二、魔女はその正体を明かしてはならない
私が魔女に会ったのは中学二年の初夏の頃だった。
別に、暗い森の中にいたわけじゃない。とんがった黒い帽子をかぶっていたわけでも、黒猫を従えていたわけでもない。私と同じ、ダサい紺のスカートを履いて、放課後の図書室にいたのだ。
*
私の中学の図書室は、学科棟の四階にある。教室棟を出て渡り廊下を過ぎ、保健室の脇の階段を上って最上階へ。そしてさらに廊下を北へと進んだ突き当たりが図書室になっている。つまり、校内でもかなりの僻地にある。
部屋の大きさは教室一個半くらいだけど、書架が立ち並んでいるせいで広いという感じは全くしない。北向きだからかなんとなく薄暗い雰囲気で、空気も埃っぽく、おまけに蔵書も古くさいものばかり。お世辞にも生徒が好んで使うような場所ではなく、利用者は週にせいぜい五、六人。そんな図書室でも一応管理しているのが、私の所属している図書委員会だった。
毎週水曜日の放課後、職員室へ向かうと室内はホームルームを終えた先生達が何やら忙しそうに机に向かっている。その中でも奥の方の席に座っている眼鏡の女性が司書教諭の吉田先生だ。
「失礼します! 二年三組の上森です! 図書室の鍵を貸してください!」
なぜか職員室には「用事がある時、扉のところでクラスと名前を先生全員に聞こえるように言ってから入らなくてはいけない」という謎ルールがある。それができないと手前に座っている教頭先生に注意されて、扉を開けるところからやり直しされるのだから理不尽な話だ。先生達でそんなことやっている人は誰もいないのに。
吉田先生は弾かれたように顔を上げると、慌てて鍵を取り出した。
「ごめん、また時間忘れてた……。今日もよろしくね」
鍵と図書委員日誌を手渡すと、先生はきまりが悪そうに笑った。いえ、と私は平坦に返すと、お辞儀をして職員室を後にする。
吉田先生は自分のクラスや書道部の顧問など、担当が多くて何かと忙しい人だ。たまたま司書教諭の資格を持っていたから図書委員も担当しているんだろうけど、正直言ってあんまり委員会に手が回っているようには見えない。でも、それでいい。もししょっちゅう図書室に顔を出すような先生だったら、私の貴重な創作時間が減ってしまう。
図書室に着くと、まずは最初に返却ボックスを覗きこむ。いつも通り空っぽなのを確認すると、次にパソコンの起動。窓を開けてカウンターも簡単に整理して、後はほぼ自由時間だ。持ち込んだマンガを読もうが、昼寝しようがほとんどバレない。
外から入ってくる風に白いカーテンが優しく膨らむ。校庭からは運動部の声出し、パート連の管楽器の調べ。悪くない。こうやって人気のない図書室でまったり過ごせる時間が私は好きだ。勉強とか友人関係とか家族とか、何かと忙しない毎日の中で週一ぐらいこういう時間があっても良いと私は思う。
その時だった。ガラリと扉が開いて、女子生徒が一人入ってくる。私は慌てて居すまいを正すと、さも仕事をしていますよという顔でパソコンに向かった。
女子生徒はこちらに一瞥もくれずに、のんびりした足取りで書架の間を歩いている。やがて読む本を見つけたのか、一冊の文庫本を抜き取ると閲覧席で読み始めた。私は横目でその姿をちらちらと眺める。ここ一ヶ月くらいだろうか。最近あの女子生徒を毎週図書室で見かけるようになったのは。
同じ学年なので名前はなんとなく知っている。確か、佐々木エマだ。私は図書室の利用者名簿をパソコンから呼び出し、『佐々木』で検索をかけてみる。該当する名前はすぐに見つかった。『恵麻』と書くらしい。
どちらかというと痩せ気味で、引き締まった表情をしているせいかなんとなく頭の良さそうな感じがする。頬は少しそばかすがあるけど、肌は白い。そしてなにより、彼女の一番の特徴は明るい髪だった。
茶色、といっても焦げ茶じゃない。どちらかというと赤茶、レッドブラウンに近い感じで、そのせいで少し外国人っぽい印象になる。その長い髪を丁寧に三つ編みにして、読書に耽る姿はちょっと格好いい。絵になるという感じだ。
私はこっそり鞄からキャンパスノートを取り出すと、彼女が本に集中しているのを確認しながらページをそっと開く。このノートには趣味の漫画のネタがびっしりと書き込まれている。
母親が萩尾望都などの少女漫画が好きだった影響で、我が家の本棚はやたら漫画が充実していた。そんな家で育った私が漫画好きに育つのも当たり前で。しかも幼稚園の頃に「絵、上手だね」と先生に褒められてから、一丁前に漫画を書くのが趣味になってしまった。我ながら単純だと思う。
以来ノート一冊を創作用として持ち歩いて、暇さえあればオリジナルキャラクターのラフと設定を書いては一人で満足している。今のところネタと設定がひたすらたまっているだけで、作品は一つも完成していないのだけど。
鉛筆を取り出すと、読書する彼女を盗み見ながら紙面にその姿を写し取っていく。最初は簡単にアタリをつけて、大まかな形を作る。次に目や口、手などの細かいパーツも描き込み、服や髪、できれば陰や線の抑揚で表情や雰囲気も加えていく。
クロッキーなので制限時間はせいぜい十分間。できあがった絵と彼女の姿を眺めて、私はため息を吐いた。四十点ぐらいだろうか。首の角度がおかしい気がするし、重心が不安定な絵になってしまった。ただ髪の毛の流れは上手く表現できた方だろうか。
なんとなく、できたラフの横に『エマ』と書いてみる。まるで漫画のキャラクターみたいに思えてきて、私は続けて設定を加えてみる。
十四歳、女子。性格は物静かで、頭が良い。綺麗なレッドブラウンの髪を持っていて、キリッとした美人。読書好きで、よく図書室に通う……。
「――あの」
その時、急に声をかけられて私は悲鳴を上げそうになった。慌てて創作ノートを閉じ、前を見るとそこにはエマ……もとい佐々木恵麻が立っている。
「……あの、これ借りたいんですけど」
「あ、はい……。すぐに」
しどろもどろになりながら文庫本を受け取ると、バーコードリーダーをかざす。ヤバい、全然気がつかなかった。油断した。
創作ノートは見られただろうか。いや、見られたに決まっている。文字ならともかく、絵なんて遠目でもよく見える。最悪だ。しかも三つ編み姿で描いてしまったから、勘の良い相手なら自分がモデルだと気がつくかもしれない。
「……貸出期間は二週間です」
震えながら文庫本を差し出すと、彼女は無表情のまま黙ってそれを鞄に仕舞う。この顔の裏側でどう思っているのだろうか。絵を描いていると色眼鏡で見てくる人はいるし、もし無断でモデルにされたと気がついたら、気持ち悪いと思われるかもしれない。
中学なんて狭い世界だから、あっという間に噂は広まってしまう。そしてちょっとでも変わったことをしていたら、からかいや悪口のネタになるし、その度に笑って誤魔化さなきゃならない。仮にこの子が変なことを言いふらさないとしても、私の自意識が耐えられない。恥ずかしくて死ぬ。
その時だった。目の前の彼女がなにとなしといった感じで呟いた。
「ねえ……、さっきの絵、あなたが描いたの?」
死刑宣告だった。目の前がさっと暗くなり、呼吸が一瞬止まる。怖い。彼女が今どんな顔をしているのか、見たくない。嗤っているだろうか、それとも変だと思っているだろうか。
でも、彼女の反応は全然違った。
「……さっきの絵、いいね」
思わぬ言葉に、一瞬意味が分からなかった。ワンテンポ遅れて、え? と間抜けな返事が出る。顔を上げると、彼女はいたって真面目な顔で私を見ている。からかっている様子は無さそうだ。
「……あ、ありがとう」
やっとそう返すと、彼女は目をきゅっと細めて微笑んだ。その表情を見て不覚にも私はドキリとする。くちびるの吊り上がった感じが妙に妖しく、でも瞳の奥は無邪気で、ちょっと怖くなるくらい可愛かった。
今思えば、あれが魔女の微笑みってやつだったんだ。
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