第8話
「何だか謎解きみたい」
ふとこぼした言葉を、彼がさりげなく拾い上げてくれる。
「ならいいじゃん。謎ならいずれ解決するってことだろ」
思いがけず返された優しい言葉に、私はきょとんとして見返してしまう。
「何? 俺何かおかしいこと言ったか?」
「ううん、そうじゃないけど。何だか、人と話すの、久し振りだなぁって思って。それにあなたはとても優しくて、正しいことを言ってくれる気がするの」
「本当に正しいかどうかは、その時にならないとわからないけどさ。だからその、あなたとかいう呼び方やめない? 重音でいいよ。名字、嫌いだから」
それだけで、私ですら「家庭環境がよくないのかな」と察することができる。自分にも思い当たるからだ。だから踏み込まないことにする。
「あ、うん。じゃあ、重音、くん?」
「何でもいい。俺も美咲でいい? 名字似てるから」
「いいよ」
子供は自分の名前を選べない。下の名前なら、きちんと理由があって、ある程度の手続きを踏めば変えられるらしいけれど、名字は無理だ。唯一可能なのは、親が離婚した時に母親について行って姓を戻してもらうくらいだけれど、重音くんの家庭環境がわからない。それに重音くんは男の子だから、婿養子にでも行かない限り、その名字からは逃れられないし、後世に残すことにもなる。
理由は訊けないけれど、嫌だと言うくらいだから、私はそのまま受け入れた。誰にだって、踏み込まれたくない部分はあるし、逆にもっと聞いて欲しいことだってある。重音くんは、そんな私の言うことをきちんと受け止めてくれているのだし。
私自身でさえ本当なのかどうかわからないし、自信も持てないことなのに、重音くんはごく普通の生きている人のように、そして私を色眼鏡で見ないで話してくれる。周囲の人が変な目で見て通り過ぎて行ってもお構いなしだし、私が普通じゃないこともそう特別視しない。
生きていた頃──自分の身体があった頃でさえ、こんなふうに接してくれた人はいなかった。思い出せるのはせいぜい昔のアパートの大家さん夫妻くらいだったけれど、それも最後は嫌な思い出になってしまったし。
「私の記憶が断片的なのは、人格が他にあるからなのかな?」
ひとまず家に帰ってみようと思っていたのに、つい離れ難くて疑問を口にする。この先、もう誰とも話せないかも知れないし、大学生という重音くんは物知りみたいだし、できればもう少し情報を──というのは、きっと言い訳だろうと薄々気付いてはいるけれど。
「わからない。大学でも心理学は取ってないから、無責任なことは言えないけど。昔読んだ本の話でよければ、そういう場合もあるってのは見たことがある気がする」
「本、読むの好きなんだね」
「あ? ああ、まぁ、似合わないってよく言われるけどな。驚くほどでもないと思うんだけど、相当似合わないらしい。別に他に興味のあることがないから、一番手近なところに本があったってだけなんだけど。読んでると気が紛れるし、暇潰しにも気分転換にもなるだろ。趣味ってほど高尚なもんじゃないから、好きな作家とかジャンルとかは特にないよ。あるのを適当に手に取ってるだけ」
「でも、博識で羨ましい」
「ならあんたも読めばいいじゃん。今は無理だろうけど、もとの身体に戻ったらいくらでも読めるだろ」
「……そうだね」
私にはまだ未来がある。そんな言い方を、多分無意識なのだろうけれど、重音くんはしてくれる。私がこれまでの短い人生の中で、何度自殺を考えたかなんて、もちろん知らないからだろうけれど。考えただけならかなり綿密で詳細だったけれど、結局未遂すらできなかったから、私はただの意気地なしだ。
「で? あんたこれからどうすんの?」
「え?」
突然の問い掛けに、私は思わず返す言葉を失う。取り敢えず知っている場所まで帰って、とは思っていたけれど、漠然と考えていただけだ。
「俺、結構生霊と関わったけど、こんなに長く話したことはなかったし、あんたみたいにややこしい相手もいなかったからさ。大抵は『あんた生霊だから、自分の身体見つけたらもとに戻れるよ』って言うだけで、喜んで探しに行ったし。まさか自分の身体の在り処がわからないとか、直前までの記憶もないとか、更には他にも人格があるかも知れないなんてのは、さすがに初めてだ。瞬時に解決できる話じゃないだろ。あんた、自分の居場所もわからないのにさ。今いる場所も、身体の在り処も含めて」
「そう、だ……」
確かにそうだった。改めて現実を突き付けられて、寒くもないのに身体が震えるような気分になる。無意識に自分の身体を両腕で抱いた。
私は、これからどうしたらいいんだろう? ひとまず自分の家に戻ったとしても、四年も家賃未払いで住む人もいない状態の空き部屋が、そのままであるはずがない気がする。ならば会社に行ってみようか? 少なくとも、様子を窺うことくらいはできるだろう。
ここから東京方面への行き方は重音くんに教えてもらうとして、しかしその途中で忘れたり迷ったりしたら、そこから先どうすればいいのかわからない。スマホも持っていないし、この世界のものには私は何にも触(さわ)れない。重音くん以外。
だから本やネットで調べることもできないし、駅員さんやその辺にいる人に訊ねることもできないのだ。
私が改めて考えて途方に暮れていると、重音くんがものすごくぶすっとした声で言った。
「あんたさぁ、考えてること顔に出過ぎ」
「え?」
また私は同じ言葉を返す。もともと私はあまり話さない方なので、咄嗟に何か言われたりすると、何を言えばいいのかわからないのだ。そのせいで、余計に周囲の人を苛立たせてしまうようなのだけれど、自分ではどうしようもない。
「行くとこなくて困ってるんだろ? 察してしまう俺も嫌になるけど、あんたがわかりやす過ぎるんだから仕方ないし、わかってて放置するとかもさすがにできないんだよな、俺。それでしょっちゅう損してるのに、全然学べない」
「……はぁ」
呆れられているようだったけれど、それは私に対してだけではなく、重音くんは自分にも思い当たるものがあるようだった。
「あんたが嫌じゃなかったら、来てもいいけど?」
「来ても……って、どこに?」
「この話の流れで、あんたこそどこに行くつもりなわけ? 俺ン家に決まってるじゃん」
「えええ!?」
さすがにびっくりして、誰にも聞こえないからいいものの、結構な遅い時間の住宅街にいるにも関わらず、大きな声を出してしまった。重音くんだけが片耳を押さえて眉間に皺を寄せる。うるさいよね、聞こえていたら、やっぱり。
「いやまぁ、わからなくはないけど。いきなり見ず知らずの男に家に来いとか言われても、普通は驚くし困るだろうな。だから、嫌じゃなかったら、って言ってるんだけど」
「そう、だね。ありがとう、だよね。そんな親切な人、そうそういないよ……」
「親切ってわけでもない。何か乗りかかった船っていうか、この体質のせいで俺も困ってる人はそれなりに見てきたから。見て見ぬフリができないだけの、ただ生きるのが下手な奴ってだけ」
照れたのか、本当にそう思っているのかはわからない。けれど、私にとって重音くんの言葉は救いでしかなかった。縋れるものが他にないのだから。
「あの、じゃあ、図々しいけど、お邪魔してもいいかな?」
「俺から言ったんだし、別に邪魔じゃない。すぐそこだから、ついてきて」
くるりと踵(きびす)を返した重音くんから二歩分くらい後ろを私は歩いていく。相変わらず自分の足の裏で地面を踏んでいる感覚はないけれど、〈どこかに向かう〉ということがこんなにもウキウキするものだということを、私は初めて知った気がした。私に行けるところがあるというのは、それほど貴重な体験だったから。
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