5

 体育祭当日。

 早朝の冷たく澄んだ空気を感じながら、僕は百メートル走のスタートラインに立った。

 一種目目の競技ということもあってか、心なしかほかの選手も緊張しているように見える。一方誰にも期待されていない僕は結構気楽―ということもなく、普通に緊張していた。こういう空気に慣れていないのもあるだろうが、一番はやはり、この試合を先輩が見てくれているかもしれないからだろう。彼女が登校しているのは現川からすでに聞き及んでいる。青組の応援席のどこかに彼女はきっといるはずだ。あの約束があるため探してはいないけれど。きっとどこかで見ているはずだ。

 僕の無様な姿を見るために。


「オンユアマーク」


 係の生徒の朗々とした声が会場に響く。僕は慣れない身振りでクラウチングスタートの構えをとる。


「セット」


 今にも攣りそうな左足を少しだけ上げる。体を支える両の指が頼りなく震える。

 乾いたスタートの合図が大気をかすかに震わせた。



 ―見事最下位でゴールした僕は、今にも倒れこみそうな体を何とか動かして応援席に向かっていた。着いた瞬間先輩が出迎えて肩を貸してくれる―そういうシチュエーションが待っているかもしれない。別にそうでなくてもただ、居てくれるだけでいいのだ。そして笑ってほしいのだ。願いが叶うのならば。

 でも。それはやっぱり、夢物語だ。


 応援席に戻る途中。横切った救護テントの中で、僕は見た。

 自信なさげに背中を丸めて、ぼんやりと一人で競技を眺めている先輩の姿を。普段の彼女からは想像もできない姿を。

それは僕に、とても、とてもよく似ていた。


 視線がかち合う。

 僕は目を逸らせなかった。

 先輩は目を逸らした。


 そして、その日から彼女が部室にくることは無くなった。

 僕は結局何者にもなれない惨めな敗者のまま、体育祭を終えた。


先輩はその日を境に、文芸部に来ることは無くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る