第2話

 ふと。多分、今、目が合った。

 これまでどれだけの人の前に顔を近付けても、まったく視線が交わることはなかったからこそ、その人とは確かに目が合ったと断言できる。その証拠に、相手は目を逸らした。

 見えたのに、逸らした。

 見えていないならそもそも逸らす必要はないし、合ってもいない視線を逸らすこともできないはずだ。

 ただ、相手の表情は何も変わらなかった。「厄介なモノを見た」という感じはなく、「見なかったことにしよう」とか「アレは何だろう?」というふうでもない。

 単純に目が合って、けれど見知らぬ他人だから挨拶する必要はないし、じっと見つめている理由もないから逸らしただけ、というように、ごく普通に目が合って、ごく普通に目を逸らした。

 けれど私にとってはそんな簡単な話ではない。だから、賭けるしかなかった。

 目が合うなら見えているはず。見えているとすれば、もしかしたら声が聞こえる可能性もある。

 だから私は追いかけた。とは言え、何となく宙に浮いているので、アスファルトを蹴っているような感覚はない。自分の身体を感じられるから、普通に歩くように足を動かしてはいるものの、実際には足の裏に地面に触(ふ)れることはなかった。そのせいか、走った気分にはなっても、息切れなどはしない。あんなに体力のない貧相な私が、動く歩道で移動したかのように簡単に相手との距離を詰めた。

「あの」

 声を掛けながら、何度も触(さわ)れないことを確認してしまっていたせいで、つい流れのまま相手の肩を叩こうとした。すると、本当に触(さわ)れてしまった。私の手が、相手の肩に乗る。

 突然肩を叩かれて相手もびっくりしたとは思うけれど、私の驚きはそれ以上だ。しかも、どうやら声も聞こえたらしい。

「何?」

 そう不審そうに振り返った声に、私はどこか懐かしさを感じた。ちゃんと、人の声だ。それも、私に向けられている。

 けれどまさか触れられるとも返事があるとも思わなかったこともあり、私は次の句が継げないでいた。すると相手はうんざりとしたように嫌なものを見たような表情になって私をじっと見つめ、諦めたように大きな溜め息をついた。

「目を合わせたのが失敗だった」

 心底悔やんでいるような声だったけれど、意味がわからなくて私はきょとんと見つめ返すしかできない。

「あんた、生霊だね」

 は? ──という声も出せなかった。生霊? 私が? どうして?

 声も出せずに首を傾げると、相手は更に面倒臭そうに言った。

「身体はまだ生きてるみたいだけど、意識っていうか魂っていうか、そういうのだけが抜け出てる状態、って言えばわかる? 俺も別に専門家じゃないから、詳しくは知らないけど」

 素っ気ない男の子の言い方に、ちょっと怖いな、と思いながらも、こんな機会がまた訪れるのを待っていられる心の余裕はない。相手を選べる立場でもなさそうだし。だから何とか言葉を絞り出す。

「……でも、あなたには私が見えていて、声も聞こえるんでしょう? なのにどうして生きた人間でも幽霊でもなくて、生霊だってわかるんですか?」

 できる限りの努力で、弱々しいながらもなるべくはっきりと声を出して訊いた。それでも返答はまた素っ気ない。

「知らない。視えるのは俺が気付いた時にはそういう体質だったって感じで、ただ視えたり聞こえたり触(さわ)れたりするだけ。そもそもあんたちょっと宙に浮いてるし、生きてる人間とは思えない。幽霊じゃなくて生霊だってわかるのは、ただの経験則。別に霊能者だの何だのに証明してもらったわけじゃないけど、そんな胡散臭い奴の話より、俺は自分の感覚を信じてるだけ。無事に自分の身体に戻ったって人がお礼に来たことがあったり、死んだ人の葬式に行っても何も視えなかったり、そういう感じで学習した。好きでこんな体質になったわけでも、何か特別な修行をしたわけでもない。ウチが寺とか教団とかっていうのでもないし、血縁者にもそういうのはいないと思う。ただの突然変異の特異体質みたいなもんだと思ってるけど」

 本当にどうでもよさそうに投げやりな感じで言うので、あまり男の子に慣れていない私は、やっぱりちょっと怖いな、と思ってしまう。できれば優しそうな大人の女の人に見つけてもらいたかったけれど、そんな贅沢の言える立場でもないし、望んだところでどうなるわけでもない。

 とにかく今は、私を認識してくれるのがこの人だけだったから、せめて最低限の情報だけでも聞かせてもらいたかった。

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