五、魔女は人間と共存できるよう努めなくてはならない
エマから借りた漫画は、結構面白かった。ファンタジーあり、恋愛あり、人間ドラマありの短編集で、絵柄も可愛らしくて良い。あと色んな登場人物が出てくるけど、キャラクター造形も西洋人風から日本人まで様々でどれも魅力的だった。なんとなくエマが選んでくれた理由も分かった気がした。
できれば早く返して感想を語り合いたいのだけど、あいにく図書当番の水曜までは日が空いている。その日まで待とうかとも思ったけど、新鮮な内に感想を送りたい。少し悩んだ末、エマのいる教室まで返しに行くことにした。よく考えれば水曜日しか会えないわけじゃない。教室は離れているけど、同じ学校に通っているんだから。
昼休み、同級生の賑わう廊下をかき分けてエマの教室まで向かうと、室内にはまだ人がたくさん残っていた。ただその中でもエマのレッドブラウンの髪はよく目立つ。
窓際の席に座っているエマは本でも読んでいるのか、運良くこちらを振り向いてくれる感じじゃない。でも他クラスで大声を張り上げて呼ぶのは気恥ずかしい。
どうしようかと迷っていると、近くでたむろしていた女子達と目があった。日焼けした顔が、どうしたの? という感じで覗き込んでくる。
「何? 誰か探してる?」
「……あ、あの。佐々木さん呼んでほしくて……」
その時だった、その子はわずかに驚いた顔をした後、少しだけニヤッと笑ってみせた。そして、友達なの? と訊いてくる。私はうなずきながら、なんでさっき笑ったんだろうと思った。
日焼け顔のその子はエマの方へ体を向けると、びっくりするくらい大きな声を張り上げた。
「佐々木さーん! 呼ばれてるよ!」
その声にエマの肩がビクリと揺れる。私も真横で大声を出されて、耳の奥がキンとなってしまった。運動部の声出しみたいな大きさだ。
周りの人も何事かと一瞬静まりかえる。その中で振り返るエマは、なんだか怯えたような顔をしていた。
「ほら、友達呼んでるよー!」
そう言って日焼け顔の子はエマを急かす。エマの顔色が明らかに悪くなった。立ち上がったは良いけど、足取りがいやにおぼつかない。こころなしか私のことを睨んでいる気もした。
入り口近くまで来た時、日焼け顔の子がエマにじゃれるみたいにまとわりつく。でもエマはその手を冷たく振り払って、さっさと廊下へ出てしまった。
「……行こ」
小さく、命令するみたいにエマはつぶやくと、私の方を振り返らずにどんどん歩いていく。慌ててその後を追おうとした時、教室から賑やかな笑い声が聞こえてきて私は一瞬凍りついた。
*
廊下に出ると、人混みをかき分けてエマはどんどん先へ行ってしまう。私のことを忘れてしまったみたいだ。階段を上っていくその後を追いかけると、着いたのは薄暗い屋上の踊り場で、鉄扉にはまった金網ガラスから弱々しい日差しが伸びていた。
「……で、何?」
やっと振り返ったエマは、あからさまにイライラした様子だった。私は恐る恐る漫画の入った紙袋を渡す。エマは紙袋を受け取ると、中身をちらっと見た。
「水曜日でも良かったのに……」
たぶん、水曜日の方が良かったんだ。言葉の端々に棘のような苛立ちが見える。それでも私は思いきって尋ねた。
「……ねえ。さっきの、何あれ」
「別に。何でもないよ。ちょっと絡み方がうざい子がいるだけ」
「本当? だって、すごく空気悪かったよ」
日焼け顔の子は笑っていたけど、明らかに大げさで妙な振る舞い方だった。エマだって怯えた顔をしていたのに、嫌がらせみたいに大声で呼んだりして。あとさっきエマにじゃれつこうとしたのだって、行くのを邪魔するみたいだった。
あと何より、あのクラスの雰囲気がおかしい。エマが大声で呼ばれた時、クラスは軽い緊張感と白々しい空気が漂った。なんだかエマをうっすら責めているような気さえした。あれが何でもない訳がない。
「本当に何でもないの。ていうか、私のクラスのことなんて関係ないでしょ」
エマの眉間にぐっと皺がよった。でも、ただ苛ついているんじゃない。何かをうやむやにしたくて、だから怒ったポーズを取っているんだ。
「……確かに関係ないけど」
言葉に詰まってしまった。こういう時に口下手なのが恨めしい。でも、見過ごしたくない。悔しくて、私はエマの目をぐっと睨んだ。ぶつかったエマの視線が鋭い。でもここで引くのは嫌だった。
睨み合いはしばらく続いた。でも一歩も譲らない私に半ば呆れたのか、エマは不意に視線をそらす。
「……別に、最初からあんな感じじゃないよ。ほらあの、運動部っぽい子がいたでしょ?」
「あの日焼けした子?」
「そう。田部って子なんだけど、その子がクラス替え直後に声かけてきたの。『その髪、どうやって先生に言い訳してるの?』って」
嫌な予感がした。前に話した時も思ったけど、エマにとって髪の事は半分タブーだ。
「その子、自分も髪を染めたかったみたいなんだよね。だけど校則で染められないし、そもそも運動部はそういうの厳しいらしいし。だからこの髪で普通に登校している私を見て、不思議がって訊いてきたの」
田部って子の気持ちは分からなくもない。髪を染めたがっている子はうちの学校にも割といる。だからみんな夏休みの間だけ染めたり、文化祭の時にハメを外して先生に怒られていたりする。
「何回も地毛だって言っても信じてくれなくて、『その色で地毛ってありえないでしょ』とか言ってくるし。いや、本人は軽い気持ちなのかもしれないけど。でも私は生まれた頃から『髪染めてるの?』って色んな人に訊かれて、その度に地毛ですって答えてるの。それなのにあんまりしつこく何回も訊かれたら頭にきちゃって。それでしばらく無視してたら、それが向こうの癇にさわったんだと思う。いつの間にか嫌がらせしてくるようになったの」
「……何それ、理不尽でしょ」
正直、無視されたぐらいで嫌がらせをするなんて幼稚だ。しかもしつこく訊いてきた自分が悪いのに。
「ねえ、大丈夫なの? 変なことされてない?」
「まあ正直うっとうしいくらいで、普段はそこまで実害はないけど。でも時々、物を隠されたりするのはムカつくかな」
その時、はっとした。エマはいつも鞄をパンパンにして図書室に来ていた。なんでいつも重そうにしているんだろうと思ったけど、違う。隠されることがあるから、自分の物は極力持ち帰るようにしていたんだ。
「……先生に相談しないの?」
「しない。どうせ大した証拠もないし、向こうが反省するとは思わないし。先生だって表面的にはやる事をやって、それで終わりでしょ。こういうの、大人が割り込んできた時の方がこじれるし」
そうかもしれない。叱られて反省するような人が嫌がらせなんてそもそもしないし、先生達だって四六時中、私たちを見張っているわけじゃない。でも、このままじっと耐えるしかないなんて間違っている。
「でもさ、おかしいよ。そんなんで我慢しなくちゃいけないなんて」
「……だから。私のクラスのこと、ミドリには関係ないでしょ? 私は平気だから、ほっといてよ」
その突き放すような言い方にさすがにこちらもイラッとした。これだけ心配しているのに、それはあんまりだ。
「……関係ないとか、そんな風に言わないでよ」
「なんで? 実際関係ないでしょ?」
「でも心配なの。友達なのに」
その時、エマの表情が急に冷めた。瞳にかすかな哀れみの色が浮かぶ。
「……水曜日は、ソフトボール部の練習が無い日なの」
神妙な顔をして何なんだろうと思った。置いてけぼりの私を無視してエマは続ける。
「田部ってソフト部なんだけど、水曜日は練習が無いから放課後にちょっかいかけてくることが多かったの。それが面倒くさいから、せめて帰る時間をずらそうと思って。図書室に通ってたのは、それだけ」
目の前が真っ暗になった気がした。そんな私の脇をすり抜けて、エマは逃げるように去っていく。遠くで予鈴が鳴り初めても、私はまだその場で立ち尽くしていた。
*
水曜日。できれば休んでしまいたかったけど、半ば意地で私は図書室にいた。ここで休むと挫けてしまったみたいで嫌だった。ただ肝心のエマは来ない。いや、あんなことがあって来るわけがない。
エマのことだから、要領よく田部のちょっかいをかわして、もう帰ってしまったのだろう。きっとこれから先も図書室に寄ることはない。だって今まで来てくれてたのは田部をやり過ごすためで、私と友達だったからじゃない。
大きな溜息が空っぽの図書室に転がる。友達だと思ってたのに暗に違うと言われたことが恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。隠してた趣味の漫画のことだって、あんなに話しちゃったのに。いやでも、あんなに話してて、漫画も貸してくれたのに、あんな態度を取るエマも酷い。エマだってクラスでの様子を見られて恥ずかしかったのかもしれないけど、でも普通あんなの心配するに決まってるじゃん。
恥かしさと怒りと、あてのない寂しさで私はカウンターに突っ伏した。いいんだ、どうせ誰も来ないんだから。これまで通りだらだらと図書委員の仕事をしつつ、漫画の妄想を創作ノートに書きとめる水曜日になるだけ。私は手探りで鞄から創作ノートを取り出すと、ぱらぱらとページを眺める。でも一ヶ月くらい前のクロッキーが下手すぎて、ますます気分が落ち込んだ。どうせ私は漫画の才能も画力もない、ただのオタクな中学生で、勝手に友情を抱いてはフラれるつまらないヤツで。どうしよう、泣きたくなってきた。もう体調不良ってことで切り上げて帰っちゃおうかな。そう思った瞬間に、ページをめくる手が止まった。
ページにはあの、エマをモデルにした魔女の絵が描かれていた。強く、大人びた表情。それでいて身体は細くて、黒いローブは少し大きすぎるようだ。凛とした目が私のことを見つめている。でもどこか、助けを求めているような。
にらみ合いはしばらく続いた。だけど私はページを閉じると、カウンターから立ち上がる。どうしてだろう。あんなに突き放されたのに、どうしてもエマのことが頭から離れない。エマの教室で見た時の、あの怯えた表情が忘れられない。
私は図書室を出ると、誰もいない廊下を覗き込む。きっと少し留守にしたって問題ないはずだ。ただ、ひょっとしたらエマが遅れて図書室にやってくるかもしれないから、鍵はかけないでおく。
後ろ手で扉を閉めると、私はなるべく足音を忍ばせながら、教室棟へと向かった。
*
エマを探すのに何かあてがあるわけじゃなかった。もうとっくに下校時刻を過ぎてるから、今頃は家に帰ってるかもしれない。でももしかしたら、田部を避けるためにどこかで暇をつぶしていることだってありえる。たぶん田部は昇降口とか校門で待ち伏せをしていて、それが嫌で図書室で時間をずらして帰っていたのだろう。今日だってまだ校内に残っている可能性はゼロじゃない。
問題はどこにいるかだ。例えばトイレの個室とかに引きこもっていたら厄介だ。さすがに学校中のトイレを探し回るような時間はない。でもあと生徒が残れるとしたらどこだろうか。吹奏楽部のいる音楽室周辺や、運動部のいる校庭に帰宅部のエマがいる可能性は低いだろう。そういう部活動をやっている生徒からは目につかない場所となると、空き教室か自習室しかない。
教室棟二階の自習室に向かうと、扉の前はひっそりとしていてあまり人の気配がなかった。中をのぞいてみると三年生らしき人達が二人、パーテーションのついた机に向かっているのが見えたけど、髪色でエマじゃないのは一目瞭然だった。私はそっと自習室を出ると、二年生の教室を目指す。
もし空き教室にもいなかったら、やっぱりトイレに隠れているか思いもよらない場所にいるか、それとも帰っているかだ。はやる心臓を押さえつつ、私は一組から順に確認していく。
話し声が聞こえたのは五組の教室に差し掛かったあたりだった。思わず足を止めて、私は耳を澄ませる。どうやら複数人の女子が教室に残っているらしい。
教室の扉にはガラス窓がはまっている。そこからのぞきこみたいけど、あんまり近くに寄ると教室内の人からも私が丸見えになってしまう。私はなるべく壁に体をくっつけて、浅い角度から窓を覗きこむ。その時、大きな声が教室内から響いてきた。
「……だからさぁ! そんなに避けなくてもいいと思うんだよねぇ」
疑いようもない。田部の声だった。人を嘲り、威圧するような声。自分に向けられたわけじゃないのに、私はその場で動けなくなる。その時、窓の向こうでちらりとレッドブラウンの髪が見えた。
「いいから、私に付きまとわないで」
凛としたエマの声が聞こえた。だけど、少し震えているような気もする。どうやらエマと田部は教室の隅で言い争いをしているらしかった。エマは毅然とした態度で立っているけど、田部は他にも女子を二人連れていて、帰ろうとするエマを引き留めているらしい。
「付きまとわないでって、私達そんなにひどいことした? 教室でも構ってあげてるじゃん? なのにいっつも佐々木さん態度悪いし。そういうのクラスの雰囲気も悪くなるし、やめてほしいんだよね」
なにが構ってあげているだ。ただちょっかいかけているだけのくせに。田部の言い草が癇にさわったのか、エマもキッとにらみ返す。
「……ふざけないで。私の教科書隠してるの、あんた達でしょうが」
「え? なにそれ。冤罪じゃん。証拠でもあんの?」
田部はちらりとエマのスクールバッグを見ると、鼻で笑った。
「あー……、そっか。佐々木さん、誰かに教科書とか隠されて、いじめられてるんだ。だから置き勉しないで、毎日持ち帰っているんだ? かわいそう」
エマが悔しそうに奥歯を噛みしめた。そして、話になんないと吐き捨てると、強引に三人を振り払って教室を出ていこうとする。でも田部の取り巻きの一人がすかさずスクールバッグの持ち手を掴んだ。
離してとエマが叫ぶ。でも三人がかりで、しかも自分より身体の大きい運動部相手に敵うはずがなかった。半分振り回されるような形で鞄を奪われると、エマは掃除用具入れの前まで追いつめられる。
「鞄重いだろうからさ、途中まで持ってあげるよ」
にやりと笑う田部に、エマがつかみかかろうとする。でも他の二人に押さえられてうまく動けない。その時だった。取り巻きの一人がいきなり掃除用具入れの扉を開ける。
「ちょっと、暴れるなって!」
そう言うとエマの肩を押さえていた子が、掃除用具入れの中にエマを突き飛ばした。声を上げる間もなく、もう一人が掃除用具入れの扉を閉める。
ほんの一瞬の出来事だった。なのにエマが掃除用具入れに閉じ込められた映像が、スローモーションのように網膜で再生される。なぜか体が動かない。本当はエマを助けるべきだ。もしくは先生たちを呼びに行くべきなんだ。でも足が貼りついてしまったかのように、一ミリもその場から動けなかった。
開けて! と掃除用具入れの中からくぐもった悲鳴が響き、バンバンと、木製の扉を手で叩くような音も聞こえる。だけど田部たちは扉を押さえたまま、馬鹿みたいにキャーキャーと笑っていた。まるで楽しい遊びをしているようだ。私はふと、いつかネットの画像で見た「鉄の処女」を思い出す。魔女を拷問し処刑するための、残酷な装置。
魔女狩りだ。田部たちのやっていることは、魔女狩りと同じだ。自分の気に入らない人間を異端に仕立て上げ、娯楽のように刑に処す。早く止めなきゃ。でも、田部たちを追い払うなんて、怖くて私にはできない。掃除用具入れに閉じ込められたエマを救うこともできない。私はその他大勢の民衆みたいに、ただ刑の執行を遠くから見るしかできない。
その時だった。掃除用具入れを押さえていた一人が、ふと不思議そうに首を傾げた。そして扉を押さえる腕を少し浮かす。奇妙な沈黙が教室に流れた。
あれ? と田部も首を傾げた。掃除用具入れから音がしなくなっていたのだ。さっきまで扉を叩く音もしていたのに、今はウンともスンとも言わない。扉を押し返すような様子もない。
泣いちゃったかな、と取り巻きがクスクス笑いながら言う。そして掃除用具入れをノックしながら、おーい、死んだー? と声をかけた。でも中からは何も返事がない。
嫌な予感が頭をよぎる。鉄の処女の針に刺されたように、本当に死んでしまったみたいだった。それはありえないとして、明らかに様子がおかしい。田部は大丈夫? とケラケラ笑いながら、勢いよく掃除用具入れを開ける。でもそこにはありえない光景が広がっていた。誰もいなかったのだ。
かたん、と音を立てて箒が外に転がり出る。あとは何も起きない。ただの中途半端な空間がそこにはあるだけだ。
喉まで悲鳴が込み上げてきて、私は口を押える。ありえない。扉はずっと押さえられていたから、出ることはできないはずだ。でもふと、エマが前にコイン消しのマジックをしてくれたのを思い出す。私、魔女だから、と言いながら。
まさか。そんなのありえない。あのコイン消しは簡単なマジックで、魔法なんて実際にない。でも、こうして掃除用具入れから消えるなんて、それこそ魔法がなきゃできっこない。混乱する頭の中で、エマのいたずらな笑顔が蘇る。そうだ。コインを消した時に、彼女はこう言っていた。消えちゃったから、もう返ってきません、って。
苦しくなって、私は思わず息を吸い込む。嫌だ。エマが帰ってこないなんて、絶対に嫌だ。目頭が熱くなる。私はその場から一歩後ずさった。
田部たちはまだ呆然と掃除用具入れの中をのぞいている。それを確認すると、私は音を立てないように階段へと向かった。
消えてしまった。エマが消えてしまった。音を立てないように走りながら、私はこぼれる涙を拭う。頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしたらいいのか分からない。ほとんどその場から逃げるかのように、私は階段を駆け下りていた。一階まで降りきると息が上がってしまって、私は壁に手をつく。かすむ視界の隅で職員室の扉が見えた。
ふらつきながらそこまで行くと、引きずるように扉を開け放つ。大きな音にびっくりしたのか、一番手前に座っていた教頭先生がびっくりした顔で私を見ていた。
「……すみません! あの、二年五組の教室で……!」
職員室に入る時は名前を言えとか、そんなルールにもはや構ってられなかった。でも、うまく言葉が紡げない。気持ちだけ焦って、なんて言えばいいのか分からない。そもそもエマが消えたなんて、どう説明すればいいのだ。
でもその時、私の手を取る人がいた。吉田先生だった。
「大丈夫? 上森さん」
吉田先生が真剣な顔で私を見つめている。いつもの鈍くさい先生じゃない。席だって入口から離れているのに、どうしてこんなにすぐ来れたのだろう。
「……ちょっと緊急事態っぽいけど。二年五組の教室ね?」
しゃべれなくなっていた私は、吉田先生の問いに必死になってうなずいた。すると先生はパッと顔を上げる。
「分かった、ちょっと行ってみる。後で話はちゃんと聞くから、安心して」
そう言うと先生は風のように軽やかに職員室を飛び出した。後ろで教頭先生が、吉田先生! と呼んだけど、その頃にはもう吉田先生は階段を駆け上っていた。
吉田先生の去った職員室は、間の抜けた沈黙に包まれていた。いきなり泣きじゃくりながら飛び込んできた私も変だけど、いつもおっとりとした吉田先生があんなに機敏に走るのを見て、みんなも呆気にとられてしまったらしい。私も正直びっくりした。
「……あー、えーっと。上森さん? 教室で何かあったの?」
教頭先生は眼鏡を直しながら、困惑した表情で私を見つめる。私は間抜けな声で、はいと答えた。
じゃあ、ちょっと話聞かせてもらえるかな、と教頭先生が回転椅子から立ち上がった。その威厳を保った、どこか悠長な動きに少し焦る。そこでふと、私は我に返った。そうだ、エマを探さないと。
「失礼します!」
そう言うと、私は回れ右をして職員室を飛び出した。上森さん! と教頭先生の声が追いかけてきたけど、私は階段へと走る。こんなところで説明なんてまどろっこしいことしてる暇はない。今はいち早く、消えたエマを探さなきゃ。
でも、エマはいったいどこにいるんだろう。どうやって掃除用具入れから消えたかも謎だけど、今どこにいるかもまったくの謎だ。そもそも消えるって、透明人間みたいに目に映らなくなったのか、どっかに瞬間移動したのか。消えちゃったから、もう返ってきません、が本当だったら、どうしよう。
走りながら頭を掻きむしる。考えがまとまらない。でも一つだけ、あてがあった。ほぼ勘のようなものだ。私は二階の渡り廊下を過ぎると、学科棟へと走る。また階段を駆け上って目的地の図書室の目の前まで来た。
人がめったに近寄らない校内の僻地。北向きで心なしか湿っぽく、薄暗い本の森。魔女が隠れるならここが一番だ。
もしここにいないのなら、もうエマには二度と会えない気がした。緊張しながら私は扉に手をかける。古い扉はかすかに軋みながら、ゆっくりと開いていく。
窓から風が吹き込んで、カーテンがはためいていた。古い紙の匂い、立ち並ぶ木の本棚。その中で女子生徒が閲覧席に座っていた。レッドブラウンの髪色に、そばかすのある頬。
「エマ!」
私が叫ぶと、エマはびっくりしたように肩を揺らした。そして私の方を向いて、唇の端を少し吊り上げて笑った。でもよく見ると目尻が少し赤い。
「……ちょっと、いくら人が来ないからって留守にするのは不用心すぎない?」
余裕ぶって憎まれ口を叩いているけど、本当は泣いてたんでしょ。消えてしまいたいくらい、辛かったんでしょ。それでも、図書室に来てくれた。うぬぼれかもしれないけど、私のところまで逃げてきてくれた。
また何も言えなくなって、私は変な泣き声を上げてエマに飛びついた。ぐしょぐしょになった頬に柔らかいブラウスが触れる。エマの身体は細くて頼りないけど、とても温かかった。
ちょっと! とエマが逃げようとするけど、私は離さない。消えてしまうのが怖かった。エマはしばらく私を引き剥がそうとしていたけど、やがて諦めたのか深くため息を吐いた。
「……分かったから、もうスカートに鼻水垂らすのやめて」
「……うっ、ごめん」
顔を上げると、エマも半分泣きそうになりながら私を見つめている。その顔がちょっと不細工で、私は少し笑ってしまった。エマもつられて笑ったところで、ねえ、と私は口を開く。
「二人でさ、魔女の会、作らない……?」
エマは眉をひそめて、何それ? とつぶやいた。
「えっと、つまり、お互いがお互いを助け合う同盟、みたいな。私、エマと漫画のこと話せるようになってすごく救われたから。だから、私もエマのこと助けたい」
エマはまだけげんな顔をしている。でも私が強引に、いいでしょ? と訊くと、エマは半笑いで言った。
「……いいよ。魔女の会、作ろうよ」
それで決まった。また私が抱きつくと、エマは優しく髪を撫でてくれる。
この日から、私たちは少し変わった。ただの同期生とか、図書室の常連とか、そういった関係じゃない。殺された仲間達のために、そして自分達の未来のために祈る、魔女の会のメンバーになったのだ。
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