最終話

「先生」

「何だい?」

「私、いつ頃退院できますか?」

 きっと千穂がそう言うと察していたのか、担当医はさして考えもせずに回答した。

「そうだね、検査結果はどこにも異常はなかったから、まぁ一応数日様子は見せてもらいたいけれど、週明け半ばには大丈夫だと思うよ。しっかり食事を摂ればね」

 医師として言うべきことを言ってはいるが、つまり体力が戻れば、すぐにでも退院できるということだった。

「お母さん」

「いいわよ」

 千穂が何も言わないうちに、母親は既に許可を出した。自分の娘のことだ。長い間一緒にいて、ずっと見てきた。そして、今少し話をしただけでも、更に成長したのだなとわかった。そんな娘が言い出すことを当てることなど、さして難しくもない。

「え?」

「会いに行きたいんでしょう? 千葉に」

「そう……よくわかったね」

「何年あなたの母親をやっていると思っているのよ」

 涙の跡を残しながらも、母親は朗らかに笑った。千穂はやはり母親とはすごいなと感じる。

 本来親とはこういうものであり、子供が多少無理やわがままを言ったくらいで、見放されたり捨てられたり、ましてや殺されるなど考えたこともない。だからこそ、美咲の過去を追体験した時には、夢だ嘘だと担当医が笑い飛ばしてくれることを期待した部分もある。

 しかし、現実はそんなに優しい世界ばかりではないと知った。それならきっと、あの場所に行けば浅倉重音という青年は実在するはずだ。

「はは、やっぱりお母さんすごい。じゃあ、行ってもいいのね?」

「ダメって言っても聞かないでしょう? 千穂は本当に頑固なんだから」

 呆れた風に言う言葉には、優しさや愛おしさが満ちている。担当医はあの少女の心臓が移植されたのが千穂でよかったと、心から思った。提供者の情報はある程度は知っていても、もちろん最小限のものでしかない。プライベートに関して言うなら、今の千穂の方がよほど彼女を知っているのだろう。

「この子の代わりに、お礼を言いたいの。それからもちろん、私の分も」

 これまでどんなことにも夢中になれなかった──なろうともしなかった千穂。「どうせ私はもうすぐ死ぬんだから」と言って、いつも物事をわざと悪い方に考えていた。その方が、実際に悪いことが起こった時に受けるショックが少なくて済むからだ。

「一人で行ける?」

「うん、覚えてる。おばあちゃんの住んでた辺りだったから」

 美咲にとっては行ったこともない見知らぬ場所だったあそこは、千穂の母方の祖母が暮らしていたところだった。幼い頃からおばあちゃんっ子だった千穂は、父方の祖父母も嫌いではなかったが、祖父を早くに亡くして一人で住んでいる母方の祖母の方によりよくなついていた。

 その祖母は千穂が高校二年の夏休みに心筋梗塞で亡くなった。そのしばらく後に自分の心臓の具合が悪いと知った時は、祖母が亡くなった時の苦しみを想像し、哀しみを思い出して、自分のことではなく祖母を思い出して再度泣いたくらいだ。

 だからきっと、その場所を強く思い浮かべたのは千穂の心だったのだろう。美咲を見知らぬ場所に放り出すことになってしまったが、おかげで重音に出会えたのだから、まったく人生とは不思議な縁でできているものだ。

「わかったわ。何かあればすぐに迎えに行くから、必ず定期的に連絡することだけは約束してくれる? 過保護でしょうけれど」

「うん、わかった。実際私、こんな事故に遭っちゃったし、周りが見えてないから危ないのはわかってる。むしろ心配してくれる人がいるなんて、それだけで十分恵まれてると思うよ。ちゃんと約束する」

 自分ではない誰かに急成長させられた娘を、複雑ながらも喜んで母親は見ていた。きっともう、彼女は大丈夫だろう。どんなに自分の方が健康だとは言え、いつ何が起こるかもわからない。お互いに平均寿命まで生きられたとしても、親の方が子供より先に死ぬのは道理だ。けれどもう、心配はいらないと思える。

「あ、先生。──痛っ」

 ふと千穂が勢いで担当医に顔を向けた時、まだ頭部の痛みがあったことを思い出した。

「おやおや、無理すると退院が遅れるよ」

 幼い子供に注意するように、担当医は穏やかに諭す。千穂も「えへへ」とはにかんだ。

「あの、私の話、例えば学会で発表とか、しますか?」

「いや、しないよ」

「それは、信じてもらえないからですか? 私だったら別に、名前を出してもらっても構わないし、何なら証言もしますけど」

 まるで裁判にでも出廷するかのような言い方に、思わず担当医も母親も苦笑する。しかし、医師は再度首を横に振った。

「別に僕は社会的地位や名声にはあまり興味はないんだよ。それに、あまり有名になるのも娘が結婚できないって嫌がるからね」

 本当に千穂に遠慮しているわけではないようで、そんなプライベートを口にした。千穂は思わず驚く。

「え? 娘さんって、私と同じくらいって言ってましたよね? とっくに結婚してると思ってました。私に気を遣って話さないだけかなって」

「いやぁ、千穂ちゃんと同じくらいだとは言ったけれど、ついこの間誕生日が来て、とうとう三十路に入ってしまったよ。娘が未婚というのは、父親としては嬉しいような淋しいような、複雑な気持ちだけれどね」

「先生が有名だと、結婚できないの?」

「まぁねぇ、時々人数合わせで合コンやらに呼ばれて行くらしいんだけれど、父親が医者だと言うだけで、男性が言い寄ってくるんだそうだ。珍しい名字のせいもあって、その名で医者と言えば、もう僕だとバレてしまうらしくてね。相手も当然結婚を視野に入れて集まるような年齢層の男性だから、まぁブランドとしての価値はあるんだろう。それを娘が嫌がるんだよ。おかげで見る目が養われて、変な男に捕まって失敗する心配はなさそうだけれど、最近はそんなくだらない男と結婚するくらいなら、一生独身で自由でいたいなんて言い出す始末だよ」

 照れ笑いを浮かべて、嬉しそうに娘の話をする担当医を、千穂は不思議な表情で見つめていた。きっと家庭ではいい夫であり、いい父親なのだろうなという気はしていたが、むしろそんな家族のおかげで彼は医師を続けていられるのかも知れない。

 見知らぬ他人とは言え、そしてそれが仕事だとは言え、やはり人が死ぬ場面に立ち会うことは、他のどんな職業と比べても圧倒的に多いのだ。どこかで息抜きをしたり、癒やしがなければ精神的にも保(も)たないだろう。

「まぁ、最近は女性で結婚しない人も多いし、娘がそれでいいなら構わないけれどね。孫を抱きたいなんて、それはただの親のエゴだし、この世に産まれ出た時点で子供はもう別の一つの人格を持った人間だ。誰であってもその進む道を強制できないよ。幸せを望むくらいがせいぜいだね」

「そっか……。じゃあ、さっきの話は……」

「僕と千穂ちゃんの雑談に過ぎないよ。カルテにも書いていないしね。お母さん以外、誰も聞いてもいないだろう? 僕は物忘れが激しくて困っているんだよ」

 不器用に、あまりうまくないウインクをするチャーミングな初老の男性に、千穂は笑った。

「あはは、私も夢を見ていたのかも知れません。早く体調戻して、退院しなきゃ」

「そうだね。できれば定期検診の時以外は会わないくらいの方が、僕は嬉しいけれど。もう救急車で運ばれるようなことはしないでおくれよ。僕も若くないんだから、驚いて心臓が止まってしまう。でも、きみの話は楽しいから、いつでも遊びにおいで。健康な状態で会えるなら、その方がいいからね」

「はい。ちょっと冒険して、土産話を持って帰って来ますね」

 軽い口約束のように、固い誓いを交わす。

 生きながらえるだけなら、進歩した医療のおかげでそう難しい話でもない。しかし、楽しい人生を送るのは、受け身のままでは難しいと知った。そして、一人ではそれは成し得ないのだということも。

 だから千穂は、二人分の楽しみを生きたいと心から思った。



 退院の翌日、とても晴れていて空気が澄んでいるのがよくわかった。その分冷えるが、心臓が動いている限り、その体温が一定以下に下がることはまずない。普通なら考えもしない当たり前のその事実を、千穂は改めてありがたいものだと感じた。

「あなたのおかげね。ありがとう」

 駅に向かって千穂はゆっくりと歩き出す。外出は久々だし、電車に乗るのは年単位で久し振りだ。

「重音くん……かぁ。歳の差は八歳……さすがに大きいかなぁ? あ、美咲ちゃんの好きな人を奪ったりしないよ? さすがに向こうもアラサー女は範疇外だろうしね」

 千穂は一人で歩いている。もともと独り言を言う癖はないし、今でもない。それなら誰と話しているのか? もちろん、自分の左胸に収まっている少女とだ。片手を胸に当てると、返事をしてくれる気がする。

「お礼と、経過報告に行くだけだから。あ、そうだ。面白い本があったら、教えてもらおうか? 私も無趣味だからなぁ。読書が趣味ってありきたりだけど、何もないよりいいよねぇ」

 何に対してもろくに興味も持てなくなっていたから、家にいても寝ているばかりだった。そこまで体調が悪いわけでもないのに、気持ちが落ち込むと眠るしか気を紛らせられる手段が思いつかなかった。時々パソコンに触ってみるものの、ゲームをするでもSNSを覗くでもなく、あらゆるものから距離を置いていた日々。退屈だったけれど、「どうせ私なんてすぐに死ぬんだし」とすべてを拒絶していた。

「ねぇ、重音くんに何か伝えたいことはある? 電車の中で考えておいてね。案外早く着いちゃうよ」

 傍(はた)から見れば一人でくすくす笑っているようだけれど、千穂は彼女と一緒に笑っているつもりでいる。脳も精神も正常だ。自分が周囲からどう見られているかもわかっている。けれど、だから何だ。誰にも見えなくても、信じなくても、私は一人じゃない。何故なら、胸に当てた手に、鼓動が感じられるから。

 千穂の壊れた心臓はもうここにはない。佐倉美咲という少女のものが、代わりに収まっている。きちんと生きるための役割を果たしてくれている。

 この世からいなくなってしまった彼女の身体の在り処はわからないままだけれど、心臓はここにちゃんとある。哀しい記憶も一緒に持っている。だからこれから、一緒にそこに幸せを上書きしていこう。十九年分の不幸など、まだ取り戻せる範囲だと思う。

「私はたくさん幸せを探すよ。楽しいこともたくさんしよう。だから、心臓を動かすところだけ、お願いするね」

 トクン、と大きく鼓動が跳ねた気がした。

 浅倉重音という青年に会いに行くために電車に乗る。まるで、かつて祖母に会いに行っていた頃のような、無邪気で純粋な楽しみの感覚が心に浮かんだ。

 ──重音くん。

 そう後ろから呼び掛ければ、もしかするとそれが美咲だと気付いてくれるかも知れない。

 何となく、そう確信できる気がした。

 

                             〈了〉

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死んでからわかった、私のいろいろな本当のこと 桜井直樹 @naoki_sakurai_w

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