第15話

      ***



 握っていた手に少し力が宿った気がして、ふと顔を上げた。立ち上がって、娘の顔を覗き込む。まだ表情はぼんやりとしてはいるが、しっかりと視線を合わせることができた。

「千穂(ちほ)!」

 その名を呼んで、慌ててナースコールのボタンを押す。看護師が来る直前に、娘が「お母さん……?」と呟いた声を聞いて、安堵のあまりに堪(こら)えていた涙がどっと溢れ出た。

 看護師たちが病室に入ってきて、すぐに担当医も現れた。千穂はまだぼんやりとしているが、意識は確かに戻ったようだ。

「ねぇ……かさねくんと、みさきちゃんは……?」

 母親は不思議そうな表情になり、「それは千穂のお友達?」と訊く。担当医は少し驚いた表情になったが、それに気付く者はいなかった。

「千穂ちゃん。気分はどうかな?」

 初老の担当医は、穏やかな笑みを浮かべながら周囲に接続されている機器類に視線を走らせて数値を確認する。異常はない。

「大丈夫……です。頭が、痛い……あと、背中」

「事故のことは覚えてる?」

「事故? お母さんに、殴られた……?」

 その言葉に、母親は驚いた表情になって担当医を振り返った。もちろん、千穂が病院に運ばれた原因は、母親が彼女を殴ったせいではない。

「うーん、まだ混乱しているのかな? もう少しゆっくりしようか?」

 穏やかに言う担当医に、千穂はハッとする。

「違う……違います、ごめんなさい。私は……そうだ、さつきと電話をしていて……それでまたイライラして……八つ当たりしてお母さんとケンカして、勢いで家を飛び出したんだっけ……? それから……ああそうだ、車が走ってきたんだ……」

「そう、家を出た途端、きみは交通事故に遭ったんだ。幸い、引き止めに来たお母さんがすぐに救急車を呼んでくれたし、運転手もひき逃げをしたりはしなかったから、酷い状態にならずには済んだけれど、意識を失っていたから、いろいろ検査させてもらったよ。頭を強く打っていたのは気になったけれど、大丈夫そうだ。背中はどうやら直接車に接触したようだけれど、骨なんかには異常はないから安心しなさい。湿布を何日か貼っていれば治るからね」

 にこやかに言って、担当医は看護師たちを下がらせた。個室には母親と担当医だけになる。

「ともあれ、意識が戻ってよかったよ。命には別状はないのに、なかなか意識が戻らないから、僕も慌てたよ。お母さんが機転を利かせてこの病院を指定してくれたことや、まだ僕が院内に残っていた時間だったのも、不幸中の幸いだ」

「あの……」

 担当医の見慣れた頭頂部をぼんやりと視界に入れながら、千穂は考えを巡らせる。

 この医師の髪がまだもう少し後退していなくて、残っている髪もまだ黒々していた頃からの付き合いだ。千穂の性格はよく知っているだろう。そして千穂もまた、彼を理解し、信頼できるほどにまで漕ぎ着けただけの時間は持っていた。

「少し、お話ししても、いいですか?」

「千穂ちゃんは苦しくないかな? 急ぎでなければ、僕は明日も来るけれど」

「いえ、できればはっきりと覚えているうちがいいです」

 いつもにも増して強い口調に、しかし普段の投げやりさではなく、確固たる意志を感じた担当医は、母親と顔を見合わせた。お互いに頷き合う。

「きみが大丈夫なら構わないよ。その代わり、調子が悪くなったらすぐに言うんだよ」

「はい」

 頭が痛いので、千穂は声で返答する。

 そして今まで見ていた夢のような体験──美咲と重音の話をした。千穂の見知らぬ二人の話を、まるで自分が見てきたかのように話せるのが、我ながら不思議だった。しかし、それは担当医が何かしらの答えをくれるだろうと思ったから、思い出せる限りなるべく詳細に話した。

「ちなみに今日は、二〇二三年の十一月六日で合ってますか?」

 万一自分の方が間違いであったらどうしようかと、一抹の不安を抱えながらも、千穂は最後に付け加える。

「正確には、もう日付が変わってしまったから、七日になるけれど、きみの感覚は正しいよ」

 担当医が太鼓判を押してくれたので、ようやくホッとする。しかし、継がれた言葉には絶句した。

「そしてきみが心臓移植を受けたのは、二〇一九年の十一月四日だったのは覚えているかな?」

 確かにそうだった──とは咄嗟に思い出せなかった。当時は不満がたくさんあって、せっかく見つかった臓器提供者の存在にも、素直に喜べなかった。そのせいで、わざわざ手帳の日付に印を付けたり、毎年その日に何かをするようなこともなかったからだ。

 ただそう言えば、休みの次の日だったと思い出す。当時から仕事はしていなかったし、休みの感覚がないどころか、いつ終わるとも知れない休みの真っ最中で飽き飽きしているような毎日だったのだ。友人たちは結婚したり出産したりと、人生を楽しんでいるように見えて、そこにわざと自分の不自由な部分ばかりを重ねて妬んだり恨んだりの日々だった。すべてのものが疎ましく、いっそ自分など早く死ねばいいとさえ考えていた。

「きみが言う通り……というか、その青年の言う通り、と言うべきかな? 臓器移植を受けた患者さんが、もとの持ち主の記憶を部分的に持っている場合があるという症例は、確かにある。実際に僕が受け持った患者さんから話を聞くのは、長い医師人生の中でも千穂ちゃんが初めてだけれどね」

 冗談を交えたように笑って、担当医は穏やかに続けた。笑顔の優しさは相変わらずだけれど、皺が増えたなぁと千穂はうつろに思う。

「ただ、医師にも守秘義務というものがあるのはわかってくれるだろう? だから千穂ちゃんがその人の名前を聞いたとは言え、それが正しいとも違うとも、僕からは言えない。でも僕は、千穂ちゃんは嘘をつくような子ではないとは思っているよ」

 それだけで、もう十分な回答だった。移植手術を担当してくれた医師であり、もちろんそれ以前に補助人工心臓の装着手術をしてくれた医師でもある。付き合いはそれなりに長いし、千穂の反抗的な態度にも辛抱強く付き合ってくれた、家族の一人のような存在だ。だから、この言葉が肯定を意味しているということも、千穂にはわかった。

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