第14話

 私がよかれと思ったことは、大抵の場合は裏目に出る。会社でも、誰かが忘れたらしい仕事の書類があったので片付けておいたら、余計なことをしないでくれと言われたことがあった。

 忘れないように目に付くところにわざと出してあったのに、私が片付けてしまったせいで、危うく忘れてしまって先方に謝罪に行かなければならないところだったそうだ。本人が覚えていたからすぐに探して取り掛かれたらしいけれど、わざわざ「仕舞い忘れていたようなので片付けておきました」と言うのも恩着せがましいと思って、何も言わなかった私が悪いのだと思う。

 その一言も、言うべきかどうか迷った末に、言わないと判断したものだった。迷った挙げ句に間違えるなんて、二択ですら正解できない自分が情けない。

「それに、その人も多分そこまで嫌だったわけじゃないと思う。本当に嫌なら、拒否すればそれは他の人に回せるだろうし。俺が『可哀想』って言葉を使ったから反射的に返ってきただけで、本音かどうかもわからない。ただ、移植が必要なくらいなら、それまでにさんざん言われてきた言葉なんだろうし、他人から憐れみの目で見られる腹立たしさは、わからなくもない」

「そうだね。それは、ちょっとは私もわかる……かも」

「まぁ、全部推測だから。あんたは死んでると決まったわけじゃないし、少なくともこの身体の人は生きてるから、あんたの戻る場所はあるはずだ。あとはそれがどこにあるかを探さないといけないけど……あれ? おい、どこ行った?」

 急に重音くんが周囲をきょろきょろし始める。私はずっと同じ場所にいる。座った姿勢のまま、けれど少し浮いているだけで。

「え? どうしたの? 私、ここにいるよ?」

 少し焦って答える。

「声は聴こえる。でも、見えなくなった。透けてるとかじゃなくて、俺の視界からあんたの姿が消えた。どうして……」

 はっと息を呑む。私もさすがに理解した。もしかするとさっきの重音くんの言葉がトリガーになって、身体の意識が戻りかけているのかも知れない。私がそちらに引き戻されるのかも知れない。

「──待て! 美咲! あんたは人の役に立った! あんたに助けられた人が絶対にどこかにいる! もしもあんたが死んでたとしても、俺はあんたの存在を覚えてるから! あんたが身体に戻って俺を忘れたっていい! 俺は美咲を忘れないから! だから、そこで生きろ! 辛い過去があっても、これからの未来だって、全部あんたのものだ!」

「重音くん! ありがとう! 私は、絶対生きていたい!」

 初めて、自分の意志でそんな前向きな言葉を言った。死にたくても勇気が出せず、誰かと接するのも怖くて、母さえ見捨てて逃げた私。死んだのかどうか、もし死んだとして、その理由は何なのかもわからないけれど、それでも私の身体の一部が誰かの中で生きているのなら。もう、死にたいなんて思わない。重音くんが私にくれた言葉を、絶対に忘れない。たとえその人の脳の記憶からなくなっていても、私の臓器の一部は覚えているはずだ。だって、そういう事実があるって、重音くんが教えてくれたから。

 だけどこんなフェードアウトは、やっぱり淋しい。唐突で、呆気ない。私は何も伝えられていないのに。

 でも、覚えている。初めて触れることのできた喜びと、重音くんの肩の体温。ぶっきらぼうだけど、優しい声。

 人は思い出だけでは生きてはいけないと言うけれど、私はきっともう死んでいる。でも、誰かの中で一部だけでも存在しているとしたら、永遠に忘れない思い出にしよう。

 私はまた涙を流していたけれど、滲む視界の中に少しでも長く重音くんの姿を留めておこうとした。



 半狂乱になっている錯乱した母。手には重くて固い、ガラス製の灰皿を持っている。

 私の何が母を刺激してしまったのかわからない。突然怒り狂った母には、手を付けられない。私は逃げ惑うしかなかった。

 せっかく母のもとから逃げて、少しは穏やかな一人暮らしができると思っていたのに。

 病院から抜け出したと私の携帯電話に連絡が来た時はもう、母はそこにいた。ちょうど自宅の玄関の鍵を挿した時に電話があったので、通話ボタンを押しながら扉を開けた。それが私の運の尽き。

 後頭部に鈍痛があった。殴られたのだと思う。私は煙草なんて吸わないから、灰皿は母が持ってきたのだろう。

 電話機に向かって「痛い……助けて……」と呟いてから、私の意識は永遠に消えた。

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