死んでからわかった、私のいろいろな本当のこと

桜井直樹

第1話

 祈るように、ぎゅっと手を握って目を瞑っていた。

 場所と状況のせいで老け込んで見えるだけで、実際の年齢はもう少し若いのかも知れない。

 祈るように、というより、実際に本当に祈っているようにも見える。

 神でも仏でも誰でも、何なら悪魔だって構わない。だから、とにかく助けて欲しいと。

 せっかくもらった命を、こんな形で失って欲しくはない、と──。


               ***


 気が付くと、私は宙に浮いていた。別に空を飛んでいるわけではないけれど、足の裏は確かに地に着いていない気がする。

 もう死んでしまったのか、瀕死の重体になってまだ生死の境を彷徨(さまよ)いながらの幽体離脱状態なのかはわからない。そもそも、今に至るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまっているようなのだ。

 だから、職場で突然倒れて救急搬送されたのか、夜道を歩いていて通り魔に刺されたのか、一人で躓いて転んで打ちどころや運が悪く、誰にも見つけてもらえていないのかさえわからない。

 現状の私が覚えている最後の記憶は、高校時代に同じグループで仲良くしていた一人が今度結婚することになったということを、本人ではなくまだ年賀状だけで辛うじて繋がっているレベルの、当時の同じグループにいた他の友達から電話が来て教えられたことだ。

 彼女はとっくに結婚どころか出産もしているせいか、祝福するべき友達にはとても言えないような自分の家庭の面倒な愚痴を聞かされ、挙句の果てに「結婚なんてするもんじゃないわ」とまで言い、どこか結婚話どころかそんなことを考えるような相手もいない私への当てつけのようにも受け取れて、不快な気分でいた。

 それでも声には出さないように気を付けて相槌を打ちながら、こっちはさっきまで寝ていた優雅な身分で、シャワーすらまだなんだけど、などと思いながら適当に愛想よく相手をしていた。

 もしもそれが本当に私の生前(?)の最後の記憶なのだとすれば、知らぬ間にどこかに隠れていた侵入者が、私の気付かないうちに背後からでも刺したとか、そういうことになるのかも知れない。

 しばらくふわふわとした心と身体で、まったく見覚えのない住宅街を彷徨ううちにわかったことは、私の姿は誰にも見えていないらしいこと、私は何にも触(さわ)れないこと、話し掛けたつもりで自分の声は聞こえても、相手にはまったく届いていないらしいということ、などという、前向きにはなれない収穫だけだった。

 食欲もないし、トイレに行きたいとか寒いとかいう感覚もないのは助かるけれど、自分で自分を触ることだけはできたので、誰かにぶつかりそうになって咄嗟に身を躱(かわ)したものの、少し当たってしまったと思っても、当然相手と接触せずに通り抜けてしまうので、文句を言われることがない代わりに、私の存在に気付いてすらもらえないと理解した時は、とても淋しくて、そして怖かった。

 もしも本当に幽霊になってしまったのなら、他にも同じような存在が見えたりはしないものかと考えたけれど、生憎お仲間らしき相手にはまだ出会えていない。世の中で私だけがたった一人の幽霊というわけでもないだろうに、見知らぬ場所をうろうろしているだけでは同類に出会える確率はそう高くはないのだろうか。

 それとも、生きている人からだけでなく、幽霊になったら相手が幽霊であっても、お互いが見えなかったりするもの? 霊感がなかったりすると?

 自分自身の生死すら不明で、更には今いる場所すらわからなくて、それを知る術もない。そこらを行き交う人に声を掛けまくったけれど、見事に全員にスルーされてしまって、さすがに心が折れそうだった。コンビニで週刊誌でも見ようかと考えたけれど、触(さわ)れもしない。時計はあったけれど、カレンダーなどは普段町中(まちなか)で見掛けることなんてないものなんだと、私は初めて知った。あれは大抵家の中にあるもので、もちろん会社や店舗にもあるけれど、コンビニや普通の通りなど、ふらりと立ち寄るだけの場所にはないようだと改めて知る。

 周囲はすっかり日が暮れているので、夜なのだということはわかる。少し離れた場所には線路があるようで、時々電車の走る音が聞こえるので、まだそこまで遅い時間でもなさそうだ。コンビニで見た時計が間違いないなら、夜の九時を過ぎたところ。朝になれば新聞が売り出されるはずで、それを見られれば日付はわかるだろうし、もし地方紙などがあれば、せめて自分がいる県くらいは知れる可能性もある。

 見て回ったところは普通のどこにでもありそうな住宅街で、海も山もなく、近くに電車が走っていて、二十四時間営業の有名なチェーンのコンビニもあるから、そう田舎にいるわけでもないと思う。

 霊感の強い人は霊が視えるとか、気配を感じるとか言うけれど、大人でも子供でも、人を見付けるたびに駆け寄って確認しても、誰も私を認識してくれなかった。結構な数を当たったのに、誰一人ヒットしない。「あれ?」という顔すらされないし、あまりにも自分の存在を〈無〉にされているのが哀しくなったので、今はもうやめた。

 まだここが見知った場所なら、家に帰ることくらいはできるのに。そうすれば、少なくとも私がどういう状態になっているのかもわかるはず。実家の仏壇に遺影が飾ってあれば諦めるしかないけれど、知っている人が慌ただしくしていれば、まだ病院で生きている可能性もある。

 とにかく何でもいいから、情報が欲しい。

 今の私にわかることは、こんな時間にまったく行ったことも見たこともない知らない場所に、感覚で言えば突然放り出されて、そして紛れもなくどうしようもなく〈ひとりぼっち〉だ、ということだけだった。

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