「白紙」
北山カノン@お焚き上げ
「白紙」
「北山さん、休職しましょう」
先生が口を真一文字に引き締めて、緊張した面持ちで僕に告げた。
「……休職ですか」
「はい」
先生が頷く。
休職、その言葉に僕は頭を抱えると同時に内心、安堵した。これで仕事を休める。
実をいうと休職を勧められたのは、これで二回目だった。一回目は就職してから三ヶ月経った頃だ。朝起きると必ず腹痛と手の震え、職場に着くと動悸と息切れが症状として現れた。その症状に当てはまる病気を僕は知っていた。適応障害。
僕はすぐに市外にある心療内科の予約をとって受診した。
結果は予想通り、適応障害だった。
先生から病名を告げられた時、不思議と違和感もなく受け入れられた。逆に脳や神経系の病気でなかったことに安堵したくらいだ。
今後の治療方針と処方について説明を受けた。実際に自分自身が適応障害になるなんて思いもしなかった。今思えば適応障害という病気を舐めていた。座学を治めたからと理解した気になっていたのだ。
先生から具体的な休職の期間の相談をしていた時だった。突然、動悸と息切れに見舞われた。次いで頭の上から血の気が引いていく感覚。
もし、職場に、上司にその事を告げたらどうなるだろうか。
『何でこのクソ忙しい時に』『三ヶ月で休職とか使えねー』
嫌な妄想が頭の中を駆け巡った。痛いぐらい跳ねる心臓を抑えるように、胸を撫でる。だめだ、休職を伝えるビジョンが、勇気がない。怖い。
「……もう少しだけ、頑張ってみます」
そう伝えると先生のまなじりが下がった。
「正直、今の北山さんの状態的には休職をした方が良いと思います」
「まだ就職したばかりなので、頑張れるだけやってみたいんです」
「……わかりました。あくまで私、医師としては休職の提案をさせて頂きます。一応、診断書を出しておきます。やっぱり休職するという時は使ってください。そのまま使わずに御守りとして持っていても構わないので、決めるのは北山さん自身です」
「ありがとうございます……」
「いいえ。私ができるのは診断書を書くのとお薬を出すくらいなので」
それが三年前のできごと。
先生は、その時と同じ声音で問いかけてくれる。
「あくまでも北山さん自身が決める事ですけれども、どうしますか?」
三年前と違うのは、二つ。僕と先生の関係性。教科書的に言えば信頼関係の醸成。
一見すれば無責任に聞こえるかもしれないけれど、そうじゃ無いと知っている。
月に一回、受診をして病状だけじゃなくて、普段の生活ことや仕事の話をする。それを三年間続けた事で僕は先生のことを信じることができた。信じさせてくれた。
もう一つは、僕自身、限界を超えてしまったこと。
『何しに就職したの?』『そこ居るだけなら誰だってできるんだよ』『いやー、北山くんの背中は頼りないねー。身体は大きいのに小さく見えるよ』『あなたに仕事を任せる事は無いから』『言っておきますけど、私が怒ってるのはイジメじゃ無いですから。わかってるよね、北山くん?』『融通効かないなー。その辺は適当に日付合わせればいいんだよ』『北山くんは陰キャ中の陰キャだよね。ほら、最近流行りのチー牛、チー牛!』『北山くんって風俗とかソープめっちゃ詳しそう。ってか通ってそう!』
不意に訪れるフラッシュバック。仕事をしている時は現実に脅かされ、それ以外の時間は記憶に脅かされる。特に就寝前が酷かった。自然と涙が流れ、眠るのが怖かった。目が覚めれば仕事に行かなければならないから。朝起きても不眠の影響で頭痛と吐き気、目眩。そもそも布団から這い出るのすら困難だった。
そして遂に、僕は仕事を休んでしまい、今日やっとの思いで受診に来た。
本来、予約制の心療内科のクリニックで当日受診は断られることが多い。それでも先生は診療時間外でも診てくれた。
どんどん視界が霞んでいき、目尻に溜まった涙を拭う。
「休職します……」
※
『休職します』
上司に伝えると、あっという間に僕の休職は決まった。いつものようにクドクドと文句も嫌味も皮肉も言われなかった。というのも、その日は不思議と気分が上がっていて、何でもできるような気になっていた。先生から貰ったお守りの効果もあったのかもしれない。今までは黙って聞いていたけど、今日の僕は違うぞ。何か言ってみろ、お前をぶっ殺しやる。女だから殴られないとでも思ってるのか? だったら後悔させてやる。今まで散々コケにしやがって。帰り道にでも会ってみろ、轢き殺してやる!
そのくらいの気概で上司に立ち向かったのに拍子抜けしてしまった。実際に行動に移すわけでは無いけれども、そう思うことで気丈に振る舞えた。あとで同僚に言われたのだが、その日の僕は本当に上司を殺すんじゃ無いかと思われていたらしい。
そうして始まった僕の休職生活は、無味乾燥という以外の言葉が見つからなかった。
朝起きても布団から出ずに、また目を閉じたり、天井や壁を見つめたりしていた。何か意味のある行動じゃない。今はとにかく頭の中に何も情報を入れたく無かった。ほんの少しのことから、自分とは全く関係のないことでも、自分の心情と結びついて言葉に言い表せない焦燥感に胸がざわつく。
食事も作る気が起きず、空っぽの胃に甘い錠剤を水で流し込む。本当に薬は効いているんだろうか? 僕はこれからどうすればいいのだろう? そんな不安にも押し潰されては、知らず知らずのうちに涙を流している。
昼間になれば、なんとか布団から這って出られるようになる。辛うじて食欲は残っており、カップ麺を作って食べて薬を飲む。その後は薬の副作用で眠気が出てくるので、意識を委ねる。目が覚めれば、カーテンの隙間から漏れる茜色に目が痛くなる。
夜は食事も摂らずに早々に布団に潜り込む。昼間に寝ているせいで眠気は一向にやってこない。だから睡眠薬を使って無理やり眠る。眠れない日は少し多めに飲む。一日の中で寝る前が一番悲しくなる。何がという訳ではないが、ただただ、悲しくなる。そのうち夢と現の判別もつかないくらいヘロヘロになって、気づけば朝になっている。
調子のいい日には散歩や買い物に出かけたりした。慣れ親しんだ車で地元の道を走って行く。前は何でもなかった運転という行為が僕にとっては、命懸けの行為になった。まず眠気だ。家を出る前は微塵も感じなかった睡魔に突然襲われることがある。その時は路肩に止めて頬を叩き、大声を出して眠気を吹き飛ばした。そして何より、以前より集中力が格段に落ちたことだ。前方の車がブレーキをかけても、それを認識できない。目では見えているのに身体が動かない。頭が危険を認識できなくなっていた。幸いにも車にセンサーが付いていて、危険を知らせてくれるので今のところは事故を起こしていない。
調子の悪い日はない。だっていつも調子が悪いから。
そうして、僕の時間は過ぎていった。
※
「認知行動療法はご存知ですか?」
受診の時に先生から質問を投げかけられて僕は、妄想の中で先生を殴り飛ばした。
「はい。知っています」
そう答えると先生は認知行動療法について説明を始めた。先生は僕を馬鹿にしているのだろうか。僕が病院でソーシャルワーカーをしていることはずっと前に言っているし、ことあるごとに病院に対しての愚痴も言っていた。だから僕がある程度知識を備えていることもわかっているはずだ。大学時代には社会福祉士と精神保健福祉士の資格をとった。実践は浅いにしろ、最低限の知識はある。それなのに無知な患者に説明する口調に怒りが込み上がってきた。
だからと言って声を荒げたり、無視なんかしない。怒りと不信感を隠しながら先生の話に相槌を打って、その日の受診は終わった。
早速、家に帰って先生から伝えられた行動を実践してみることにした。
ながらく点けることの無かったテレビを流し見る。テレビの情報を無理に頭に入れるのではなく、頭を空っぽにするために使う。何も考えずに見るだけ。
本当にこんなので効果があるのか、甚だ疑問だ。でも悔しいことに、普段のように布団で寝転んだままいるよりかは、幾分かマシだった。
あれ、時間ってこんなにも経つのが遅いんだっけ? と思った。時間があるから何かしようとは思わなかった。ただ思っただけで、何かやろうという気力はまるで湧いてこなかった。むしろ空疎感が膨らむばかりだ。もう死にたくなってくる。
自分の内に飼っている虚無を愛でると涙が溢れた。目元を拭っても涙が枯れることはなかった。その時だった。
テレビで今年の芥川賞と直木賞の特集が始まった。霞む視界の中で一人の候補者の顔と名前に釘付けになった。
小泉叶。
僕と同い年の女性作家。大学生で公募賞の新人賞を受賞して作家デビューを果たし、今では芥川賞の候補者にも名前を連ねる実力派。巷では清楚系美人作家とも呼ばれている。
ああ、どこで道を違えてしまったのだろう。後悔がシャボン玉のように無数に頭の中で膨らんでは弾ける。僕と彼女は同じスタートラインに立っていたはずなのに。どうして、僕は彼女のように生きられなかったのだろうか。暗い部屋の中で、彼女の存在の輪郭が浮かび上がっては消える。青い有機電灯交流の照明のように。
僕、北山晴彦にとって、小泉叶は唯一無二の親友だった。
※
彼女と出会ったのは大学に入学したばかりの頃だった。
高校生の頃から趣味の読書がこうじて自分でも書いてみたいと思い、小説を書き続けてきた。誰かに教えてもらうでもなく、流行りの小説を真似してネットに投稿もしていた。そんな時にサークル勧誘で文芸部の紹介を見て、ここなら執筆仲間ができるかもしれない。そう思って僕ははやる気持ちを抑えながら、文芸部の扉を叩いた。
迎え入れてくれた先輩たちは優しくて、お菓子や飲み物を出して、改めて部の活動内容を教えてくれた。年に数回は同人誌を作って即売会で頒布と隔月の部誌作成。過去に出した同人誌や部誌には、イラストや漫画の割合が多かったが、小説も必ず編集されていた。先輩から、部誌には何を載せるのか、と問われる。僕は胸を張って小説を書きますと言うと先輩たちが湧いた。話を聞くと小説を書く人が何人か辞めてしまい困っていたそうだった。
僕は今まで書いてきた小説を先輩たちに見せた。ネット小説のサイトを教えると先輩たちは一斉にスマホで検索して読み始めた。
今まで直接、人に見てもらう経験がなかった僕は、初めて羞恥心を覚えた。もし、自分のレベルが低かったらどうしよう、言葉の使い方が違ったらどうしよう、誤字脱字は無かっただろうか。だけど返ってきた感想に僕は耳を疑った。
「人気小説のパクリじゃん」「登場人物の名前やば」「難しい漢字使わないでよ」「こんなんでも一応人気出るんだ」「これだったら代わりに書いてあげたくなっちゃうね」
僕は空いた口が塞がらなかった。唖然としている僕には目もくれず、先輩たちは、先輩たちで講評をしていく。はっきり、僕は先輩たちの講評が頭に入ってこなかった。むしろ耳を塞ぎたかった。執筆仲間、友達ができればと思って来たのに、何でこんな目に遭わなければならないんだろう。こんなの晒し首も同然だ。悔しくて悔しくて堪らなかった。
いつまで続くのだろうかと俯いていると、奥の女子部員の輪から一人立ち上がった。
「アホくさ」
彼女の一声で文芸部の時が止まった。顔を上げると顔を真っ赤にして鋭い眼差しを先輩たちに向けていた。
「先輩たち本当に北山くんの小説読んだんですか?」
戦慄きそうな声音には明らかな怒りが込められていた。よく見ると彼女の手にはスマホが握りしめられており、僕の小説が表示されている。
「さっきから黙って聞いてましたけど、もう我慢できない! 他人の書いた小説読ませてもらっているのに馬鹿にして、一体何なんですか⁉︎ まともな批評なんて一つも無いし、アンタらのやってる事はクソみたいなプライド守るためだろ! それに、代わりに書いてあげたくなっちゃう? それは一番言っちゃいけない言葉でしょ! 自分がまともな小説書けないから、彼の小説を見て妬ましかっただけだろうが!」
一気にまくし立てる彼女の圧に先輩たちは、何も言えずに目を逸らした。それでも彼女は止まらなかった。
「大体、最後まで小説書いたことあんのかよ。どうせプロット作って満足するか、途中まで書いて書き上げられないんだろ。口では作家になりたいとか言うくせに、何の努力もしない。そのまま黙ってればいいのに、他人の小説にはやたらめったら口を出しては偉ぶって、ネットで聞きかじったうんちくを得意げに言う。アタシが一番嫌いなやつだよ」
彼女が言い終わると、先輩たちは俯いていた。その様子が息を殺して天敵が通り過ぎるのを待つ小動物のようで、少し気持ちが晴れた。
「ごめんなさい。やっぱりアタシは入部するの取り消します。ぬるま湯に浸かって腐るのは嫌なんで」
すっかりと血の気のおさまった彼女は、僕の手を掴んで立ち上がらせると、勇足で部室の外に出る。扉が閉まる瞬間に彼女は中にいる先輩たちを一瞥して失笑した。
僕は彼女に連れられるがままに後ろをついて行く。部室から離れるにつれて彼女の手の力が弱まってくる。振り解こうと思えばいつでもできるのに、僕は彼女の手から逃れることをしなかった。なぜなら、彼女の手がかすかに震えていたから。部室で僕の代わりに激怒して、先輩たちをボロクソに罵倒し、力強く僕を引っ張り上げてくれた彼女の手が震えていた。きっと彼女も怖かったのだろう。相手は男子で、しかも先輩。怖く無いわけがなかった。部室から離れた所で彼女が手を離して振り返る。
「ごめんなさい!」
彼女はほぼ直角に頭を下げる。
「北山くん、文芸部に入るつもりだったんだよね。なのにアタシが台無しにしちゃった。本当にごめんなさい!」
「頭をあげてください。僕は全然気にしてないので」
彼女が顔を上げると、今度は眉根を下げて心の底から反省しているのが見てとれた。僕もなるべく気にしてないように努める。
「ありがとうございます。僕の代わりに怒ってくれて」
僕も彼女に負けじと頭を低くする。実際、彼女が僕の代わりに声を上げてくれたから、あの場で取り乱すこともなかった。今でも先輩たちの言葉が耳にこびりついて情緒をかき乱されている。忘れたくても忘れられない。悔しくて、情けなくて、なにより自分の手で生み出した子たちに申し訳なかった。自分に実力があれば、貶されずに済んだのに。
だから、感謝こそすれど迷惑なんてとんでもないことだった。
そこでふと気がついた。
「僕って自己紹介しましたっけ?」
部室で自己紹介はしたけれど、あの時は男子の先輩たちに囲まれて、全員にはできなかった。それに彼女は部室の奥で女子の先輩たちに囲まれて談笑をしていた。
僕の質問に彼女はポカンとした顔をする。
「アタシたち同じ学科ですよ。オリエンテーションの時に自己紹介しましたよね?」
オリエンテーションの自己紹介。つい先週のことなのにほとんど覚えていなかった。自分の自己紹介で頭がいっぱいで、他人の自己紹介なんて右から左だった。ましてや自分と絶対に縁の無い女子の自己紹介ならなおさらだ。
もちろんそんなこと言い出せるわけもなく、記憶の引き出しを探っていく。
「えっと、小泉さんでよかったですよね?」
オリエンテーションの自己紹介で思い出そうとするからよくなかった。小泉さんとは必修科目の講義で座ってる席が近くで、出席票を回収する時に一言二言、言葉を交わしたこともあった。
改めて互いに自己紹介をするのに図書館のテラスに移って話をした。
文芸部にいた時点で予想はしていたが、彼女も小説を書いていた。彼女も僕と同じく、小説を書いている友人がいなくて文芸部に見学に行ったが、全くの期待外れ。男子の先輩たちは言わずもがな、女子の先輩たちもなかなかに悲惨だったようだ。特にひどいのが、男子部員とつながって貢がせる女子もいたらしい。それ以外の女子部員も創作活動を行っている人は一人もいなかったそうだ。どうやって抜け出そうか考えているところに僕が現れた。そこで僕が小説を書いている。口だけではなく、ちゃんと創作をしている。彼女にとっては、思いがけない収穫だったとのこと。
話をしていくうちに彼女から連絡先の交換を提案された。女子から連絡先の交換を申し出られたことに内心ドギマギする。けれどそんな僕のことなんか気にせず、彼女は話し続ける。内容はもちろん執筆活動のこと。産みの苦しさ。小説の感想。僕が誰かと共有したかったことを彼女は叶えてくれた。けれども、それは僕の望み。彼女にも誰かと共有したい、分かち合いたい何かがあるのだろう。だから文芸部に足を運んだのだろうから。
その相手に僕がなれたら良い。いや、ならなくてはいけない。僕と、僕の子たちを救ってくれた彼女のためにも。
※
「双極性障害だと思われます」
先生の言葉に、僕は頷くしかなかった。
復職したその日に、上司を殴り飛ばした。徹底的に殴り倒した。
もちろん、そんなことをするつもりはなかった。休職前と同じように仕事をする。ただそれだけだった。実際に休職明けでも変わりなく仕事を始めた。そこにあのクソ女が現れた。そうだ、全部アイツが悪いんだ!
こともあろうに、挑発してきたのだ。
『長い休み楽しかった?』
その言葉に僕は目の前が真っ白になって、気がついた時には、数人の同僚に抑えられながらも上司を殴り続けていた。誰のせいで休職したと思ってるんだ? 休職中、僕がどんな思いで生きてきたかも知らないくせに。
その日は家に帰されて、今日の受診に繋がるわけだ。
不思議と後悔はなかった。むしろ清々しい気分だ。未だかつて無いほどに。
クソ女は仕事中も手を動かさずに、化粧品や美容の話ばかりしていた。それが前から不愉快だった。自分と自分のお気に入りの人にはゆるくて、気に入らない僕にだけ厳しい。
クソ女の話を聞いたことがある。今までにリフトアップや二重整形、鼻梁も高くする整形をしていたはずだ。あの顔面を僕の手でぐちゃぐちゃにした。思い出すだけでも高揚感でふわふわとしてくる。皮が捲れ上がって血が滲んだ手は包帯で包まれていた。この手が僕を救ってくれた。僕が手のひらを見つめていると先生の話が始まる。
「北山さんのエピソードと今回の件からそのように診断をさせていただきます」
今回の受診で生育歴を初めから、より詳細に尋ねられた。僕は生まれてからの記憶を覚えている限り詳細に伝えた。
その結果が、ベースに双極性障害があって就職を機に適応障害の発症。
正直、そんなことはもうどうでもよかった。自分でもこれが操だと理解している。それでもこの高揚感は抑えることができない。今ならなんでもできそうな気がする。
今後のことについて先生に相談をすると延々と話を繰り返していた。止まらない僕の話を先生が遮る。
「今は休みましょう」
先生はいつかと同じような顔で僕の手を握り、震えた声音で言った。
※
大学四年の夏。
僕は教授に就職の内定が決まったと報告に行った。内定先が第一希望だったことと、県内で一番大きい病院だったこともあり、教授だけでなく、大学構内にいた同じゼミの人も駆けつけてくれて盛大に祝福された。みんなに祝福されながら僕はある決心をしていた。
それをこの場にいる誰にも伝えるつもりはなかったし、そもそも関係のない話だ。
その日の夜、叶と一緒に行きつけの居酒屋で乾杯をする。叶はビールジョッキを一気に呷る。今にして思えば、叶とは大学生活で色々とあった。お互いに文芸部で出会い、同じく小説を書いている。話してみれば好きな本の嗜好も同じ。仲良くなるのに時間はかからなかった。執筆のことでぶつかって、苦々しい思いも沢山あった。本当に、沢山あった。
それでも僕は、叶にだけは伝えなければならなかった。僕と叶の間にだけ存在する約束、あるいは目標。
小説家になるという夢。そして、その夢を諦めるということを。
叶にそのことを伝えると、勢いよくテーブルから立ち上がった。
「なんで⁉︎ 一緒に小説家を目指そうって約束したじゃん!」
僕も同じ気持ちだった。本当は諦めたくない。僕が叶の立場なら、同じように檄を飛ばした。でも僕と叶では決定的に違うことがあった。
「才能がないんだよ、僕には」
大学生活の間、執筆活動には必ず叶の存在があった。小説を書き上げれば真っ先に叶に読んでもらったし、逆に叶の小説を読ませてもらうこともあった。その度に痛感した。叶との才能の差を、途方もないほどに。
「才能ならあるよ。だって担当編集だって」
「ないんだよ!」
才能が無いなりに足掻いた結果、公募賞に応募した作品の一つが、ある出版社の編集者の目に止まった。それが大学一年の終わりの頃のこと。
「もう三年だよ? 三年頑張っても出版までいかなかった」
担当の編集者がついてからは、出版に向けてがむしゃらに執筆に打ち込んだ。公募賞にも何十回も応募した。そのうち何回かは、最終選考まで残ることもあった。
けれど、最終選考止まりだった。
「もう疲れたんだよ。夢を追い続けるのに」
「晴彦のいる場所まで辿り着ける人が何人いると思ってるの? まだ三年だよ、もったいないよ……」
叶の言っていることも理解できる。プロの編集者がついていて、公募賞の最終選考の名簿に名前も載る。全国の小説家志望の中で、ここまでいく人が多く無いこと。全部、理解している。でも結局は、小説家志望の中ではだ。
「叶にはわかんないよ。才能の無い人間のことなんて」
僕みたいな小説家志望の気持ちなんて、小説家の叶にはわかるはずもない。僕と違って、初めて応募した小説が新人賞を受賞して、継続的に出版をさせてもらっている叶に、僕の気持ちなんて。
「なんでそんなこと言うの?」
叶の言葉に険が帯び始めた。何度も聞いた声のトーン。こうなったら、もう止まらない。僕は身を硬くしたけれど、叶はいたって穏やかな口調だった。
「才能、そんな言葉で片付けていいの? 晴彦の今までの時間と努力。才能なんて言葉でで簡単に片付けていいの?」
諭すような言葉に僕は俯くしかなかった。なんで、いつもみたいに檄を飛ばさないんだろう。いっそのこと、盛大にバカにしてくれた方が良かった。そうすれば、僕は叶を嫌いになれたのに。
「結局、晴彦は大学一年生の時の、あの文芸部の部室の中から抜け出せなかったのね」
叶は伝票を持って席を立った。僕が顔を上げると、叶の目には初めて見る感情が差していた。憐憫。これ以上、話すことは無いと背を向ける。
「さようなら。また、どこかで」
それが叶から僕への最後の言葉だった。
※
病院帰りに本屋に立ち寄った。入り口には小泉叶著の新作、芥川賞受賞作が派手なポップと一緒に平積みされていた。僕は何も考えずに本を手に取り、冒頭から数ページを読む。やっぱり、学生時代とは違い文章が洗練されている。また一ページ、一ページと捲っていく。数十ページ読んでから、僕は自分が文章を読めていたことに驚いた。他の本は数行と持たずに目が滑っり、文字が波打って読めなくなる。それなのに、小泉叶の小説、文章は読めた。僕は読みさしの本をそのままレジに持っていく。この本には、税込一六二八円以上の価値がある。そんな予感がした。
本を読み終わったのは翌日の朝のことだった。買ったその日に徹夜で読み切ってしまった。おもしろかった。すごかった。そんなチープな言葉で表せない感情が渦を巻く。
おそらく僕は、他の誰よりも長い時間、小泉叶と、その才能と向き合ってきた。
小説には、文章には必ず綻びがある。著者の心象を写し取った世界には、必ず著者がいる。限りなく存在を消しても、残り香のようなものがある。きっと著者はこの場面で笑ったんだろう、泣いたんだろう、怒ったんだろう。そんな感情のスパイスが混じり込み、小説の中に著者の陰を見ることがある。それが僕にとっての著者と繋がる糸となり、共感することができた。
それなのに、小泉叶の小説にはそれがなかった。彼女の本には、小泉叶という存在が欠落していた。心象スケッチ。どこかで見た言葉が当てはまった。けれども、心象スケッチというには温かみが欠けていた。文章に血が通っていなかった。工業製品のような小説。
かつて僕は才能を言い訳にして筆を折った。小泉叶を、その才能を言い訳にしてしまった。だからこそ、彼女の才能がこんなものだと認められなかった。
ああ、そうか。だから僕は、この本を読み切れたのか。他者との繋がりを断ち、内にある心象風景を完璧に写し取る。版画のような小説。この本を読んでいる時、僕は小泉叶の存在しない、小泉叶が生み出した心象世界閉じこめられた。閉ざされた世界には、自分以外の存在はいない。月を映した湖のように、手を伸ばさない限りは波紋すらたたない。この瞬間だけは、才能を忘れさせた。忘れさせてくれた。
それだけに虚しかった。僕と彼女の間には、三十八万km以上の隔絶があった。因果交流電灯の繋がりも絶たれ、淡く明滅する青白い光だけが彼女の存在証明。僕は彼女を見つけることができた。けれども彼女が僕を見つけることは無い。
本の末尾に一文添えられていた。
『さようなら。また、どこかで』
その言葉が、誰に向けられたものなのか、今の僕には推し量る思考すら残されていなかった。
※
パソコンの電源を入れ、白紙の文書に文字を入力していく。この前の受診の時に先生から「今の感情を日記でも良いですし、文字に起こしてみると気分転換になるかもしれませんね」と言われた。早速、僕は実行に移した。実践してみると思ったより上手くいった。それでも癖で日記ではなく、小説調になってしまう。書き起こした文字が単語へ、単語から文章へ、文章から小説へと形を変えていく。書いていくうちに思考と指が止まらなくなっていく。今なら何時間でも、徹夜で書き続けられそうだった。書いては消して、書いては消してを何度も繰り返した。今だけは、かつて夢見た小説家になれた。
翌朝、目を覚ますとパソコンのモニターには白紙の文書だけが映し出されていた。
「白紙」 北山カノン@お焚き上げ @Monaka0723
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます