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 思えば僕はずっと勘違いをしていた。ひどい思い違いをしていた。

 顔が良くて頭もいい。大多数の高校生が喉から手が出るほど欲しい要素を奇跡的な確率で所持している彼女は、きっとクラスの人気者で、先生からの評判も良くて、僕とは全く交わることのない正反対の位相に位置している人なのだろうと、そう思っていた。

 でも現実は違った。

部室の中の彼女と外の彼女はまるで別だった。

 思えば前々から少し引っかかるところはあったのだ。

 なぜあのレクリエーションの日、彼女は朝から保健室に行き、そして部活には平然と出てきたのだろう。


「ここ以外で私と極力関わらないで。見ないで。話しかけないで。もし教室に来たりなんかしたら殺すから」


 この約束もそうだ。今までは、僕みたいな後輩と関わっていることが周囲にばれたら幻滅されるからだろうと思っていた。でもたぶん、真意は逆だった。先輩が真に恐れていたのは周囲から幻滅されることではなく、僕に幻滅されることだったのだ。部室外での姿を僕に見られることを、彼女は恐れていたのだ。情けない姿を後輩に見せることを、彼女は恐れていた。その恐れは而して現実のものとなり、彼女は部活に来なくなった。

 ・・・・のかもしれない。

 僕しかいない部室の中で、ペンを走らせる。

 白紙のノートを埋めていく。プロットを立てていく。

 物語を一から作るのは難しい。だから一番身近な物語を、「僕」自身を題材にすることにした。それはかなりの心的苦痛を伴う行為だった。そもそもこんな痛々しい小説ともいえない何かを書くことに意味はあるのか?とも思った。それでも僕は書かなければいけない。読んでほしい人がいるから。理由はそれだけで十分な気がした。

 僕自身を題材にするとなると、必ず筆が止まる箇所が一つ出てくる。そう。物語のクライマックス―ラストシーンである。

 そこだけはノンフィクションではなく、フィクションを書かなくてはならない。なぜならそれは未だ決まっていない未来の想像図だから。実現するかわからない妄想に近しい何かだから。

 でも、それでも書けるだけは書いてみたつもりだ。伝わるかは分からないけれど。


          ・


いつも通りの朝食にいつも通りの制服。いつも通りの通学路にいつも通りの学校。

 でも今日は一つだけあった。いつもとは違うものが一つだけ。

「・・・・?」

 靴箱の中に、真新しいUSBが入っていたのだ。真っ黒なそれを手のひらで転がしてみる。

 期待はしていなかったけれど、やっぱり身元が分かるようなものは何もなかった。怪しい。どう考えても怪しい。

 普通なら事務室か担任にでも届けるところなんだろうけど、私はそれをそっと制鞄の中に入れた。

 何かが変わればいいと思った。マイナスにでもプラスにでもいい。


 USBの中にあったのは、一本のワードのデータだった。ファイル名には『私小説』とある。

 作者名は書かれていなかったが―何となく見当はついていた。

 私は数秒の逡巡の後、ゆっくりとカーソルを動かし、ファイルをクリックした。


          ・




 放課後。

 部室にはすでに先客がいた。

 いつもどおり机に姿勢よく座って。いつもどおり分厚い本を手繰っていた。


「遅かったね」


 先輩はそう言って僕を睨んだ。今年ももう十二月。暖房がない文芸部室は凍える寒さだ。僕は素直に謝って、それから席に着く。


「先輩が来てくれるかどうかは、かなりの賭けでした」


「そう。あなたは何を賭けたの?」


「この部の存続です」


「元々あってないようなものじゃない。そんなもの」


「でも確かにありました。僕らの居場所はここに有りました。他にはどこにも無かったんです」


「・・・・・・・・」


「あの小説、どうでした?」


「駄作ね。あんなもの―小説とは呼べないわ。本当に不快極まりない。読んでるだけで吐き気がした」


「・・・・・・・・」


「―どうして分かるの?私だって分からなかった―分からないようにしてたのに。私があなたを嫌いな理由。見た瞬間にあなたの事を嫌った理由」



 それは「同族嫌悪」だ。



「初めてこの部室に来たあなたは私にそっくりだった。いつもの、教室での私にそっくりだった。私が嫌いな私にそっくりだった。だから私は、あなたを嫌った。あなたを貶して、あなたを蔑んで、あなたを使って、それで私はどこかで気持ち良くなってたんだ。心の安定を保ってたんだ。私は・・・・本当にどうしようもない」


 人間の屑だ、と彼女は言った。僕も同感だった。でもそれなら僕も人間の屑だった。自分の愚かさから目を背けて、誰かに責任を押し付けて、そうして平然と生きる。弱さをごまかして、問題から逃げて、道化として生きる。笑ってしまうくらいのダメ人間だ。

 でも。だから。この話はこれでお終いにしよう。


「先輩」


 彼女の眼は微かに潤んでいた。これから自分が何を言われるのか、恐れて怯えている。そういう顔だった。

 息を吸う。吐く。

 そして僕は言った。


「構えてください」


「・・・・・・・・え?」


 先輩はきょとんとした顔で僕を見る。左足を前に出し、右こぶしを胸元に構えた―さながらファイティングポーズをとった僕を見る。

 そして、笑った。これ以上ないくらいに晴れやかに笑った。僕の前で初めて笑った。僕も笑った。思いっきり笑った。

 そしてそのあとで。


「一発ずつ思いっきり行きましょう」


「望むところ」


 僕らは同時に拳を繰り出した。


 何の脈絡もない。何の文脈もない。打ち切りみたいなラストだ。でも僕は結構このラストが気にいっている。あの小説に書いた屋上での先輩への甘い告白よりもずっと気に入っている。

 

 伽藍洞の部室棟に快音が響く。痛烈な儚い夢の終わりは、まだ序章に過ぎない。



                


 

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私小説 明け方 @203kouchi

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