第16話

「そうそう、僕の友人にある女性がいてね」

 千穂が納得したような顔になると、担当医はおもむろに話し始めた。ただの雑談ではないだろうということはすぐに察した。

 この医師は結構情にもろいところがある。年齢を重ねたせいか、無事に千穂が目覚めたことに安堵したせいかはわからないが、そのあたりの栓が緩んだのだろうか。

 あまり患者に入れ込み過ぎるのは、必ずしも受け持った患者が長生きするとは限らない外科医としては致命的に辛いのではないかと心配になったりもするが、公私混同はしないでいられる意外な職人気質があったりもして、円満な家庭を築いていると聞いたことがあった。千穂と同じくらいの年頃の娘がいるらしく、「いい家族に恵まれて幸せだ」と満面の笑みで言っていたことを思い出す。あの満面の笑みは、決して飾りのものではないと思ったから、千穂も徐々に心を開いていったのだ。

「彼女がまだ若い頃、電話で少女から質問を受けたことがあるそうだ。彼女は医師ではないけれど、当時から人の命に関わる仕事をしていてね。その少女はこう訊いてきたそうだ。『自殺者からでも、臓器提供はできますか?』と。匿名での電話だったから、誰か特定の人物に臓器を差し出したくて死のうと考えたのか、自殺したいほどに辛いことがあるけれど、せめてせめて肉体の一部だけでも誰か幸せな人の中で生きていたいと思ったのかはわからない。けれど彼女は、職務上嘘を教えるわけにはいかないけれど、とは言え自殺を促すようなアドバイスもできないし、大変悩んだそうだ。だから困りながらも誠意を持って答えた。臓器提供は何より本人の意志が尊重されるから、カードでもインターネット登録でもいいから、意思表示をしておくように提案したんだ。もしも免許証を持っているのなら、その裏面にも意思表示ができる欄があるから見てごらん、とね。すると今度は少女はこう質問した。『もしも私が誰かに殺されてしまっても、移植はされますか?』と。そこで彼女は察したそうだ。家庭に問題があって自殺を考えているか、それこそ親に殺されるかも知れないような危機的状況にあるのではないか、とね」

 千穂の様子を見ながら、担当医はゆっくりと話す。母親は息を飲んでその現実とは思い難い話を聞いていたが、千穂は覚悟のある目で続きを待っていた。担当医は心の中で、「変わったな」と千穂を評する。

 もともと目付きだけでなく、意地や負けん気も強い千穂だったが、今は以前とは正反対の方向に向いた意志の強さが見えた。きっと先程彼女が話したことは、決して嘘や想像ではなく、夢や希望でもないのだろう。勢いで本音を言い過ぎてしまうことはあっても、決して嘘はつかないと、長い付き合いの中で担当医も理解している。

「だから彼女はこんな例を挙げたそうだ。『おとぎ話のように聞こえるかも知れないけれど、亡くなった方の臓器を移植した場合、稀にレシピエントに記憶が残ってしまう例があるそうです。だから、もしもあなたの希望通りにあなたの臓器が誰かを救うことができたとしても、あなたが万一自殺などで辛い思いを抱えたまま死んでしまったとすると、移植を受けた患者さんがその記憶を思い出してしまったら、とても哀しいだろうし、困ってしまうと思いませんか? 幸せな人でなければ移植ができないわけでは決してないけれど、あなたがもしも自分の意志で誰かの命を救いたいと考えているのなら、せめて頑張って生きてください。それでも万一のことがあった場合には、きちんと意思表示さえしておけば、必ずあなたの意志が尊重されますから』とね。少女は泣きながら『ありがとうございます』と電話を切ったそうだ。もちろん、匿名の電話だから、それがどこの誰なのか、その後どうなったのかは知る由もない。彼女はそのような電話を受けたのはそれが初めてだったから動揺したらしいけれど、その仕事を続けるうちに、似たような相談を受けることはままあると知ったそうだ。きっと、自分が今生きていたくないような辛い環境にあっても、心のどこかには生きたい気持ちもあるんだろう。だから、せめて身体の一部だけでも誰かの役に立てるなら幸いだし、自分の存在が世の中や人の記憶から消えてしまっても、レシピエントが生きてくれている限りは、そこに自分の一部も一緒に生きていると思えるんだろう。だからレシピエントが生きているということは、亡くなった提供者の分まで背負っているようにも受け取れる。もちろん肝臓などのように、生きた人から少しわけてもらうような臓器もあるがね。当然ながら、人を殺してまで手に入れた臓器ではないし、提供者自身や遺族が望んだことだから、レシピエントが罪悪感を感じる必要はまったくないんだよ。僕が言いたいことは、わかってくれるかな?」

 担当医は千穂に問う。彼女は黙って強く瞬きをした。そして「はい」と言い切った。

「これは僕と彼女の若い頃の昔話だから、その少女と千穂ちゃんの言っていた女の子とは関係ないのだろうけれど。思い出した話はしておかないと、この頃物忘れが酷くてね」

 ふふふ、と自嘲気味に笑うところを見ると、物忘れが気掛かりなのは事実のようだった。それが加齢というものなのだと思う。

 抗いようもなく過ぎる時間を、千穂は長く無駄にした。高校卒業はなんとかできたものの、三年生の頃にはほとんど瀕死のような状態という気持ちで通っていたような気がする。

 心臓移植をしなければ長く生きられない上に、このまま放置して提供者を待つ余裕もないということで、補助人工心臓を装着することになった。大学進学も断念し、就職する気持ちにもなれないで、感情ばかりがささくれ立っていた。

 千穂に必要な臓器が心臓である以上、もしも自分が提供を受けられるとしても、それはつまり、どこかで誰かが死んだのだということは否定しようがない。

 当時もこの担当医に、提供者の意志で移植されるのだから、きみが罪悪感を持つ必要はないし、むしろ提供者は喜んでくれるだろうとも言われたが、守秘義務だとかで相手がどこの誰なのかも教えてもらえず、死んだ人間の健康な心臓をもらってまで長生きする価値など、自分には見出だせなかった。

 そのうちに友人たちは進学や就職など、千穂が経験できなかったことを経て、さらには今後自分にそんな機会があるとも思えないような結婚や出産さえしていく姿を見て、喜ぶ声を電話で聞かされて、見知らぬ夫や子供の写真入りの年賀状を送りつけられるたびに、得体の知れない虚無感に襲われた。

 千穂は自分は幸せにはなれないと、勝手に決め込んでいた。そもそも、自身が非常に幸運だったと知ったのは、その二〇一九年に移植手術を受け、調子が安定してきたと確認されてからだった。

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