第17話

 担当医の話では、千穂はなかなか適合する相手を見付けるのが難しい型らしく、どれだけ提供者がいても、うまく適合して生きながらえる可能性が低ければ、それはもっと相性のいい患者へと回される。だからこそ、移植の時期はいつになるとも言えず、銀行の順番待ちのように明確な数字もなかった。

 しかし、逆に言えば、それだけ難しい型だったおかげで、うまく当てはまる提供者が見つかれば、突如優先順位のトップに躍り出るのだ。おかげで、当時はまだ千穂には知らされなかったが、担当医としては運に翻弄されるしかない千穂を不憫に思っていたものの、奇跡的に現れた提供者のおかげで千穂は無事に心臓移植を終えた。経過も良好で合併症もなく、年齢がまだ若いこともあってか、本人が望めば社会復帰もできるまでに回復した。

 それでも、千穂のささくれた心は癒やされなかった。移植が成功して健康を取り戻したとしても、やはりもとから健康な人と自分は違う。それを知って恋愛や結婚をしてくれる相手がいるとは考えられなかったし、万一結婚や出産ができたとしても、その子供に心臓の病気が出たらどうすればいいのだろう。それは自分のせいだと、千穂は自分を責めるだろう。誰の慰めの言葉も耳に入るとは思えない。

 結局、移植を受けたところで自分の人生が他の人のように前向きに進むとは思えず、他人を羨んでは自分を見下(みくだ)し、他人に嫉妬しては自分を罵った。

 そうやっているうちに、千穂は二十八歳になっていた。いまだに実家暮らしで、両親は健在だが父親は先日海外出張に出たばかりだ。この場に父親がいないのは、発(た)ったばかりのところを呼び戻すことを母親が躊躇(ためら)ったことと、担当医の「大丈夫ですよ」という言葉を彼女が信じたからだ。

 千穂の移植手術ができたのは、父親が立派な大手企業に勤めていて、一般的な家庭よりは裕福だったこともある。その分、仕事が忙しいのだろう、千穂と接する時間をあまり持てず、それさえ千穂は自分のせいだと考えていた。だから、自分は移植など受けたくないから、仕事を早く終わらせて帰って来て欲しい、母親が淋しそうで可哀想だから、自分のせいで苦労する必要はない、と言ったこともあった。その勢いで、「どうせ私なんかすぐに死ぬんだから、お母さんとの時間を作ってあげてよ」とまで言ってしまい、普段は穏やかな父親を珍しく激怒させてしまったこともある。

 父親の帰宅が遅いのは、別に千穂の手術費用を稼ぐために無理に残業をしているわけでもなく、たまたまそういう忙しい部署にいたというだけなのだが、何でも自分のせいだとマイナスに解釈してしまう時期でもあった千穂には、そう言われても信じられなかった。

「……私は、本当はすごく幸せだったんだな……」

 いろいろな出来事が時系列を無視して脳内によみがえり、千穂は無防備に呟いた。時折覚えのない記憶が挟み込まれるのは、美咲のものだろうか? 油性マジックで「死ね」と書かれた教科書や、一人暮らしのボロアパート。千穂の感覚で見れば、それは解体間近ではないかとさえ思えるほどに、人の住む気配はなかった。自分はもちろんそんなところに住んだことはないし、友人にもそこまで貧しい暮らしをしている者はいない。むしろ結婚して家を建てたとか、地方に引っ越したという話の方が多い。そう、自分にはまだ繋がっている友人がいるのだ。

「お母さん」

 じっと天井を見つめたまま、千穂は母親に呼び掛けた。長らく聞いたことのないような、優しく甘えた声に、呼ばれた母親はもう目に涙を溜めていた。

「なぁに?」

 握ったままの手に力が込められる。

「今までごめんね。私、自分がどれだけ恵まれて幸せに生きてきたのか、全然自覚してなかった。むしろこんな不健康に産んだってお母さんを責めたこともあったよね。あれは、本当にごめんなさい。あの時からずっと酷いこと言っちゃったってわかってたのに、謝れなかった」

「いいのよ、そんなこと」

 母親の目に溜まった涙が、音もなく流れ落ちる。顔が見えない千穂にはわからないが、しかしきっとこういう時に母親はよく泣くということを知ってはいた。

「私に心臓をくれた子は、もちろんもう生きてないよね。だけど、きっと生きてやりたいこともあったと思うんだ。なのに私は、せっかくそんな大切な命をもらっておきながら、もう何でもできるようになってるはずなのに、家にこもってウジウジしてるばっかりだった。私を可哀想だって言う人の言葉の裏を読んで、嫉妬したり鬱陶しく思ったりして、全然前向きじゃなかった。先生にも許可をもらえてるのに、働くどころか何も動こうとすらしなかった。贅沢過ぎるよね」

「千穂……」

 あんなにささくれ立って感情的だった娘が、穏やかに反省の言葉を述べるのを聞いて、母親は少なからず驚いた。しかし、根は優しい子だと知っている。我が子なのだから、どんな酷い言葉を投げられても愛情が薄れたりはしなかったし、病気を可哀想に思う気持ちや健康に産んでやれなかった申し訳なさはあっても、恨む気持ちなど微塵もない。だって自分は彼女の母親なのだ。どんな子供であろうと、無条件で愛するに決まっている。

 しかし、娘の話を本気に捉えれば──もちろん疑う気持ちなどまったくなかったから、認めたくはなくても信じるしかないのだが──世の中には自分の産んだ子供すら愛せない親も実際にいるのだ。テレビのニュースでもよく見るし、新聞にも載っている。それが嘘だとは思ってはいないが、少数のものをわざわざ引っ張り出して、センセーショナルに報道しているだけだと考えていた。最近はテレビを見る者も減っているから、どうにか気を引きたいのだろうな、などと呑気に思っていたのだ。彼女もまた、恵まれた裕福な家庭のお嬢様育ちであったせいもあるのだろうか。

「さすがに働いた経験もないから、外で仕事を探すのは怖いけど、今じゃネットでできる仕事もたくさんあるでしょ? もちろん一人で外出もできる。見た目は健康な人と変わらないと思うし、私が憐れんで欲しいような嫌味なことを言わなければ、もう少しうまく人付き合いもできるかも知れない。生きている限り、可能性ってたくさんあるんだよね。私はこの心臓(こ)に、それを教えてもらった気がするの。あとはそう、あの男の子にも」

 美咲の顔は結局わからなかったが、重音の姿はまだはっきりと覚えている。目付きが悪くてぶっきらぼうに話すくせに、根はとてもいい人だった。自分に何の得があるわけでもないのに、困っている人を放っておけない優しさに救われた。聡明で読書家な彼も、何かしら抱えているものがあるようだったが、それは訊けずじまいだった。それでも、彼は前向きに生きていると思う。おかげで、美咲と千穂を救うことに繋がったのだから。

 千穂は空いている方の手を左胸に当て、愛おしそうに撫でた。そこにいる誰かを慈しむように。

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