットに戻した。一連の動作の間、彼はされるがままだった。
一通り済むと、彼は鼻で笑うでもなく、ため息をつくでもなく、やれやれ、とばかりに軽く息をついた。
今更ながら、私は彼のいろんな優しさに甘えっぱなしだなと思う。
彼は私のことを考えてくれているが、私は彼のことを考えられているだろうか。
一人で本の世界に浸るより、学校行事に関わることは彼のためになるとは思う。
だけど、それにしたって観戦位置は別の場所の方が良かったのではないか。
テントの中は日差しがない代わりに人が多く、私はいろんな物を感じ取ってしまって辛い。
テントの後ろは、人が少ないが、直射日光が辛く、競技も見られない。
ここは直射日光がキツく、また各クラスに割り当てられたエリアを出ているので堂々とレジャーシートを広げることが出来ず、立っていなければならない。しかし人は少ないし競技も見れる。
私にとってはどこも大差ないが、私の〝感覚〟抜きで考えれば、やはりテント内が一番良いだろう。二人分のスペースくらいなら、どうにか空けてもらうことができるはず。
「テントに移動した方がいい?」
「お前がそうしたいなら」
なのに彼はこんな風に言うのだ。私が甘えなくても、彼が私を甘やかす。
日差しと人混みが同じくらいの辛さで、どちらでも競技が見れることに変わりがないのなら、座れる分、私にとってもテントの方がいいような気もしてきたけれど。
彼と二人で並んでいるのが、なんだか心地よかったから。
「次、進藤くんの番だね」
こんな風に誤魔化して、また私は彼に甘えてしまうのだ。
「あっ」
「こけたな」
「転んだね」
途中までいい順位だった進藤くんは、途中で転んで最下位になってしまった。
頭の後ろに片手をやりながら、周囲に愛想を振りまきつつゆっくりゴールする進藤くんに笑いが起こる。
あんな風でいられたら、自分に嫌気が差すこともないだろうか。
隣で呆れた顔をしている九十九くんに視線を移しながら、そう思った。
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