心放ち

西野ゆう

第1話

「春だね」

 どこに春の訪れを感じたというのだろう。風か、光か、鳥か、草花か。あるいは彼自身の鼻か。だが、花粉症だなどという話は聞いたことがない。

「そうだね」

 それでも私は相槌を打つ。話を合わせたわけではない。彼が「春だね」と口にした瞬間、確かに私の胸の中にも春が広がったのだ。

 陽だまりのような人だ。初めてあった日からその印象は変わらない。変わったのはお互いの関係だけだ。

 高校時代に私の家庭教師だった彼は、六歳年の離れた私の姉と結婚した。義兄になったのだ。

 とはいえ、呼び方は昔も今も「お兄ちゃん」から変わらない。元々姉の同級生だった彼は、私が小学校の低学年頃から、姉の部屋によく遊びに来ていた。

 その彼が、実家に帰ってきていた姉を迎えに来たところだ。二階にある南に向いた私の部屋。窓を開けて顔を覗かせた私に最初に掛けてきた言葉が「春だね」だった。

 そして、私の「そうだね」という言葉を聞いた彼は、にこりと笑っただけで、玄関に視線を向けていた。

 玄関からは、姉にあれこれと「心得」を話す母の声と、それに対して「はいはい」と面倒くさそうに返事する姉の声が聞こえてきていた。

 彼はその場から動かず、ただ玄関で繰り広げられている二人のやり取りに、優しい笑顔を向けていた。

 もう半年もしたら、私は「オバサン」になる。

 自分の中に、もうひとつ命があるというのはどういう感覚なのだろう。もうひとつの心臓、もうひとつの心。

 姉に訊けば、曖昧なものだとしても教えてもらえるのかもしれないが、私は姉とはほとんど会話をしない。あのことを姉は知っているからだ。

 一度だけ。家庭教師だった彼の隙をついて、彼の唇に自分の唇を重ねたことを。

 彼はあの時の私のいびつな心を理解してくれているが、姉はそうではない。いや、同じ女だし、姉妹だ。理解しているのかもしれないが、許していないだけだろう。あるいは、怖いのかもしれない。

 彼は運転席の後ろの席に姉を座らせると、もう一度私の方を見た。

「またね」

 そう声に出さずに、口だけ動かして手を振っている。

「うん、またね」

 私も声を出さずに、手を振り返した。

 今更彼に対して特別な感情は何もない。何もないはずだが、心が満たされていく。

 彼も車に乗り込んだのを見て、私は窓を閉めた。その窓に、薄く自分の姿が映る。そうか。彼は気付いてくれていたのだ。私の髪が、以前会った時より短くなっているのを。それを見て「春だね」と言ってくれたのだ。

「――」

 ごく短いその言葉が、再び窓を開いた私の口から零れる寸前、私は慌てて口を閉じ、頬を膨らませた。

「ふぅ」と吐いた息は、春の空気の塊となって、空高く昇っていった。

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心放ち 西野ゆう @ukizm

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